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鋼の檻に咲く黒百合 ~魔力最低で騎士になれなかった少女が、秘めた魔眼によって夢を取り戻す~  作者: しぇくしーふっふー
序章

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第十話 最後の日

 6月29日の夜。


 綾目は自室の机に向かっていた。


 明日の準備はもう済んでいる。荷物はまとめてある。制服も必要なものも、すべて揃えた。あとは眠るだけだった。


 だが、綾目は机を離れなかった。


 その前に父の形見の刀を手入れしていた。鞘から抜き、刃を拭い、打ち粉を当てる。いつもの手順だ。だが今夜はいつもより丁寧だった。


 明後日から騎士学校に通う。両親のような騎士になる道を歩き始める。この刀を振るっていた父。前線にいたという母。二人の背中を、綾目はもう正確には思い出せない。それでも、こうして刃と向き合っていると、その思いだけは手の中に確かに残っている気がした。


 刀を鞘に納め、綾目は机に向き直った。


 便箋を二枚、取り出した。


 手紙を書こうと思い立ったのは、ついさっきのことだった。


 マギスレートで連絡する手段はある。だが、それでは何か違う気がした。こういうことは手で書くべきだと、なんとなく思った。


 両家の対立に疲れて、一人暮らしを選んだ。それは今も変わらない。あの日、両家の親族の前で「どちらの世話にもならない」と告げたあの判断を、後悔はしていない。


 だが——嫌っているわけではなかった。


 育ててくれた恩はある。ぶつかり合いながらも、二人とも綾目を案じていたことは分かっている。騎士になるという夢に踏み出す、その節目だからこそ——自分から区切りをつけておきたかった。


 これまでは、距離を置くばかりだった。


 今夜は自分から筆を執る。


 綾目はペンを取った。


 比良坂家へ一通。鳴海家へ一通。


 別々に書く。それが当然だった。二つの家に同じ一通の手紙では送れない。


 最初の一枚に、ペンを下ろす。


 「これまで育てていただいたことに、感謝しています」


 淡々とした文面だった。感情的な言葉は得意ではない。何をどう書けばいいのか、何度か手が止まった。


 「7月1日より、帝立アーマリア騎士学校に編入します」


 そこまで書いて、次の一文を書こうとした。


 「立派な騎士に——」


 ペンが止まった。


 「立派な」という言葉をしばらく見つめた。違う、と思った。自分が目指しているのは漠然とした立派さではない。あの二人の背中だ。こんな一言で、誤魔化したくなかった。


 綾目は便箋を一枚取り替え、最初から書き直した。


 「両親のような騎士になれるよう、努めます」


 その方がしっくりきた。


 綾目は同じように、もう一枚を書いた。比良坂家への手紙と、鳴海家への手紙。文面はほとんど同じだった。だが、別々の便箋に別々に書いた。


 書き終えて、二枚をそれぞれ封筒に収めた。


 宛名を書く。


 「比良坂厳哉様」


 「鳴海宗一郎様」


 それから、それぞれの祖母の名も連名で添えた。


 二通の封筒を机の端に並べて置いた。


 明日、投函しよう。


 返事が来るかどうかは、考えなかった。それは重要ではなかった。自分から区切りをつける——その行為そのものに綾目にとっての意味があった。


 綾目は灯りを消し、眠りについた。



        ◇



 6月30日。


 いつも通りの朝だった。


 綾目は登校の途中、郵便ポストの前で足を止めた。鞄から二通の封筒を取り出し、投函口に滑り込ませる。とん、と軽い音がして手紙は見えなくなった。


 それだけだった。


 綾目はまた歩き出した。


 エリシオン帝立学院に着くといつも通りの教室がそこにあった。いつも通りの席。いつも通りの顔ぶれ。


 綾目が転校することはクラスに周知されている。それでも、特別に何かが変わるわけではなかった。誰かが駆け寄ってくることも、別れを惜しむこともない。朝の挨拶を交わす程度の相手はいた。それ以上の関係は築かなかった。


 (友達と呼べる存在は、できなかったな……)


 授業を受けながら、綾目は内心で静かにそう思った。


 (軽く話す相手はいた。それ以上でも、それ以下でもない、2ヶ月だった)


 それは、寂しさではなかった。事実の確認だった。自分はそういう2ヶ月を過ごした。誰のせいでもない。自分がそういう距離の取り方をしてきた結果だ。


 (……それでも、最後の日は何か感じるものがある)


 授業も、昼食も、いつも通りに過ぎていった。だが、「最後」という一語が、その普通の一日に静かな重みを与えていた。同じ景色が少しだけ違って見える。次に来ることのない教室。次に座ることのない席。そういうものとして目に映っていた。



        ◇



 最後のホームルームが来た。


 担任に促され、綾目は教室の前に立った。


 クラス全員の視線が集まる。綾目はいつも通りの無表情で、軽く頭を下げた。


「2ヶ月間、お世話になりました」


 淡々とした声だった。


「騎士学校でも頑張ります。……ありがとうございました」


 それだけだった。感傷的な言葉は、出てこなかった。出そうとしても、出てこなかっただろう。それが綾目らしさだった。


 短い拍手が起きた。


 綾目が席に戻ろうとしたその時。


 クラスの一人が立ち上がった。


 手に大きな冊子を持っている。それを綾目に向かって差し出した。


「これ、みんなからの寄せ書きです。……というか、学校中から集まったやつで」


 綾目はその冊子を受け取った。


 思ったより分厚かった。


 席に戻りページを開く。


 最初のページに見覚えのない名前と、短い言葉が並んでいた。


 「ありがとう」


 「あなたのおかげです」


 「騎士学校でも頑張って」


 ページをめくる。知らない名前が続いていた。同じクラスの生徒だけではない。別の学年、別のクラス——おそらく、学校中の生徒が書いている。何十枚も続いていた。


 あの日のことは公式には公表されていない。テロを食い止めたのが綾目だという情報は表には出ていない。


 だが、学校関係者の間では知られていた。あの日、たった一人でテロリストに立ち向かった生徒がいたことは。


 ページをめくる手が、一瞬止まった。


 あの日——綾目は警備機のコックピットで恐怖に固まっていた。震える手でシャープペンシルを太ももに突き立てて、それでも立ち上がった。倒れた騎士の剣を握ったまま動かなくなった手。あの光景が今も頭の隅にある。


 あの日から今日まで綾目は——自分のしたことに「意味があった」とはっきり感じたことがなかった。人を殺した、という事実の重さばかりが先に立っていた。


 今——初めて感じた。


 この何十枚もの「ありがとう」が、それを伝えていた。守られた人たちがいる。守られたことを、覚えている人たちがいる。それは、確かな事実としてここにあった。


 綾目は泣かなかった。


 ただ、冊子を静かに閉じた。胸の奥に、何かがゆっくりと落ちて収まっていく感覚があった。言葉にはならない。だが、確かに何かが届いていた。


「……ありがとうございます」


 もう一度、綾目は、そう言った。


 今度の言葉はさっきより、ほんの少しだけ重みがあった。



        ◇



 放課後。


 綾目は冊子を鞄に収め、校舎を出た。


 正門へ向かう。その途中で綾目は足を止めた。


 人の気配がない。


 放課後の正門前は本来なら、下校する生徒で賑わっているはずだった。だが——誰もいない。


 気配感知が告げていた。人払いがされている。意図的にこの一帯から人が遠ざけられている。


 そして——正門の前に人影が一つ。


 一人で立っていた。


 銀寄りブロンドの髪。気品ある立ち姿。柔らかな顔立ち。


 第四皇女、セレナ・アウレリア。


 護衛はいなかった。皇族が一人で。


 綾目はその意味をすぐには測りかねた。なぜ、皇女が護衛もつけず、こんな場所に。


 セレナの表情はいつもの「公式の微笑」ではなかった。もっと静かで、もっと真剣な何かが、そこに宿っていた。その視線は、まっすぐに綾目を捉えている。


 綾目が近づくと、セレナが口を開いた。


「綾目様」


 澄んだ声だった。


「あの日、私たちを守るために、その身を傷つけてまで戦ってくださったことを——心より、感謝申し上げます」


 そして、セレナは頭を下げた。


 第四皇女が。一人の生徒に向かって。深く。


 綾目は思わず一歩後ずさりそうになった。


「……頭を上げてください」


 綾目は慌てて言った。


「皇女殿下が私のような者に頭を下げることは——」


 セレナが頭を上げた。そして、穏やかに綾目の言葉を遮った。


「あなたは私の命を、多くの命を守ってくださいました」


 その目は揺らがなかった。


「この感謝は皇族としてではなく——一人の人間として、あなたに伝えたかったのです。だから、護衛も人払いも。公式の場ではできないことだから」


 綾目は言葉に詰まった。


 それからようやく口を開いた。


「私は……私にできることをしただけです。あの場にいて、あの機体があって。他に、選択肢がなかっただけで——」


「それでも」


 セレナは、静かに、しかしきっぱりと言った。


「あなたのおかげで、多くの命が救われました。その事実は何があっても変わりません」


 綾目は何も言えなかった。


 短い沈黙が二人の間に落ちた。


 やがて、セレナが微笑んだ。今度は少しだけ柔らかい微笑みだった。


「どうか、騎士学校でもご健勝に。——来るべき日を、お待ちしています」


 その言葉の意味を綾目が測りかねていると——


 セレナが、一歩近づいた。


 そして、綾目の頬にそっと唇を当てた。


 ほんの一瞬だった。


 綾目は動けなかった。


「……私の騎士様」


 最後のその一言だけ。


 声のトーンが、わずかに変わった。


 それまでの格式ある言葉とは——質が違った。もっと密やかで、もっと個人的な何か。胸の奥から、無意識に零れ落ちたような響きだった。


 セレナは身を引いた。


 優雅に一礼すると踵を返す。少し離れた場所で待っていたらしい護衛と合流し、歩き去っていく。その背中が、角を曲がって見えなくなるまで——綾目はその場から動けなかった。



        ◇



 マンションへの帰り道。


 綾目の足取りは、いつもよりずっと遅かった。


 頬にまだ感触が残っている気がした。


 (私の、騎士様……?)


 その言葉が、頭の中で繰り返される。


 (殿下は、私のことを——何だと思っているのか)


 考えても、答えは出なかった。皇族が一人の生徒を「私の騎士」と呼ぶ。その意味するところが、綾目にはうまく掴めなかった。


 (それより、なぜ護衛なしで。なぜ、人払いまでして)


 一人の人間として感謝を伝えたかった——セレナはそう言った。理屈は分かる。だが、頬にキスをする、というところまでは理屈で説明がつかなかった。あれは感謝の表現として、過剰ではないのか。


 (……来るべき日、とは)


 考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。


 綾目は、普段、物事を合理的に整理できる方だった。状況を分解し、要素ごとに判断する。それで、たいていのことは片がついた。


 だが、今は——うまくいかなかった。


 いくつもの疑問が、ばらばらに浮かんでは繋がらないまま、宙に漂っている。整理しようとするほど、こんがらがっていく。こんなことは珍しかった。


 (……考えていたら、頭が痛い)


 綾目は、そこで考えるのをやめた。


 今は答えの出ないことだ。いずれ、分かる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらにせよ、今は結論は出ない。それなら、抱えたまま進むしかない。


 マンションに着いた。


 ドアを開けると、いつも通りの静かな部屋がそこにあった。誰もいない、自分だけの空間。


 綾目は鞄を置いた。中には寄せ書きの冊子が入っている。


 今日はいろいろなことがあった。寄せ書き。セレナ。整理しきれないことばかりだった。


 それでも、ひとつだけはっきりしていることがあった。


 明日から騎士学校だ。


 両親のような騎士になる道が、明日始まる。


 ——それだけは確かだった。


 綾目は窓の外に目を向けた。帝都エリシオンの空が、夕暮れの色に染まり始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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