第十一話 編入初日
遡る事数日前。綾目の国防総省長官室での面談、その前夜。
ソフィア・ネーゲルシュタインのマギスレートが震えた。
画面を見るとレティシアからの通話だった。応答すると、明るい声が飛んできた。
「ソフィアちゃん、ちょっといい? 明日、面談に来る子の話なんだけど」
ソフィアはベッドの端に腰を下ろした。
「比良坂綾目ちゃん。同い年で、7月から同じクラスになる予定の子」
「……はい」
「その子と、友達になってあげてほしいんだ」
ソフィアは少し間を置いた。
「……それは、命令ですか」
画面の向こうでレティシアが一拍置いた。それから、はっきりと言った。
「命令じゃないよ。お願い。——ソフィアちゃんが嫌だって言うなら、友達にならなくてもいい」
ソフィアはその言葉を静かに受け取った。
命令ではない。拒否できる。自分の意思で決めていい——そう言っている。
(友達。自分で、選んでいい)
命令に従い続けてきた自分には、その言葉がひどく奇妙に響いた。選ぶということがいまもよく分からないし、友達というものもよく分からない。
ただ——分からないからこそ、試してみることはできる。
「……友達というものはよく分かりませんが」
ソフィアは答えた。
「検討してみます」
レティシアが画面の向慢で柔らかく笑った。
「うん。お願いね」
◇
7月1日の朝。
帝立アーマリア騎士学校の正門が見えてきた。
石造りの重厚な門柱に帝国の紋章が彫り込まれており、槍を持った衛士が常駐している。敷地の奥には本校舎の屋根、その向こうにグラム格納庫が見えた。
制服の肩を一度確かめる。深い紺色の生地に銀の刺繍——特別選抜科の証だ。昨夜初めて袖を通した時は少し硬かったが、着れば馴染む。そういうものだ。
エリシオン帝立学院とは空気がまるで違う。あちらは学問の場だったが、ここは——規律の場だ。踏み込む前からそれが分かった。
綾目は歩みを進めた。
そして——正門の脇に人影があった。
淡い銀髪に、小柄で華奢な体つき。こちらを見て、無表情のままただ立っている。
ソフィア・ネーゲルシュタインだった。
(待っていた……?)
綾目は一瞬足を止めた。同じクラスだとは聞いていたが、正門で待っているとは思っていなかった。
「……来ましたね」
ソフィアが言った。感情の乗らない、平坦な声だった。
「案内します」
それだけだった。説明も理由も一切ない。ただ当たり前のように踵を返して歩き始めた。
(わざわざ、待っていてくれたのか)
綾目はその事実を静かに受け取った。
放置してソフィアの後について歩きながら、少し肩の力が抜けるのを感じた。知らない場所に知っている人が待っていてくれた、それだけのことなのに、それだけのことが確かに何かを和らげた。
◇
ソフィアの案内は端的だった。余計なことは言わず、ただ必要な説明を必要な場所で必要な分だけする。
「まず、学園長室に向かいます。編入手続きの一環として面談があります」
案内された部屋は、落ち着いた調度の応接室だった。
椅子に座って待っていたのは、白髪交じりの銀髪のエルフだった。外見は60代に見えるが、エルフという種族の常として実際の年齢は見当がつかない。穏やかな微笑みを顔に貼り付けているが、その目だけが笑っているかどうか分からなかった。
「ようこそ、比良坂綾目くん。エルウィン・セイジです。学園長を務めています」
声も表情と同じく穏やかだった。
「君のことは聞いています。歓迎しますよ」
一通りの歓迎の言葉が続いた。内容は丁寧で言葉は選ばれていた。それ自体には問題がない。問題は——その言葉の奥に、何か別の層があるような気がすることだった。試しているような、あるいは値踏みしているような。
「魔力D−での編入」について、エルウィンは何も言わなかった。まるで最初からその事実を知っていて、当然のこととして受け入れているかのように。
(この人は……何を考えているか読めない)
綾目は笑顔を崩さないエルウィンを見ながら、内心でそう思った。敵ではないだろうが味方とも言い切れない。腹の底がどうしても見えなかった。
面談は短く終わった。エルウィンは最後に言った。
「何か困ったことがあればいつでも。楽しい学校生活を」
笑顔のまま、それだけだった。
◇
寮棟は本校舎から渡り廊下で繋がっていた。
特別選抜科に割り当てられた個室のドアを開けると、清潔な部屋が現れた。ベッド、デスク、棚。整然として静かだ。一人暮らしに慣れた綾目には、居心地のいい広さだった。
荷物を置きながら鞄の底を確かめた。布に包まれた硬い感触がある。父の形見の刀だ。持ち込んだものの使う予定はない。ただ、手元にあってほしかった。
棚の端に丁寧に置いた。
それだけで、この部屋が少しだけ自分の場所になった気がした。
ソフィアがデスクの上を指した。
「軍用マギスレートです。騎士学校の在籍中はこれを使います」
手に取った。民生版より一回り大きく、重みが違う。起動すると使い魔のアイコンが表示された。無機質な菱形——デフォルトのままだった。
「……このアイコン、変えられるんでしょうか」
「変えられます。デフォルトのままでも問題はありませんが」
「レティシアさんが、好きな動物とかにすると愛着が湧くって言っていた気がして」
ソフィアは少し間を置いた。
それから、自分のマギスレートを操作して画面を綾目の方へ静かに向けた。
黒猫だった。
小さな黒猫が画面の中でちょこんと座り、尻尾を揺らしている。艶やかな毛並みに金色の瞳。気品のある佇まいだった。
「私のはこれです」
「……黒猫」
「気に入っています」
それだけ言って、ソフィアはマギスレートを戻した。無表情のまま、何事もなかったように。
(この子が、こういうものを「気に入る」)
綾目は内心でその事実を受け取った。
(感情がないわけじゃない。ちゃんと、好きなものがある)
「……私も、後で何か設定してみます」
そう答えて、綾目はマギスレートをデスクに置いた。設定の方法まではまだ聞かない。後でいい。今はほかにやることがある。
◇
ソフィアと並んで教室へ向かった。
扉を開けた瞬間、視線が集まった。
好奇、品定め、警戒——様々な温度が混じった視線が一斉にこちらを向くが、動じなかった。視線には慣れている。
近くの席から小声が漏れ聞こえた。
「……魔力D−なんでしょ、あの子」
「テロ事件で何かやったって話らしいけど」
「黒竜と白竜、両方の孫だって……」
(やはり、こうなるか)
教室に入りながら全体をさりげなく見渡した。いくつかのグループが固まっているのが見て取れる。その固まり方に、単純な親しさとは別の何かが滲んでいた。まだ意味は分からない。今は観察だけでいい。
ソフィアが小声で言い始めた。
「同じクラスです。エルゼリス・ファルケンブルク。ミア・レインフォード。ヴァルカ・カルデア。彼女たちは——」
その声が横から遮られた。
「あ、その話なら私に任せて!」
振り返ると、小柄な少女が目をきらきらさせて立っていた。明るい栗色のショートヘアに、大きくて丸い目——ハーフリングだ。体格の小ささを補って余りある存在感がある。
ソフィアは口を閉じた。不快ではなく、ただ「なら任せる」という風に引いた。
「ネル・ファインダー! 情報なら任せてよ」
(ソフィアが何か言いかけていたけれど)
綾目はそう思いながらネルの話を聞いた。
「あの二人ね——エルゼリスちゃんとヴァルカちゃんは、全学年でも最強クラスの実力者んだよ。1年なのに上級生でも勝てる人が少ない」
「エルゼリスちゃんは剣技が1年で敵なし。ヴァルカちゃんは生身の魔法戦なら学校一って噂。タイプは全然違うけど、どっちもやばいから」
それから金髪の少女の方へ視線を向けた。
「あ、それとミアちゃんは大企業の社長令嬢で何でも調べちゃう情報通。あなたのことも、もう色々知ってるかもよ?」
「……そうなんですか」
ネルが喋っている間、ソフィアは黙って立っていた。綾目が「ソフィアさん、さっき——」と向くと、
「……ネルの言う通りです」
それだけ返った。短いが、決して突き放した言い方ではなかった。
(剣技の最強と、魔法の最強。それに、情報屋タイプが一人)
綾目は内心で整理した。
三人ともこちらを意識していた。目が合った竜人族の少女——エルゼリスの瞳に何かがよぎる。観察か対抗心か、まだ判別できなかった。眼鏡の少女——ミアは分析するような視線を寄こし、目が合うとにこりと微笑んだ。赤い髪の少女——ヴァルカは腕を組んで、品定めするように綾目を見ていた。
三人とも、反応の理由が分からない。
(面白い面子が揃っている)
◇
やがて、担任教官が入ってきた。
暗い紫がかった黒髪を束ねたダークエルフだった。切れ長の琥珀色の瞳をしており、軍服に近い教官服をきっちりと着こなしている。感情の起伏が読みにくく、それでいて長く戦場を生きてきた者の静かな圧があった。
ヴィルナ・ドルフ。事前に名前は聞いていた。
「比良坂綾目。本日付で特別選抜科に編入した。以上」
素っ気ない紹介だった。
綾目は立って、短く頭を下げた。
「比良坂綾目です。よろしくお願いします」
席に戻る直前、ドルフの視線が一瞬だけ綾目に向いた。紹介のための視線ではない。何かを確認するような——観察するような目だった。綾目はそれに気づいたが、何も言わなかった。
オリエンテーションが始まった。今後の学校生活の流れ、一学期はシミュレーション訓練が中心、実機は二学期から——第9話でソフィアが話していた内容とほぼ一致していた。
(聞いた通りだ)
綾目は淡々とノートを取った。
◇
初日が終わった。
教室を出ると、ソフィアが自然な動作で隣に並んだ。特についてきたという感じではなく、同じ方向だから、という風情だった。それで十分だった。
渡り廊下を歩きながら、綾目は短く言った。
「今日はありがとうございました」
「……特に、何もしていません」
「いえ。正門で待っていてくれて、案内してくれて。助かりました」
ソフィアは何も言わなかった。
ただ——わずかに目を伏せた。
照れているのか戸惑っているのか分からないが、その微かな反応は確かにそこにあった。いつもの無表情とは、ほんの少しだけ違う何かが。
(騎士になるための日々が、始まった)
夕方の光が、渡り廊下の窓から差し込んでいる。ソフィアの銀髪が、その光にうっすらと照らされていた。
知らない場所、知らない人々の中で、今日は一人じゃなかった。正門で待っていてくれた。寮を案内してくれた。席の隣にいてくれた。それだけのことが、確かに今日を支えていた。
隣を歩くソフィアを、ちらりと見た。
(この子と、うまくやっていきたい)
友達になれるかどうかは、まだ分からない。でも、そう思っていた。この子のそばにいると——心強い。うまく説明できないけれど、確かにそう感じていた。
こうして騎士になるための日々が始まった。




