第十二話 宣戦布告
6月下旬、夜。
エルゼリス・ファルケンブルクは自室のデスクに向かっていた。
灰色のセミロングの髪が肩のあたりで揺れている。こめかみに小ぶりな角が二本——竜人族の証だ。目鼻立ちは整っており、お嬢様然とした品のある顔立ちをしている。だが今は、その表情に柔らかさはなかった。一人の時間はいつもこうだ。余計なものをすべて省いた、素の顔になる。
特別選抜科の個室は静かだ。窓の外に校庭と夜空が広がっている。デスクの上には開きかけの書物と、マギスレート。部屋の隅には木剣が立てかけてあった。毎朝の素振りに使うものだ。この部屋に来てから、一日も欠かさなかった。
マギスレートが震えた。
父からだった。
エルゼリスは少し間を置いてからメールを開いた。
——今度そちらに編入してくる生徒について、知らせておく。
国防総省長官からのお墨付きだという話だ。
先のテロ事件で活躍したという噂もある。
黒竜騎士団と白竜騎士団、両方の重鎮の孫娘らしい。用心しておくように。
追伸:夏休みは帰ってくるのか。
エルゼリスはメールを読み終えてマギスレートを置いた。
(国防総省長官のお墨付き。つまり、コネか)
魔力クラスD−で特別選抜科に編入。それだけでも十分すぎるほど異例だった。そこに「長官のお墨付き」とくれば、意味は一つしかない。実力ではなく、後ろ盾によって席を得た者だ。
(テロ事件で活躍、と言うが)
エルゼリスの目が細くなった。
(どうせ些細なことを、両家が大きく膨らませたのだろう。噂というものはいつもそういうものだ)
父は「用心しろ」と書いた。だが、エルゼリスの受け取り方は少し違った。用心する必要があるとすれば、それは相手の実力からではない。「そういう者が、実力もなく隣に並んでくる」という不快な事態に対してだ。
(この学校に、コネで入ってきた者を相手に用心?)
エルゼリスは小さく息を吐いた。
この学校には、相当の覚悟でいる。ファルケンブルクの娘として生まれた自分が「強い」のではなく、エルゼリス・ファルケンブルクとして「強い」のだと証明するために。家名に頼ることは自分のプライドが許さなかった。だからこそ、コネで席を得た者と同列に扱われることがいちばん不快だった。
(身の程を教えてやろう。帝国アカデミーに帰ってもらえばいい)
決意というより、静かな確信としてその考えが固まった。
視線が追伸の一文に戻った。
「夏休みは帰ってくるのか」。
エルゼリスはその一文をしばらく見つめた。
家族が嫌いなわけではない。父も、母も、兄たちも。ただ——帰るかどうか、迷っている自分がいることに気づいて、うまく言葉にできなかった。孤高でいることを選んできた。人との距離をうまく取れないまま、ずっと生きてきた。それは家族に対しても、たぶん同じだった。
返信はまた今度でいい。
エルゼリスはメール画面を閉じた。
◇
7月1日。
エルゼリスは教室の自席に座り、窓の外を見ていた。
今日、あの編入生が来る。魔力D−。国防総省長官のコネ。噂だけが先行する少女。
(どんな者が来るのか、見てやろう)
静かな侮りを胸に、扉が開くのを待った。
扉が開いた。
エルゼリスはその方向に視線を向けた。
——そして、一瞬、言葉を失った。
黒髪だった。烏の濡れ羽色の、長い黒髪。整った顔立ちに、静かで儚げな表情。教室に踏み込んでくるその姿は、エルゼリスが想像していたどんな像とも違っていた。
見惚れた、と気づいたのは数秒後だった。
(……何をしている)
エルゼリスは内心で自分を叱りつけた。
(見た目が少しいいだけだ。顔に惑わされるな。中身は、コネで入ってきた魔力D−の編入生だ)
視線を切る。窓の外へ意識を向け直す。
胸の奥の動揺を、プライドで押さえつけた。
◇
翌日の昼休み。
食堂に入ったエルゼリスは、端の席に一人で座った。トレーを置き、周囲を見渡す。自然な動作のように見えて、その実、ひとつの席を探していた。
見つけた。
綾目がソフィアと並んで食事をしていた。
周囲の生徒が綾目の方をちらちらと見ている。声が聞こえてきた。
「……髪、綺麗だよね」
「おお、美人じゃん」
綾目はそれを聞こえていないふりでトレーに視線を落としていた。ソフィアが何か言い、綾目が小さく頷く。静かな、穏やかな昼食の風景だった。
エルゼリスはその光景を見ながら黙々と食事を取った。
(噂と見た目だけは一人前か)
食べながら視線を外さなかった。観察していた。
綾目の所作は整っていた。無駄な動きがない。ソフィアとのやり取りも短く的確だ。感情を表に出さない、独特の静けさがある。
(…………)
エルゼリスは、自分がまた余計なことを観察していることに気づき、視線を自分のトレーに戻した。
問題は見た目でも所作でもない。実力だ。
綾目がトレーを持って立ち上がった。食べ終わったらしい。
エルゼリスは立ち上がった。
◇
綾目の前に立ったのはほとんど反射的だった。
思い返せば、このために観察していたのかもしれない。隙を待っていたのかもしれない。——どちらでもよかった。
「比良坂綾目さん」
呼びかけると黒い瞳がこちらを向いた。表情は変わらない。動じていない。それがエルゼリスの中の何かをほんの少し刺激した。
「噂ばかりが先行して、面白くないでしょう」
丁寧な口調だった。底にあるものを滲み出させながら。
「実力を見せてもらえませんか。放課後、訓練場で手合わせしましょう」
周囲が静かになった。
食堂の喧騒がすっと引いた。隣の席の生徒がこちらを見た。その次の席も。声は広がっていく。「エルゼリスが、編入生に手合わせを」「1年最強クラスが」「あの噂の——」
エルゼリスはそういった囁きを意識の端に流しながら、綾目だけを見ていた。
綾目は少し間を置いた。
その目がわずかに動いた。何かを計算しているような——感情ではなく、処理しているような目だった。
「……分かりました。お受けします」
淡々とした声だった。
エルゼリスは一つ頷いた。それだけで話は終わった。
(いい判断だ。断られるより、ずっといい)
◇
放課後の訓練場に生徒が集まっていた。
観客席ではない。壁際、窓枠、入り口——あらゆる場所に人が立っている。うまく場所を確保した者は腰を下ろして待っていた。「エルゼリスが編入生に手合わせを申し込んだ」という話は、午後の授業が終わる前には学校中に広まっていたらしい。
1年最強クラスの剣技と、噂の編入生。
見に来ない理由がない。
エルゼリスは訓練場の中央へ歩みを進めた。
観客の視線が集まっている。慣れた重さだった。注目されることには慣れている。視線の圧など問題にならない。
木剣を手に取った。
普段から使い慣れた、洋剣に近い形状のものだ。握り込むとしっくりと手に馴染んだ。手首を返し、一度軽く振る。感触を確かめる。問題ない。
向かいに綾目が立った。
観客席がざわめいた。
エルゼリスはそちらを見た。
綾目が髪に手を当てていた。
長い黒髪を両手でまとめ、後ろで一つに束ねる。それだけの動作だった。
ただ——その動作が終わった瞬間、訓練場の空気がわずかに変わった。
先ほどまでの儚げな美しさはどこかへ消えていた。
代わりにそこにあったのは——何か別のものだった。静けさの質が違う。目の温度が違う。「戦う者」としてそこに立っている。
観客が、気づいたように固唾を呑んだ。
綾目が立てかけられた木刀を手に取った。
握る。
それだけで、その手の収まり方がまるで最初からそこにあったもののように見えた。
エルゼリスは正面からその様子を見ていた。
(……見た目に惑わされるな。どうせ木刀を持ち慣れているだけだ)
心の中でそう言い聞かせた。
木刀を持った綾目と、木剣を持ったエルゼリス。
二人は向かい合った。
観客が息を呑んでいる。
エルゼリスの内心は静かだった。準備は整っている。コネで入ってきた者に、本物の剣を見せてやる。それだけのことだ。
エルゼリスは木剣を構えた。
向かいで綾目が木刀を下段に沈めた。
腰を僅かに落とし、刀身を鞘に収めるように脇へ引く。居合——抜刀と同時に斬る、刀術固有の構えだった。洋剣にはない型だ。エルゼリスが見慣れない理由でもある。
エルゼリスはその構えの意味をうまく掴めないまま、ただ目の前の静けさを見ていた。
観客が息を止めていた。
二人の間に静寂が落ちた。




