第十三話 水月と剛剣
二人は向かい合っていた。
訓練場の中央。木刀を下げた綾目と、木剣を手にしたエルゼリス。壁際に、窓枠に、入り口付近に——観客が隙間なく詰めていた。声はない。全員が固唾を呑んでいる。
エルゼリスが口を開いた。
「一つ、言っておきます」
丁寧な声だった。底にある何かを表に出さないまま。
「この立ち合いでは、魔法を使いません。剣技のみで、あなたに挑みます」
観客の中で小さなざわめきが起きた。
魔力A+の力を封じる宣言。エルゼリスの騎士道精神だと思う者もいれば、魔力D−の相手に気を遣ったのだと捉える者もいた。どちらも間違いではなかった。
綾目はその言葉を静かに受け取った。
(魔法を使わない、か)
内心で一拍の間があった。
(ならば——こちらも魔眼は使わない。刀術だけで応える)
口には出さず、ただ心の中で決めた。対等な条件で、純粋な剣技だけで。それが綾目の矜持だった。
二人は構えた。
エルゼリスは両手で木剣を正面に据えた。正統派の揺らぎない構えだった。重心が低く安定しており、どの方向へも即座に動ける。変則的な攻撃すら正面から受け止め、断ち切ることのできる正道の剣技だ。
綾目は——木刀を腰の脇に沈めた。居合の構えだった。刃を鞘に収めた状態を起点とし、抜刀と同時に斬る刀術固有の型だ。
◇
観客から声が漏れた。
「……なんだ、あの構え」
「隙だらけじゃないか」
誰かが言った。確かにそう見えた。腰を落とさず、木刀は下げたまま。防御の意思がどこにも感じられない。
観客席の一角に落ち着いた金髪の青年がいた。
グレーがかった青い瞳。端正な顔立ちだが、表情を読ませない。均整のとれた体格に、皇族らしい所作が自然に滲んでいる。身長は一七三センチほど。制服の肩には特別選抜科の銀の刺繍があった。帝国第三皇子であることを知る者が近くにいたが、本人が「殿下はやめてくれ」と普段から言っているためか、周囲が表立ってそう呼ぶことはなかった。
帝国第三皇子、アレン・アウレリア。2年特別選抜科に在籍する皇子は、腕を組んで中央の二人を眺めていた。
「隙だらけだ」
静かに、しかしはっきりと言った。
「形だけを取り繕った素人では?」
その隣には一人の青年が立っていた。
赤みがかった黒髪が短く刈り込まれている。185cmの長身。がっしりとした筋肉質の体格に、金色の鋭い瞳。額からは二本の小さな角が生えていた——魔族の証だ。その立ち姿だけで周囲の空気が変わる。見ている者が自然と背筋を伸ばすような圧倒的な覇気があった。
近くの観客がまた囁く。「あれが学園最強の——」
ライオ・フォルセス。騎士学校現役最強にして、3年特別選抜科。総合戦闘披露会を2連覇している男が綾目の構えを見て、わずかに目を細めた。
「……お前にはそう見えるか?」
楽しそうに、しかし鋭くライオはアレンに返した。
アレンが眉をわずかに動かした。
ライオは中央の綾目を見ていた。その目に静かな確信が宿っている。
(あれは誘いだ。わざと隙を見せて間合いに引き込んでいる。踏み込んだ瞬間に——あの刃に吸い込まれる)
初見殺しの罠。水月の構えを、ライオは見た瞬間に見抜いていた。
◇
エルゼリスの目もその構えを捉えていた。
(隙だらけ——いや、違う)
正統派の天才としてその直感が働いた。
(これはブラフだ。わざと隙を見せている。踏み込んだ瞬間に刈り取る——そういう構えだ)
確信に近かった。だからエルゼリスは動かず、じっと綾目の次の動きを待った。
綾目は動かないエルゼリスを見た。
(見破られたか)
一拍で判断した。
(なら、水月は通用しない)
次の瞬間、綾目が動いた。
◇
「消えた!?」と誰かが叫んだ。
ほぼノーモーションだった。予備動作がない。足のバネだけで綾目が一気に間合いを詰める——縮地。束ねた黒髪が動作に遅れて揺れた。
アレンが目を見開いた。
「——速い!」
エルゼリスが反応した。
間合いに入った綾目が木刀を引き抜く。抜刀の一閃。木刀とはいえ、その速度と鋭さは本物の刀術だった。
しかしエルゼリスの木剣がそれを受け流した。
ぎん、と乾いた音が訓練場に響いた。木刀と木剣がぶつかり合って弾き、即座にエルゼリスが反撃に転じる。上段から力を乗せた一閃。
綾目が後退しながら受けた。
(重い……!)
木剣の重さが木刀を通じて伝わった。骨が痺れる。エルゼリスの剣には腕力だけでなく、全身の体重が乗っていた。正統派の剛剣。速度があり、かつ力もある。
間合いが開いた。綾目は木刀を下げ、再び構える。
今度は水月ではない。納刀の構え——正面から抜刀の起点を見せる。
エルゼリスがじりじりと間合いを詰めてきた。
◇
激しい攻防が始まった。
綾目が踏み込む。エルゼリスが受けて反撃する。綾目がそれを回避し、返す刀で斬りつける。エルゼリスがまた捌く。木刀と木剣が交差するたびに、硬質な音が訓練場に響いた。
観客は声を失っていた。
誰も喋らない。全員がただ見ていた。「魔力D−の編入生が、エルゼリスと互角に渡り合っている」——その事実が空気を変えていた。
ソフィアは観客席の端に座っていた。
銀髪が動かない。視線は中央の綾目から一度も離れていない。
(もし怪我をするようなら介入する)
それだけをソフィアは静かに決めていた。決意というより条件反射に近い。綾目が傷つくなら——その前に動く。
攻防が一段と激しくなった瞬間——エルゼリスの木剣が大きく振られ、綾目の体勢が崩れかけた。
ソフィアが腰を浮かせた。
しかし次の瞬間、綾目が素早く体軸を入れ替え、木刀で払って凌いだ。
ソフィアはゆっくりと座り直した。
その一瞬を誰も見ていなかった。ソフィア本人すら、なぜあれほど速く体が動こうとしたのかを、うまく言葉にできなかった。
◇
打ち合いを重ねながら、綾目はあることに気づいていた。
(この人には——本気を出せる)
手加減しなくていい。全力で打ち込んでも受けてくれる。
いつ以来だろうと思った。
(最後に本気で剣を交えたのは——父さんとの稽古以来か)
父が死んでから、対等に剣を打ち合える相手がいなかった。自分と全力で向き合ってくれる相手が。
刃が交差するたびに、体の奥から何かが湧いてくる感覚があった。
名前をつけるなら——楽しい、だろうか。
綾目の口元がわずかに緩んだ。ほんのわずかに。普段の無表情とはまるで違うごく僅かな変化。しかし、それは確かにそこにあった。
エルゼリスがそれを見た。
(——なんだ、あの顔は)
笑っている。打ち合いの中で笑っている。
エルゼリスの中で何かがぐらついた。
◇
攻防が続く中で、エルゼリスの内心は静かに変わっていた。
(気を抜けば——こちらが討たれる)
最初にそれを感じたのは三合目の交差だった。
(受けるたびに肝が冷える。この太刀筋、この判断の速さ)
五合目で確信に変わった。
(素人の動きではない。魔力D−? コネ? ……違う)
七合目。エルゼリスは攻めながら認めていた。
(この人は——強い)
「身の程を教えてやる」はずだった。コネで入ってきた魔力D−の編入生に。
その自分が今、認識を改めさせられている。
(この技量は——私と互角だ)
正統派の天才として。誰にも負けたことのない剣士として。
エルゼリスは初めて対等な相手と刃を交えていた。
◇
激しい攻防の末に両者が間合いを取った。
荒い呼吸が訓練場に二つ響いていた。
綾目の額に汗が光っている。エルゼリスも同じだ。竜人族の持久力と、綾目の研ぎ澄まされた集中力が同じだけ消耗していた。
沈黙が落ちた。
次が最後だと、どちらも感じていた。
綾目が木刀を腰に沈めた。
居合の構え。抜刀の起点に戻る。最後はここから始まる。
エルゼリスが木剣を片手に持ち替えた。
肘を引き、剣先を正面に向ける——片手平突きの構え。
一瞬の静寂。
観客が息を止めていた。
二人が同時に動いた。
綾目が踏み込む。エルゼリスが突く。
——交差した。
その後の光景を観客の多くは一瞬理解できなかった。あまりにも速かった。何が起きたのか、目が追いつかなかった。
やがて理解した。
互いの剣先が——相手の喉元で止まっていた。
木刀の切先がエルゼリスの喉元に。
木剣の切先が綾目の喉元に。
どちらもあと一歩で届いた。
どちらも相手に届かせなかった。
完全な引き分けだった。
訓練場が一瞬、静寂に包まれた。
それから——どこからともなく息が漏れた。そして大きなざわめきが一気に広がった。
◇
「そこまで!」
観客の中から一人が立ち上がり、声を上げた。
ライオだった。
その声だけで訓練場が静まった。誰も異論を言わない。学園最強の一声にはそういう力があった。
「いい勝負だった」
ライオは二人を交互に見た。満足そうな、充実した顔だった。
「今年の1年は——期待できるな」
それから自分の口の端が上がっているのに気づいて、少し愉快そうにした。
「総合戦闘披露会、楽しみにしているぞ」
言い残してライオは訓練場を出ていった。その背中を見送る者が何人もいた。
アレンがライオの去った方向を見てから、中央の二人に視線を戻した。
(刀術だけで言えば確かに本物だ。だが……)
アレンは目を細めた。
(それだけで国防総省長官が直接動くか? 魔力D−を覆す刀術——それは分かった。だが、長官がここまで関与する理由としてはまだ足りない。何かある。この少女にはまだ見えていない何かが)
静かに、しかし確実に綾目への探索が深まっていた。
◇
訓練場に二人だけの空気が残った。
観客はまだいる。だが、そこにある空気は二人の間のものになっていた。
エルゼリスは荒い息のまま綾目を見つめた。
侮りは完全に消えていた。
代わりに胸の中にあるのが何なのか——エルゼリス自身にはうまく言葉にできなかった。強い相手を前にした高揚感とも違う。もっと個人的な、もっと近い何かだった。
(この人は——何者なんだ)
(もっと、知りたい)
その感情の正体をエルゼリスは知らなかった。それが「好意」と呼ばれるものだとは考えもしなかった。強者への純粋な興味だと、そう思っていた。
エルゼリスは木剣を下げ、姿勢を正した。
「……比良坂さん」
「はい」
「私はあなたを侮っていました」
一拍の間があった。
「謝ります。あなたは強い」
プライドの高い竜人族の令嬢が頭を下げた。それが何を意味するか——周囲の観客にはよく分かっていた。またざわめきが起きた。
綾目は少し間を置いた。
「……いえ」
その口元がわずかに緩んでいた。先ほどの打ち合いの中と同じ——ほんの少しだけ笑みに近い何かが表情に滲んでいた。
「良い手合わせでした」
それだけだった。それ以上の言葉を綾目は持っていなかった。しかし、それ以上は要らなかった。
◇
訓練場を出ながら、綾目は周囲の視線を感じていた。
さっきまでとは違う種類の視線だ。「魔力D−の編入生」ではなく、「エルゼリスと互角に戦った者」を見る目になっていた。
(……目立ちたくはなかったが)
廊下に出ながら、綾目は内心でそう思った。
(……仕方ない)
仕方ないことは仕方ない。それが綾目の判断基準だった。
(エルゼリスさんは本当に強かった)
廊下を歩きながら綾目は思った。
(正統派の王道剣技。剛と速を兼ね備えていて、変則に対する対応力も高い。あれは——本物だ)
そこまで考えて、別の顔が浮かんだ。
あの赤みがかった黒髪の、金色の瞳の青年。
(あの先輩は——強い。それだけははっきりと感じた)
考えかけたところで声がした。
「……お疲れ様です」
ソフィアだった。
綾目は考えを途中で止めた。
「ありがとうございます」
ソフィアはそれ以上何も言わなかった。ただ廊下を並んで歩いた。
訓練場の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。夕方の光が廊下の窓から差し込んでいた。
騎士になるための日々は、まだ始まったばかりだった。




