第七話 デートと告白
退院前日の夜、マギスレートにメッセージが届いた。
「退院おめでとう! お祝いにデートしよ。大事な話もあるしね。明日の10時、エリシオン中央駅のアルカナ広場集合でいいかな?」
送信者は「レティお姉さん」だった。
(大事な話)
綾目はベッドに横になったまま、画面を眺めた。
この1週間、入院中の検査は、明らかに目に集中していた。脳神経系の精密検査という建前はあった。だが眼底の撮影、マナ反応の測定、通常の眼科検査にはない項目が、何度も繰り返された。最終盤の数日は、ほとんど目の検査だけだった気がする。
(やはり、この目のことだろう)
確信に近い予感だった。アルスとの会話を思い出す。「それは、グラムの標準機能ではありません」。あの言葉の続きが、明日、来る。
特務騎士局の局員が直接話をしに来るのも、不自然ではなかった。機密に関わることなら、書面ではなく、こうして個別に伝えるのが筋だろう。
「デート」という言葉は、特に気にならなかった。会う口実の、形式のようなものだ。
綾目は返信を打った。
「分かりました。伺います」
送信すると、すぐに既読がついた。スタンプがひとつ返ってくる。ウサギが親指を立てている絵柄だった。
綾目は画面を消し、天井を見上げた。
明日で退院だ。そして、何かがまた動き出す。
◇
翌朝。
エリシオン中央駅のアルカナ広場は、駅に直結した待ち合わせの定番スポットだった。天井が高く、ガラス越しに朝の光が降り注いでいる。行き交う人の流れが、絶え間なく続いていた。
集合時間の10分前。
綾目が広場に着くと、レティシアは、すでに来ていた。
すぐに分かった。人混みの中で、その一角だけ、空気が違っていたからだ。
涼しげで品のある服装だった。シアー素材の軽やかなブラウスに、リネンのパンツ。6月の陽気によく似合っている。長い金髪が光の中でゆるく揺れていた。すれ違う人々が、男女を問わずちらりと視線を向けていく。本人は、まるで気づいていない。
綾目が近づくと、レティシアが顔を上げた。
「あ、アヤメちゃん。おはよ——」
言葉が止まった。
レティシアの視線が、綾目の上半身で固定された。
綾目は白いTシャツを着ていた。胸の中央に太い黒文字で、大きく一言。
「苦難」。
「…………アヤメちゃん」
「はい」
「……そのTシャツ」
「動きやすいので」
「…………」
レティシアは、しばらく言葉を失っていた。何かを言おうとして、口を開きかけ、また閉じる。それを二度ほど繰り返した。
やがて、絞り出すように言った。
「……美少女の、無駄遣いにもほどがある」
綾目は、わずかに首を傾げた。
(美少女)
両家の祖父母には、よく言われた。だが、あれは贔屓目だろうと思っている。容姿について、自分はよく分からない。ただ——黒髪だけは、母が綺麗だと言ってくれた。それだけは、少し気に入っている。
「……そんなことは、ないと思いますが」
「あるよ。絶対ある」
レティシアは、きっぱりと言い切った。それから、何かを決意したような顔になった。
「ちょっと待って。まず、服を見に行こう」
「え。でも、大事な話が——」
「その前に、ちゃんとした服を着てほしい。お姉さんからのお願い」
有無を言わさぬ笑顔だった。綾目は、断る理由を探したが、見つからなかった。
◇
駅の近くの、総合商業施設へ向かった。
ファッションフロアに着くと、レティシアの目が変わった。狩人のような目だった。
「よし。じゃあ、いろいろ試してみよう」
「どれでもいいです」
「だめ。ちゃんと選ぶの」
レティシアは、次々と服を手に取っては、綾目に当てていった。
「これとか、どう?」
「どれでもいいです」
「これは?」
「どれでもいいです」
「……」
レティシアの中で、最初にあったのは、純粋な呆れだった。
(こんなに容姿が整っているのに、ファッションセンスが、ここまで壊滅的なことってある……?)
次に来たのは、理解だった。
(ああ、そうか。この子、自分に興味がないんだ。自分を飾ること自体が、どうでもいいんだ)
そして最後に——使命感に、火がついた。
(だめだ。美少女は可愛い格好をするべき。これは、人生の先輩として、教えてあげなきゃいけないやつ)
レティシアは本気になった。
派手な色のワンピースを試させた。よく似合った。だが綾目は鏡を見て「そうですか」とだけ言った。カジュアルなセットアップを着せた。これも似合った。綾目は「動きやすいですね」とだけ言った。個性的な柄物を持ってきた。やはり似合った。綾目は無表情のままだった。
試着室から綾目が出てくるたびに、フロアの店員たちが、小さくざわめいた。だが、当の本人は、まるで気にしていない。
レティシアは、内心で天を仰いだ。
(何を着ても似合う。似合うのに、本人が全く響いていない……!)
それでも、レティシアは諦めなかった。手を替え品を替え、十数着を試させた末——
一着の、白いワンピースに、たどり着いた。
余計な装飾のない、シンプルなデザイン。清楚で品がある。試着室から出てきた綾目を見て、レティシアは息を呑んだ。
黒髪が、白い生地に映えていた。烏の濡れ羽色の髪が、清潔な白の上で、いっそう艶やかに見える。静かな佇まいと、そのワンピースが、不思議なほど噛み合っていた。
綾目は、鏡の中の自分を、しばらく見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……これは、いいかもしれません」
初めてだった。
「どれでもいい」ではなく、綾目が自分の意見を口にしたのは。
レティシアの顔が、ぱっと明るくなった。
「決まりだね」
会計に向かいながら、レティシアは、財布を取り出した。
「お姉さんからのプレゼント。受け取りなさい」
「え。でも——」
「いいから」
レティシアは、振り返って笑った。
「似合ってるよ、アヤメちゃん。その黒髪に、本当に映える」
綾目は、言葉に詰まった。
(黒髪。母も、綺麗だと言ってくれた。それだけは、少し、自信がある)
胸の奥が、わずかに、温かくなった。何と言えばいいのか、よく分からなかった。だから、いちばん素直な言葉を、口にした。
「……ありがとうございます」
レティシアは、その言葉を聞いて、満足そうに頷いた。
会計を済ませながら、レティシアは、ふと思った。
(この子は、自分を飾ることに本当に興味がない。それが窮屈じゃないのかな、と思うけど——でも、こういう子だから、あの日、あんな動きができたのかもしれないな)
◇
昼前、評判のパンケーキ屋に入った。
窓際の席に、二人で座る。ほどなく運ばれてきたパンケーキは、ふわりと厚みがあり、上に季節の果物が乗っていた。
「ここのパンケーキ、有名なんだよ。一回来てみたかったんだ」
レティシアが、フォークを手に取りながら言った。綾目も、一口、口に運ぶ。
ふんわりとした生地が、口の中でほどけた。甘さは控えめで、果物の酸味とよく合っている。
「……美味しいですね」
綾目が、そう言った。
ほんの一言だった。だが、レティシアは、少し嬉しそうにした。
「でしょ?」
他愛のない話が続いた。帝国アカデミーのこと。好きな食べ物。レティシアが帝都のあちこちの店を知っていること。綾目は、適度に相槌を打ちながら、その話を聞いていた。
「アヤメちゃんって、趣味とかあるの?」
レティシアが訊いた。
綾目は、少し考えてから答えた。
「……刀の、手入れですね」
「か……刀の手入れ?」
「父の形見の刀があるんです。訓練に使うわけではないんですが。錆びたり、劣化したりしないように、定期的に手入れを。それが、落ち着くので」
レティシアは、苦笑した。
「アヤメちゃんらしいというか、なんというか……」
「変ですか」
「ううん。変じゃないよ」
レティシアは、首を振った。
「ただ——もうちょっと、こう、年相応の趣味があってもいいかなって。思っただけ」
綾目は、それには答えなかった。ただ、もう一口、パンケーキを食べた。
その横顔が、来た時よりも、ほんの少しだけ、柔らかくなっている気がした。レティシアは、それに気づいていたが、口には出さなかった。
◇
食事の後、腹ごなしに歩いて近くの公園へ向かった。
広い公園だった。木々が茂り、芝生が広がっている。本来なら、休日には家族連れで賑わうような場所だ。
だが——足を踏み入れた瞬間、綾目は気づいた。
人の気配がない。
誰もいなかった。これだけ広く、これだけ整った公園なのに、人っ子一人いない。入り口には、目立たない立て看板。立ち入りを制限しているらしかった。
「……誰も、いませんね」
綾目が言うと、レティシアが、ふっと笑った。
「気づいた? 大事な話があるって言ったでしょ。だから、人払いをしておいたの」
「人払い」
「特務騎士局の名前を出せば、これくらいはね」
レティシアは、近くのベンチに腰を下ろした。隣を、軽く叩く。綾目も、座った。
空気が、変わった。
ここまでの、明るく軽い時間とは違う。レティシアの表情から、ふざけた色が消えていた。
◇
「まず、ひとつ聞いていいかな」
レティシアが、前を向いたまま切り出した。
「3日前——帝国アカデミーで、アヤメちゃんは、何をしたと思ってる?」
綾目は、少し間を置いてから、答えた。
静かな、しかし揺らがない声だった。
「……人を、殺しました」
レティシアの胸の奥が、わずかに痛んだ。
(やっぱり、そこから離れられていない。引きずってる。でも……)
「そうじゃない」
レティシアは、静かに言った。
「アヤメちゃんは——エリシオン帝立学院の、生徒と教職員、全員を守った。死者は、ゼロ。それが、アヤメちゃんがやったことだよ」
綾目は、何も言わなかった。
「人を殺したのは、本当のこと。それは、間違いない。その重さは、持ち続けていい。——でも、それだけを見ていちゃ、だめ」
綾目は、前を向いたまま、動かなかった。受け取っているのか、いないのか、その横顔からは、読み取れなかった。
アルスにも、似たことを言われた。重さと、誇り。両方を背負って立つ。それが騎士だと。同じ言葉が、違う人の口から、もう一度、綾目に届いていた。
◇
「次に——アヤメちゃんの、目の話をしていい?」
綾目は、少し目を伏せた。
(やはり、そこか)
「……検査が、目に集中していましたから。何となく、そうだろうと思っていました」
「うん」
レティシアは、頷いた。
「あの日、不可視のランドメイトが『陽炎のように見えた』って、言ったよね。弾道が『赤い線として見えた』って。——あれ、グラムの標準機能じゃないんだよ」
綾目は、黙って聞いていた。
「アヤメちゃんは——魔眼を、持ってる」
その言葉に、綾目は、驚かなかった。
どこかで、知っていた。あの日からずっと、心の片隅にあった予感が、今、言葉として確かめられただけだった。
「……そうですか」
静けさだけが、その返事だった。
「あの日、血涙が出たよね」
「……はい」
「あれは、魔眼を使いすぎたことへの代償なの。使いすぎると、目が痛む。血涙が出る。さらに酷使が続けば——失明、記憶障害、最悪の場合は、死に至る」
綾目の指が、わずかに動いた。
「でも、アヤメちゃんの場合は——魔力クラスがD−なのが、リミッターになってる。出力が上がりきらないから、そこで止まった。皮肉な話だけどね。だから、これからは、制御の訓練が必要になる」
レティシアは、一拍置いた。
「しかも、アヤメちゃんは、2種類、同時に持ってる。複合魔眼っていうの。1000年に一度、出るかどうか、って言われてるもの」
「1000年」
「うん」
現実離れした数字だった。だが、綾目は、それを誇らしいとも、特別だとも、感じなかった。ただ、自分の身に起きていることの輪郭が、少しずつ、はっきりしてくるだけだった。
◇
「特に——陽炎のような靄が見えた、あの能力」
レティシアの声が、一段、低くなった。
「視界に捉えた対象のマナを、弱体化させる眼。弱化の眼って、呼ばれてる。これが——すごく、危険な能力なの」
「危険、というのは」
「この世界に、今まで存在しなかった種類の魔眼だから」
レティシアは、まっすぐ前を見ていた。
「対象のマナを弱める。それはグラムのフォースフィールドにも、上位魔物種の魔法障壁にも干渉できる。その意味、分かる?」
綾目は、少し考えて、答えた。
「……軍事的な価値が、ある、ということですか」
「そう」
レティシアの声に、わずかな緊張が混じった。
「そして、それを欲しがる勢力が、帝国の外にもいる。王国は、ここ数年で、急速に技術力を上げてきてる。もし、この能力のことが知れ渡れば——拉致。強制的な研究への利用。それが叶わなければ——暗殺」
綾目の表情が、わずかに、固まった。
「だから——この能力のことは、今ここにいる人間以外には、秘密にしてほしい。特務騎士局として、正式にお願いする」
綾目は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
軽々しい返事ではなかった。事の重さを、正確に量った上での、頷きだった。
◇
「それと——もう一つ、大事な話があるの」
レティシアは、少し、間を置いた。
それから、綾目の方へ、体を向けた。
「帝国は、アヤメちゃんを、帝立アーマリア騎士学校に編入させたいと思ってる。特別選抜科。卒業後のエリートコースが確定しているクラス」
綾目の表情が、変わった。
微かに——しかし、確かに。
「学費も、必要なものも、全部帝国が負担する。——アヤメちゃんが、騎士を目指してたこと、知ってるよ」
綾目の目が、わずかに、見開かれた。
「魔力クラスで、足切りされたって話も聞いた。でも——あの日の戦闘を見たから。あの動きができる子が、魔力だけの理由で門前払いされる必要なんてない」
レティシアは、まっすぐに、綾目を見た。
「あの日、帝国アカデミーの全員を守ったことへの——帝国からの、回答だよ」
綾目は、しばらく、黙っていた。
諦めた夢が、今、目の前にあった。
手を伸ばせば、届く場所に。両親のような騎士になれるかもしれない道が。書類選考で弾かれ、試験を受けることすら許されなかった、あの道が——今、開かれようとしている。
でも。
「……一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「騎士学校の入試は、もう、終わっていますよね」
「うん。今年度の入試は、春に終わってる」
綾目は、膝の上で、手を組んだ。
「その中で——試験を受けて、惜しくも落ちた人たちが、いるはずです。私は、その試験すら、受けていない。なのに、特別選抜科に、試験なしで入っていいのか、と」
レティシアが、少し、目を見開いた。
そこを気にするのか、という顔だった。
「帝国が認めた編入だから、不正じゃないよ」
「分かっています。でも——」
綾目は、視線を落とした。
「正面から試験を受けて落ちた人たちと、試験を受けずに入る自分を、どう折り合いをつければいいのか。それが、どうにも、腑に落ちなくて」
夢は、本当に、目の前にあった。両親のような騎士に、なれるかもしれない。それでも——こういう形で、手に入れていいのか。その問いが、綾目の中で、消えなかった。
「少し、考えさせてください」
レティシアは笑った。
無理に押さなかった。
「うん。そりゃ、そうだよ。急な話だもん。ゆっくり考えて」
それから、付け加えた。
「ただ、一つだけ言っておくと——あの日、アヤメちゃんがいなければ、死んでた人たちがいた。それは事実。その上でどう思うかは、アヤメちゃんが決めていいよ」
二人は、しばらく、公園のベンチに座っていた。
誰もいない公園に、風が抜けていく。木々の葉が、さらさらと音を立てた。綾目は、何も言わずに、前を見ていた。レティシアも、急かさなかった。ただ、隣に座っていた。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
綾目にとって、誰かと並んで、ただ黙っている時間は——久しく、なかったものだった。
◇
その日の夜。
特務騎士局の一室で、レティシアは、報告書をまとめていた。
ノートPCの画面に、淡々と文字を打ち込んでいく。
——本人は、騎士学校への編入に前向き。ただし、正規の手順を経ない編入に、納得できていない様子。この点が解消されれば、編入は確実と判断します。
そこまで打って、レティシアは指を止めた。
少し考えてから最後に一行、付け加えた。
——補足。テロ事件で命を奪ったことを、気に病んでいます。状況によっては、心のケアの検討が、必要かもしれません。
その「補足」の一行にだけ、わずかに、レティシア自身の感情が滲んでいた。
送信ボタンを押す。報告は、これで終わりだった。
だが、レティシアはすぐには席を立たなかった。
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
局長も、副局長も、長官も、綾目の戦闘力を、精神力を、魔眼を、高く評価している。それは正しい。あの戦闘は本物だった。
でも。
(あの子、15歳だよ。短命種の、15歳の、女の子)
戦場で、悲鳴ひとつ上げなかった。恐怖で固まった後、自分で自分を刺して、立ち上がった。話してみても、どこか、達観しすぎている。15歳が背負うには、あまりにも重いものを、当たり前のように背負っている。
普通の15歳なら——おしゃれをして、友達と遊んで、好きな人の話をして、くだらないことで、笑って。そういう時間があって当然のはずなのに。
(人それぞれ、と言われれば、それまでだけど)
それでも、レティシアは、思わずにいられなかった。
(もう少し——人との関わりを、持ってほしいな)
今日、服を選んでいる時。パンケーキを食べている時。ほんの少しだけ、綾目の表情が、和らいだ瞬間があった。あれは、きっと、あの子に足りていなかったものだ。
騎士学校へ行くなら——。
ふと、レティシアの頭に、一人の少女の顔が浮かんだ。
(そういえば、ソフィアちゃんがいたな)
ソフィア・ネーゲルシュタイン。騎士学校の特別選抜科に在籍している、ノーブルヴァンパイアの少女。事情があって、今は少しずつ、人としての時間を取り戻している途中の子だ。
あの子も、感情をうまく扱えずにいる。
(あの子にとっても、綾目ちゃんみたいな子と関わるのはプラスになるかもしれない。——そして、綾目ちゃんにとっても)
性質は違う。だが、どこか似ている二人だった。感情を表に出すのが、得意ではないところが。
友達に——なってもらおう。
レティシアの中で、報告書には書かない小さな計画が、ひとつ生まれた。
それは、任務でも、命令でもなかった。ただ、一人の少女にもう少しだけ、人らしい時間を持ってほしいという——お節介な、お姉さんの願いだった。
レティシアは、ようやく席を立った。
窓の外には、帝都エリシオンの夜景が、静かに広がっていた。




