第五話 長官室の密談
国防総省長官室は、帝都エリシオンの権力の中枢にあった。
最上層に位置するその部屋は、広く、そして静かだった。壁に沿って古い書棚が並び、革張りの背表紙が鈍く光っている。重厚な調度品はいずれも年代物で、しかし埃ひとつ被っていない。手入れが行き届いている。床は磨き上げられ、午後の光が長い影を落としていた。
部屋の奥、大きな窓を背にした机に、一人の女が座っていた。
銀色の長い髪が、肩から背に流れている。赤い瞳。気品のある顔立ちは、二十代の後半に見えた。だが、その佇まいには、外見の年齢とは噛み合わない重さがあった。視線の置き方、指の動かし方、沈黙の長さ——そのすべてに、長い時間を生きた者だけが持つ、独特の静けさが滲んでいる。
ルクレツィア・ヴァレンシュタイン。国防総省長官。488年を生きた、ノーブルヴァンパイア。
机の上には、書類が積まれていた。だがルクレツィアは、そのどれにも手をつけていなかった。組んだ指の上に顎を乗せ、ただ一点を見つめている。先ほど届いた、一通の報告のことを考えていた。
扉が、ノックされた。
「入れ」
扉が開き、大柄な男が入ってきた。
短く刈り込んだ黒髪。無骨な顔立ち。軍服の上からでも分かる、筋肉質で実戦型の体格。琥珀色の瞳には、歴戦の落ち着きがある。そして——左の角が、根元から折れていた。古い戦いの名残だ。
アンディール・フィズサール。特務騎士局局長。512年を生きた、オーガロード。
その巨躯が部屋に入るだけで、空間の密度が変わったように感じられる。だがルクレツィアは顔色ひとつ変えず、視線だけを上げた。
ちょうどこの時刻、帝都エリシオン中央医療院の一室では、綾目の祖父母たちが、彼女の病室で言い争いを続けている。比良坂と鳴海。古くからいがみ合う二つの家が、一人の少女の身柄を巡って、声を荒らげていた。
その同じ時刻に、ここでは——綾目の知らないところで、彼女の行く末が、静かに、そして決定的に、決まろうとしていた。
◇
「長官。エリシオン帝立学院襲撃事件の詳細です」
アンディールの声は、低く、端的だった。報告に余計な感情を乗せない。それが、この男の流儀だった。
「黎明の牙による武装侵攻。投入されたのはランドメイト4機。作戦目標は、第4皇女セレナ殿下の誘拐、あるいは殺害でした。手口から見て、計画は周到です。新型のステルス装置を用い、警備網の隙を正確に突いてきました」
ルクレツィアは、静かに聞いていた。
「警備にあたっていた白竜騎士団の騎士が、数名死亡。正門は突破され、校舎の一部にも被害が及びました。本来であれば——犠牲は、こんなものでは済まなかったはずです」
「済んだ、ということか」
「はい。この事件を食い止めたのは、一人の少女でした」
ルクレツィアの視線が、わずかに動いた。
「少女」
「比良坂綾目。15歳。魔力クラスD−。エリシオン帝立学院1年生。一般の生徒です」
アンディールはマギスレートを操作し、戦闘記録の要点を読み上げていった。
「現場で死亡したパイロットの警備用グラムに、緊急時操縦権限で搭乗。そこから、単独で交戦に入っています。まず、ステルス機能で不可視化されていた敵機を看破。これがどういうことか——長官もお分かりかと思います」
「我が軍の探知装置でも、捉えきれていないものだったな」
「はい。それを、生身の目で見抜いた。そして、正確にコックピットを撃ち抜いています。4機のうち、3機を単独で撃破」
ルクレツィアの指が、わずかに動いた。
「残る1機は」
「リーダー機です。これは、私が仕留めました。彼女は3機を撃破した後、最後にこのリーダー機と交戦していますが、そこで力尽きかけた。機体が停止したところに、私が現場へ到達し、撃破しています。——逆に言えば、私が着いた時点で、残っていたのはその1機だけだった。あの子が、ほぼ片をつけていたということです」
アンディールは、一度言葉を切った。それから、報告の中で最も重い部分に触れた。
「戦闘の途中、一度だけ、この少女の機体が完全に停止しています。恐怖で、身体が動かなくなったものと推測されます。15歳が、初めての実戦で、人を殺し、殺されかけている。当然の反応です」
「だが、止まらなかった」
「はい。彼女は——自らの太ももを、筆記具で刺しました。その痛みで、恐怖を上書きし、戦闘に復帰しています」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
ルクレツィアは、何も言わなかった。だが、その赤い瞳の奥で、何かが微かに動いた。
「初陣とは、到底思えません」
アンディールの声に、わずかな熱があった。普段、報告に感情を乗せないこの男にしては、珍しいことだった。512年生きて、無数の戦士を見てきた男が、15歳の少女の戦闘記録に、確かに何かを動かされていた。
「血筋も、相応のものです。父方は比良坂家。母方は鳴海家。黒竜騎士団と白竜騎士団、双方の重鎮の孫娘にあたります。両家とも、騎士団に深く根を張る名門です」
アンディールは、マギスレートを下ろした。
「この少女の活躍を公表すれば、帝国臣民から、高い支持が得られるでしょう。両家の孫娘が、たった一人で国難に立ち向かった——分かりやすい、英雄の誕生です。帝国にとって、使える話ではあります」
それは、提示だった。
推薦ではない。アンディール自身が「英雄化すべきだ」と考えているわけではなかった。ただ、選択肢のひとつとして卓上に並べ、ルクレツィアがそれにどう反応するかを、静かに見ていた。長年、この女の副官を務めてきた男の、流儀だった。
ルクレツィアは、英雄化の話には、触れなかった。
代わりに、別の問いを投げた。
「アルスからの報告は」
「は」
「魔眼の件を」
◇
アンディールの表情が、わずかに引き締まった。
「アルスの見立てでは、魔眼持ちは、ほぼ確実。しかも——複合です」
「複合」
「2種類を、同時に持っています」
アンディールは、指を二本立てた。
「1つは、弱化の眼。視界に捉えた対象のマナを、弱体化させる。もう1つは、読みの眼。マナの動きを読み取り、相手の行動を先読みする。戦闘記録の『ステルス看破』と『回避行動』は、それぞれこの2つで説明がつきます」
「どちらも、単体で貴重だな」
「はい。魔眼持ち自体が、5万人に一人。それが2種類同時となれば——」
「1000年に、一人」
ルクレツィアが、その言葉を引き取った。
「ええ。ですが——問題は、希少性ではありません」
アンディールの声が、低くなった。
「問題は、弱化の眼そのものです」
ルクレツィアの指が、机の上で静かに組まれた。彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「弱化の眼は……これまで、この世界に存在しなかった種類だ」
その声は静かだった。しかし、確信を伴っていた。長く生き、無数の異能を見てきた者の言葉だった。
「対象のマナを弱める。それだけなら、似た能力は過去にもあった。だが、あの子のものは——グラムのフォースフィールドに干渉できる。上位魔物種の魔法障壁にも、干渉できる。マナで編まれた、あらゆる守りを、視線ひとつで薄れさせる。そういう類のものだ」
アンディールは黙って聞いていた。
「そして——」
言葉が、そこで途切れた。
ルクレツィアの視線が、一瞬だけ、遠くなった。
机の向こうの何かを見ているのではない。窓の外の街並みでもない。もっと遠い、ここではないどこか——彼女だけが知る何かを、見ているような目だった。
ほんの数秒。
アンディールは、その「間」に気づいていた。だが、何も問わなかった。この女が口にしないことを、自分から尋ねるべきではない。それもまた、長い付き合いの中で身についた呼吸だった。
やがて、ルクレツィアの視線が、戻った。
「……複合魔眼、というのも、大きい」
何事もなかったかのように、彼女は続けた。
「血筋、戦闘センス、精神力。それらすべてを合わせれば——現時点でも、帝国史上、稀に見る人材ということになる。磨けば、どこまで伸びるか見当もつかない」
アンディールは、深く頷いた。
「はい。だからこそ——英雄化は、悪手です」
英雄にすれば、衆目を集める。衆目を集めれば、魔眼の存在が、遅かれ早かれ漏れる。それは、この少女が持つ最大の価値を、最も危険な形で、世界に晒すことを意味する。
それだけではなかった。
英雄として祭り上げれば、帝国の内部でも目をつけられる。各派閥が我先にと取り込みを図り、貴族たちの政争の道具にされる。元老院の駆け引きの材料として、あの才能はすり減らされていくだろう。外からの脅威に晒される前に、内側で腐らせることになりかねない。
二人とも、英雄化の政治的メリットは、理解していた。その上で、それを選ばない。感情の問題ではなかった。英雄にするには——この才能は、惜しすぎた。
◇
ルクレツィアが、静かに立ち上がった。
椅子を引く音が、わずかに響く。彼女は机を離れ、窓の方へ歩み寄った。帝都エリシオンの街並みを見下ろしながら、アンディールに背を向けたまま、口を開いた。
「……アンディ」
呼び方が、変わった。
それだけで、部屋の空気が変わった。
国防総省長官と、特務騎士局局長。その公的な関係の下に沈んでいた、もう一つの層が、静かに浮かび上がってくる。かつて魔王軍に身を置き、同じ時代を、同じ戦場を生きてきた——古い同胞としての、二人。
数百年。人の国がいくつも興り、滅びるほどの時間を、この二人は共に見てきた。かつては敵として人類と戦い、今は人類を守る側に立っている。立場は変わった。だが、隣に並んで戦場を見渡したという事実だけは、変わらなかった。
アンディールの表情も、わずかに緩んだ。緩んだというより、纏っていた公式の硬さが、一枚、剥がれ落ちた。
「弱化の眼は、秘匿すべきだ」
アンディールが言った。今度は、報告ではなかった。意見だった。同胞としての、率直な進言だった。
「あれは、危険すぎる。あの子のためにもな」
「ああ」
ルクレツィアは、振り返らなかった。
「王国が嗅ぎ付けたら——どうなるか、お前にも分かるだろう」
分かっていた。二人とも。
王国は、確実に動く。あらゆる手段を使って、その身柄を求めるだろう。拉致。解剖。軍事への転用。マナの守りを無効化する眼など、軍事的には喉から手が出るほど欲しいはずだ。そして、それらが叶わなければ——最後には、暗殺。生かしておくぐらいなら消す。それが、あの国のやり方だった。
「あの子にとって、ろくな未来にならん」
アンディールの声が、低く沈んだ。512年生きた男の、本心からの言葉だった。
「ああ」
ルクレツィアは、窓の外を見たまま、頷いた。
「あれほどの才能を、他の騎士団に渡すつもりはない。比良坂にも、鳴海にもだ。——こちらで、囲う」
◇
ルクレツィアは、方針を口にし始めた。背を向けたまま、しかしその言葉は、明確だった。
「まず、騎士学校に編入させる。帝立アーマリア騎士学校がいい」
「アーマリアか」
「あそこなら、セキュリティはエリシオン帝立学院より格段に高い。権力の手も、容易には届かん。そこで、騎士として、正式に成長してもらう。あれだけの才能だ。正しい環境で鍛えれば、3年後にはどれだけ伸びるか。放っておくには、惜しすぎる」
ルクレツィアは、窓の外の街並みに視線を向けたまま、続けた。
「卒業後は——七局に引き抜く」
「卒業まで、3年あるな」
「その3年で、こちらが外堀を固める。あの子が、自然とここへ来る流れを作っておく。急ぐ必要はない。焦って手を伸ばせば、警戒される。時間をかけて、信頼を積み上げる」
アンディールは、腕を組んだ。それから、率直な懸念を口にした。遠慮はなかった。同胞に対して、それは不要だった。
「両家が問題になるぞ。比良坂と鳴海。あの二つが本気で動けば、それぞれ自分の手元に引き込もうとする。強引な手を使ってでもな」
「分かっている。そのために、お前とアルスに動いてもらう」
ルクレツィアの口調は、命令というより、依頼に近かった。長年の信頼の上にしか成り立たない、同胞への頼み方だった。
「お前は、黒竜へ。アルスは、白竜へ。両家が好みそうな話を持っていけ。騎士としての誇り。帝国の旗印になる逸材。家門の名誉。そういう話で、たっぷり持ち上げてやれ。その上で——卒業まで手を出さないよう、釘を刺してくれ」
「アメと、釘か」
「そうだ。あの家々は、誇りで動く。誇りをくすぐってやれば、しばらくはおとなしくしている。少なくとも、卒業までは」
アンディールは、ひとつ頷いた。それから、最も本質的な問いを投げた。
「本人の同意は、どうする」
ルクレツィアの動きが、わずかに止まった。
「あの子自身が、首を縦に振らなければ——全部、絵に描いた餅だぞ。いくら外堀を固めても、肝心の本人が拒めば、何も始まらん」
その通りだった。すべての計画の、最後にして最大の不確定要素。それは、綾目自身の意思だった。
ルクレツィアの口の端が、わずかに上がった。
「レティに任せる」
アンディールの眉が、かすかに動いた。
「どんな手を使っても構わない、と伝えてくれ。学費だけではない。あの子が望むものは、全部こちら持ちで与えていい。物でも、何でもだ。——あの子が本当に欲しいと思っているものを、見つけて差し出してやれ。そう言えば、あの女には伝わる」
アンディールは、しばらく黙っていた。
レティシア・グティエレスという女のことを、考えていた。あの軽やかな笑みの下にある、油断のならない観察眼。決して引かない芯。短命種とは深く関わらない、と公言しておきながら、いざとなれば誰よりも深く相手の心へ踏み込んでいく、あの矛盾。
あれなら、やり遂げるだろう。15歳の少女の心を、強引にではなく、自然に、しかし確実に、こちら側へ手繰り寄せる——そういう仕事はあの女の領分だ。人の心の機微を読むことにかけては、誰よりも長けている。
「……特に、異論はない」
それが、アンディールの答えだった。信頼の、表明だった。
「早速、動く。黒竜の連中は気が短い。先に手を打っておくに越したことはない」
アンディールは、踵を返した。その巨躯が、扉へと向かう。
扉の手前で、一度だけ、足を止めた。
「……ルクレツィア」
今度は、公的な「長官」でも、同胞の「お前」でもなかった。ただ、名を呼んだ。
「あの子を、潰すなよ」
短い言葉だった。
ルクレツィアは、振り返らなかった。
「分かっている」
それだけ答えた。
アンディールは何も言わず、部屋を出ていった。
◇
扉が閉まる音がした。
静寂が、長官室に落ちた。
ルクレツィアは、また窓の方へ向き直った。帝都エリシオンの街並みが、午後の光の中に広がっている。石畳の道。空へ伸びる建物。行き交う、無数の小さな人影。200年かけて、人類が取り戻した、平穏な日常。その全てが、彼女の眼下にあった。
彼女は、しばらく動かなかった。
ただ、街を見下ろしていた。あるいは、その遥か向こう——封印された、あの底の見えない穴の方角を、見ていたのかもしれない。
やがて——口の端が、ゆっくりと上がっていった。
それは、微笑みとは、少し違っていた。喜びでも、満足でもない。誰も見ていない部屋の中でだけ浮かべる、何かを深く計算し終えた者の表情だった。
ルクレツィアは、何も言わなかった。
窓の外を見つめたまま、その横顔だけが、静かに、何かを語っていた。




