第四話 祖父母襲来
朝の光が、ブラインドの隙間から入ってくる。
綾目は天井を見ていた。
昨夜と同じ天井だ。シミひとつない白い面。昨日の夕方、レティシアが帰ったあと、夕食を食べて、そのまま眠った。次に目が覚めたら朝だった。頭痛は、昨日より確実に引いている。目の奥の鋭い痛みも、まだ残っているが、昨日よりは遠くなった気がする。太ももの傷も、ほとんど気にならない。体調としては、悪くない。
問題は、することが何もない、という点だった。
時刻は朝7時17分。点滴はまだ繋がっている。窓の外には帝都エリシオンの街並みが広がっていた。高い建物が連なり、石畳の道が複雑に走っている。帝国建築と異世界由来の技術が混在した、見慣れた景色。ただし、いつも見ているのと角度が違う。病院の特別個室は5階にあるため、普段よりずっと高いところから眺めている。
(……学院は、今頃始まっているか)
ホームルームの時間だろう。自分の席が空いている。どんな説明がされているのか、少し気になる。体調不良、とでも告げてあるだろうか。テロ事件との関連は伏せるはずだ。そういう処理をするのが組織というものだ。
ドアをノックする音がした。
「失礼します。担当の池谷です」
担当医だった。30代後半くらいの男性。白衣。丁寧な物腰。昨日も来ていた。
「おはようございます。体調はいかがですか」
「頭痛は引きました。太ももも問題ありません」
「それは良かった。昨日より顔色もいいですね」
池谷医師はカルテのマギスレートを操作しながら、告げた。
「本日から一連の精密検査に入ります。1週間ほどかかる見込みです。その間はこちらに入院していただく必要があります」
綾目は、一拍置いた。
「1週間ですか」
「はい。脳神経系への影響を精密に検査するためです。戦闘中に相当の負荷がかかっていますので、念のためすべての項目を確認します。特にご不安に思うことはありますか」
「……いいえ、大丈夫です」
「では、午前10時から最初の検査を始めます。それまでゆっくりお休みください」
医師が出ていった。ドアが閉まる。
病室は静かになった。
(脳神経系、か)
綾目は天井を見たまま、そのワードを頭の中で転がした。
脳神経系。精密検査。1週間。
昨日のアルスの言葉が蘇る。「それは、グラムの標準機能ではありません」。
そして自分の問いかけ。「では、私の——目に……」
言いかけて、止めた。あの続きが、今、静かに顔を出している。
(つまり、自分の目に何かある。それを調べている)
確信ではない。証拠もない。医師は「脳神経系」と言っただけだ。それ以上の説明はなかった。
でも——筋は通っている。
綾目はそれ以上考えるのをやめた。考えても、今は答えが出ない。出ない問いを追い続けても生産性がない。1週間、ここにいるのだ。焦ったところで変わらない。
(それにしても、1週間か)
退院したらすぐ学院に戻れると思っていた。授業の遅れが積み上がっていく計算が、頭の中を走る。1週間分の授業。帰宅後の自習でカバーできないこともない。ただ面倒だ。面倒以外の何物でもない。
綾目は布団を顎まで引き上げた。
(……まあ、仕方ない)
それだけ思って、少し目を閉じた。
◇
午前中の検査を終え、昼食を済ませた後、することが完全になくなった。
マギスレートを手に取り、ニュースをぼんやり眺める。今日の帝国内のニュース一覧。経済動向。近隣国との外交。天気。スポーツ。
そして、目当ての項目が流れてきた。
「——昨日、エリシオン帝立学院において、反帝国テロ組織『黎明の牙』による武装侵攻が発生しました。国防総省の迅速な対応により、短時間で鎮圧。警備にあたっていた騎士数名が死亡、校舎の一部に被害が生じましたが、生徒および教職員への死傷者は1人も出ていません。第4皇女セレナ殿下が在籍するこの学校を標的としたテロ行為に対し、帝国臣民の間では強い怒りの声が——」
画面の中でアナウンサーが喋り続けている。
綾目は、ぼんやりと聞いていた。
自分の名前は、一切出ていない。当然だ。出るとも思っていなかった。それでいい。名前が出てほしいという気持ちも、出ないことへの不満も、どちらも、今の自分にはなかった。
ただ——
記憶が、来た。
片膝をついた姿勢で固まった騎士。手だけが、まだ剣の柄を握っていた。倒れながらも、離さなかった手。それだけが、綾目の記憶の中に焼きついていた。
綾目はマギスレートをベッドの脇に置いた。
視線を、窓の外に向ける。帝都の街並みが、昼の光の中に広がっている。
(生徒も、教職員も、誰一人死ななかった)
それは事実だ。ニュースが伝えた通り。自分の手で確認したわけではないが、アルスが直接告げた。あの人は嘘をつかない、という確信が、なぜかある。
(……今はそれだけで、十分だ)
感傷的になるつもりはなかった。泣くつもりも、感慨に浸るつもりも。ただ、それだけが残った。静かな、それだけが。
マギスレートが震えた。
メッセージだった。送信者の名前を見て、綾目は少しだけ瞬いた。
「レティお姉さん」と表示されている。
文面は短かった。
「元気してる? ご飯おいしい? お見舞い行っていい?」
綾目は返信した。
「元気です。ご飯は普通です。いつでも」
送信する。数秒で既読がついた。
「了解! 差し入れ何がいい?」
「なんでもいいです」
「そういう答えは困るんだよね~~」
それで終わった。
綾目は画面を眺めた。「~~」という記号が末尾についている。何となく、画面の向こうで困り顔をしながら笑っているレティシアの顔が浮かんだ。
表情には出なかった。出なかったが、胸の中がほんの少し、軽くなった気がした。
そのタイミングで、病室のドアがノックされた。
◇
(……来ると思っていた)
ドアが開く前に、綾目は内心でそう思った。
来るのは分かっていた。来なかったら来なかったで心配する。来ることは最初から決まっていた。
入ってきたのは、2人の老人だった。
70代だろうか。男性の方は、白髪交じりの短い髪を丁寧に整え、柔らかな色合いの礼服を着ていた。女性の方は、薄いグレーの上品なスーツ。2人とも背筋が真っ直ぐで、品がある。
鳴海家の祖父母だった。母方の。宗一郎と、紗雪。
「綾目ちゃん……!」
祖母が真っ先に声を上げた。目が、もう潤んでいる。
「無事でよかった……本当に、本当によかった……」
「……ありがとうございます、紗雪お祖母様」
祖母がベッドの脇まで来て、綾目の手を両手で包んだ。温かい手だった。細かく震えている。本当に心配していたのだ、ということが、その手から伝わった。
「怪我の具合は? 痛みは残っていないか?」
祖父が静かに訊いた。礼節を重んじる声だった。
「太ももの処置は完了しています。頭痛も昨日より引いています」
「そうか。特務騎士局からの説明は受けたか」
「昨日、副局長のアルス・マフノ様が直接来られました」
「……ふむ」
祖父が頷いた。目の奥に安堵と、まだ消えない緊張の混在が見えた。
「それにしても……」
祖父が続けた。声のトーンが、わずかに変わった。
「帝国内の警備体制には、問題があると言わざるを得ない。あのような最新型のステルス装置を持ったテロリストが、なぜ帝都のアカデミーにまで侵入できたのか。体制の見直しが急務だろう。内政的な観点から言えば——」
(来た)
綾目は内心でため息をついた。
祖父の口から「体制」「内政」という言葉が出始めると、話が長くなる。それは経験則として知っていた。
(……厳哉のお祖父様たちも、そろそろ来る頃だ)
その予感は、数分後に現実になった。
◇
病室のドアが、また開いた。
入ってきたのは、これも2人の老人。しかし鳴海家の祖父母とは、纏っている空気がまるで違った。
男性の方は、がっしりとした体格に、鋼のような白髪。礼服だが、着こなしが武人のそれだ。女性の方は、凛とした立ち姿に切れ長の目。綾目の目元に似ている。
比良坂家の祖父母だった。父方の。厳哉と、綾目の祖母。
「綾目!」
比良坂の祖母が、真っ直ぐに綾目へ向かってきた。腰を折り、綾目の顔をのぞき込む。
「顔色はいいな。良かった。怪我は」
「処置済みです、比良坂のお祖母様」
「そうか。それなら良い」
祖母が一度、目を閉じた。胸の中で何かを押さえ込んだような、短い沈黙だった。
「……ちゃんと休め。後のことは心配するな」
「はい」
比良坂の祖父が、ゆっくりと室内を見渡した。部屋の設備を確認するような目だった。そして——鳴海の祖父と、目が合った。
一瞬、空気が変わった。
(……やっぱり来た。この展開)
綾目の内心で、諦めに近い何かが動いた。この2人が顔を合わせると、いつもこうなる。顔を合わせるだけで場の温度が変わる。顔を合わせた時点で、もう始まっているのだ。
比良坂の祖父が、口を開いた。声は落ち着いていた。落ち着いていたが、その落ち着きは嵐の前の静けさに近い。
「……鳴海。来ていたか」
「比良坂。貴殿こそ」
どちらも短く言った。どちらも礼は保っていた。
しかし。
「それにしても」
比良坂の祖父が続けた。今度は静けさが剥がれていた。
「貴殿の白竜が内政に力を入れている間に、帝都でこのような事が起きた。警備体制の問題だというなら、実力のない者が体制を語っても意味がなかろう」
鳴海の祖父の眉が、ぴくりと動いた。
「何を言う。テロリストを根絶できない黒竜の怠慢が、今回の事態を招いたのだろうが。戦争と殲滅しか頭にない者に言われる筋合いはない」
「実力のない者が体制を語るな! 現場で血を流してこそ、騎士というものだろう!」
「力だけで国は守れん! 体制と秩序があってこそ、守る意味が生まれるというものだ!」
「建前で守れるか! 現場が血を流しているときに、総省で書類を書いていた者が——」
「現場を動かす体制を作るのが内政の役割だ! その意味も理解できんで——」
比良坂の祖母が「あなた、ここは病院です」と袖を引いている。鳴海の祖母が「お父さん、落ち着いて」と懸命に止めている。しかし2人の祖父は止まらない。声が大きくなっていく。
いつもこうだ。
顔を合わせると、必ずこうなる。どちらも悪人ではない。どちらも綾目のことを心配している。それは分かっている。分かっていても——。
綾目は、静かに息を吸った。
「……やめてください」
声は低かった。大きくなかった。怒鳴りもしなかった。
しかし、病室の空気が変わった。
2人の祖父が、止まった。
「お医者様がいらっしゃいます。他の患者さんもいます。ここは病院です」
綾目の声は、変わらず静かだった。感情的ではない。しかし、そこには有無を言わせないものがあった。
「そのような言い争いをする場所ではありません。今日はもう帰ってください」
静寂が落ちた。
比良坂の祖父が、ばつの悪そうな顔をした。鳴海の祖父も、視線を斜めに逃がした。
「……すまなかった」
比良坂の祖父が、綾目に向かってそう言った。
「ごめんなさいね、綾目ちゃん」
鳴海の祖母が、申し訳なさそうに頭を下げた。比良坂の祖母も、「また来る」とだけ言って頭を下げた。鳴海の祖父は何も言わなかったが、扉を出るとき一度だけ振り返って、綾目に目礼した。
4人が、病室を出ていった。
ドアが閉まった。
廊下でまだ何か気配があった。睨み合っているのかもしれない。綾目は、それを見なかった。見ないことにした。
◇
窓の外が、オレンジ色に染まっていた。
夕暮れだ。1日が終わろうとしている。
綾目はベッドに倒れ込んだ。上体をゆっくり横に倒し、布団を引っ張って、頭まで被る。
(……なんで仲良くできないんだろう)
黒竜騎士団と白竜騎士団は、軍と警察のような関係で、本来であれば互いを補い合う存在のはずだ。仲が悪いのはこの2人だけだ。比良坂家と鳴海家が、なぜここまで折り合えないのかは、綾目にも正確には分からない。ただ、物心ついた頃からずっとそうだった。顔を合わせると、必ずああなる。それが積み重なって今がある。
(心配してくれているのは分かる)
これも分かっている。今日来た4人の誰一人として、綾目のことを嫌いなわけではない。むしろ、全員が本気で心配している。来るまでどれほど焦っていたか、顔を見れば分かった。祖母たちの目が潤んでいたのは、演技ではなかった。
(愛されているのも、分かる)
だから、余計に疲れる。
嫌いな人間に何かされても、適当に受け流せる。でも、自分のことを心配してくれている人間が、顔を合わせた途端に言い争いを始めると——受け流せない。止めなければならない。止めたくなる。それが疲弊する。
(だから一人で暮らすことにしたのだ)
あの日、両家の集まりを途中で退席して、最高セキュリティのマンションに引っ越した。最初から、こうなることは予測できていた。2人を同じ空間に置けば、ああなる。ならば、自分が別の空間に移ればいい。シンプルな解決策だ。
(分かっていた。分かっていても、疲れるものは疲れる)
布団の中で、綾目は目を閉じた。
(忘れよう。寝よう)
意識が遠のいていく。今日は午前中から検査があって、昼食を挟んで、来客が2組あって、それなりに動いた。体力的にはまだ本調子ではない。眠れるうちに眠るのが合理的だ。
意識が落ちかける直前、気づいた。
目の奥が、かすかに痛んでいた。
昨日より弱い。だいぶ薄れている。ただ、完全には消えていない。何か小さな、しかし確かなものが、眼球の奥の深いところに居座っている。
(……これは、一体何なんだろう)
「脳神経系の精密検査」という言葉が、ぼんやりと浮かんだ。
「あれはグラムの標準機能ではありません」というアルスの声が、ぼんやりと蘇った。
陽炎のような靄が見えた。赤い線が見えた。撃たれる前に分かった。バリアが、刃の前に揺らいだ。
(……これは、)
意識が、そこで落ちた。
窓の外で、夕日がゆっくりと沈んでいく。帝都エリシオンの街が、夜の色に変わっていく。
病室の白い天井だけが、しずかに綾目を見下ろしていた。




