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鋼の檻に咲く黒百合 ~魔力最低で騎士になれなかった少女が、秘めた魔眼によって夢を取り戻す~  作者: しぇくしーふっふー
序章

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第三話 重さと誇り

 帝都エリシオン中央医療院の特別個室は、静かだった。


 午後1時を過ぎた光が、ブラインドの隙間から斜めに差し込んでいる。光の筋の中に、細かな埃がゆっくりと舞っていた。


 ベッドの上で、綾目は眠っていた。


 深い眠りだった。呼吸は浅いが、規則的だ。点滴の管が左腕に繋がっている。右太ももには新しい包帯が巻かれており、シーツの下からその輪郭がわずかに浮き上がっている。医療用ナノマシンと高位の回復魔法による処置はすでに完了していた。神経も、骨も、内臓も、異常はない。あとは体力の回復を待つだけだ——医師はそう告げて、病室を出ていった。


 4時間前、彼女はここに運び込まれてきた。意識はなく、両目から血を流したまま、コックピットから引き出された。


 今、その顔は、年相応の少女に戻っていた。


 ベッドの脇に、レティシアが座っていた。



        ◇



 レティシア・グティエレス。ハイエルフ。284歳。


 明るめの碧眼に、長い金髪。普段なら柔らかな笑みを絶やさない彼女が、今は表情を消していた。制服は襟元が少し緩み、髪も束ねが甘い。隠しきれない疲労の色が、目の下に薄く滲んでいる。


 膝の上に、薄型のマギスレートを置いていた。


 画面には、戦闘記録が再生されている。綾目の搭乗したブロードソードが、見えないはずの敵機に向けてアサルトライフルの引き金を引く瞬間。スロー再生にしてある。三点バーストで放った三発の弾が、空中の何もない場所に向かって一直線に飛び、その瞬間にステルスフィールドが消散して敵機が現れる映像。


 レティシアは、それを巻き戻した。


 もう一度、再生する。


 もう一度。


 「……なんなのよ、この子……」


 声が、漏れていた。


 ステルスフィールドは、現状の帝国軍の探知装置でも捉えきれない最新技術だ。それを、15歳の女の子が、生身の感覚で見抜いて、正確にコックピットを狙い撃ちにしている。三点バーストで放たれた三発が、すべて同じ位置に、同じ精度で吸い込まれている。偶然ではあり得ない。


 画面を切り替える。


 今度は、機体が横転してから動けなくなった場面だった。レティシアはこのシーンを何度も止め直していた。


 コックピットの中で、少女が泣いていた。涙を拭っても拭っても溢れる涙。ここは死地だと本能が叫ぶ中で、動けなくなった身体。2機が仕留める態勢に入って——その時、少女は胸ポケットに手を伸ばした。


 再生したまま、レティシアは画面を止めることができなかった。


 シャープペンシルが、太ももに向かって動く。


 「——ッ」という、漏れた声。


 それでも止まらず、もう一度。


 「……逃げるな……! 戦え……! 戦えっ!!」


 画面を止めない。続きを見る。


 立ち上がった少女の瞳が、モニター越しでも分かるほど変わっていた。白目に赤い筋が広がり、虹彩の奥で何かが揺らめいている。


 そして——デルタ機との交戦シーン。


 デルタ機がサブマシンガンを構え、連射を始める。撃たれる前に、綾目の機体が動き始めている。撃たれてから避けたのではない。撃たれる前に、避けの動作に入っている。コンマ数秒——それも、複数発の弾道を同時に。


 (標準機能じゃ、ありえない)


 レティシアは唇を噛んだ。


 ヴリトラ2号機にも各種の予測補助システムは搭載されているが、あの動作速度で、ここまで先読みできるシステムは存在しない。仮に存在しても、出力60%に制限された警備機にそれを動かす余裕などない。


 (じゃあ、何で見えてるの……?)


 画面をさらに進める。


 今度は、覚醒後の綾目がデルタ機を斬る瞬間。レティシアはこの場面を最も詳細に解析していた。


 デルタ機は、ステルスをすでに解いた状態で正面から接近してきている。当然、プロテクトシールドは正常展開されているはずだ。リーダー機との挟撃を仕掛けてきた、戦場慣れした機体——その防御態勢は、新人パイロットの剣で簡単に切り裂けるものではない。


 画面の中で、綾目の機体が踏み込む。


 ブロードソードを振り上げる。


 刃がデルタ機に到達する直前——プロテクトシールドの解析データに、異変が現れた。


 「……あれ?」


 レティシアは画面を一時停止し、解析パラメータを並べた。


 デルタ機のプロテクトシールドの出力値が、刃の到達よりコンマ数秒早く、わずかに低下している。斬られてから低下したのではない。刃が触れる前に、すでに弱まっている。


 画面を1フレームずつ進める。


 綾目の機体が、デルタ機を「視認」した瞬間。


 その瞬間から、プロテクトシールド側の数値が、ゆっくりと落ち始めていた。


 刃が触れた瞬間、フィールドが完全に揺らぎ、ブロードソードがそのまま装甲を断ち切る。


 通常なら、出力60%の警備機の物理剣で、戦場慣れした機体のプロテクトシールドを一刀両断するなど、不可能だ。それが、起きている。


 「視線が、バリアを溶かしてる……?」


 声に出して、自分でぞっとした。


 (魔眼……?)


 その単語を、レティシアは口の中で転がした。


 ハイエルフは魔術的素養が高い。古い文献も多く読んでいる。そしてレティシア自身も、魔眼を持っている。5万人に1人と言われる、視覚そのものに魔力的特性を持つ異能。だからこそ、分かる。あの映像に映っていたものが、何であるかが。


 (この子も……魔眼を持っている?)


 画面の中の15歳の少女を、レティシアは見つめた。


 眠っている顔。


 長い睫毛。


 その奥に、何が宿っているのか——。


 レティシアはマギスレートを膝の上に伏せた。


 画面から、顔を逸らした。


 手が、微かに震えていた。284年生きて、歴戦の経験を持つ自分が——15歳の少女の戦いを映像で見て、目を逸らした。


 「……私たちが、こんな子に全部背負わせてしまった」


 病室には誰もいない。


 声は、ただ白い壁に吸い込まれていった。


 ベッドの上の少女は、静かに眠っていた。



        ◇



 ドアがノックされた。


 レティシアは立ち上がり、ドアを開けた。


 アンディール・フィズサールが、病室に入ってくる。


 通常勤務の制服に、デュランダル搭乗時の記章を残したまま。先の戦闘から数時間しか経っていない。疲労の色は表に出していないが、肩のラインの下がり方に、それでもわずかに現れている。それでも、512年生きた武人の厳格さは、姿勢の芯に揺るがず残っていた。


「容態は」


 短い問いだった。


 レティシアは敬礼した。


「医療処置は完了しています。神経・骨・内臓に異常なし。あとは体力の回復のみとのことです」


「そうか」


 アンディールはベッドに歩み寄り、一瞬だけ綾目の顔を見下ろした。それから、視線を引き戻した。


「戦闘ログを」


 レティシアはマギスレートを差し出した。アンディールが受け取り、立ったまま画面を操作する。


 ステルス機の三点バースト撃破。弾道予測による回避。恐怖を上書きするためのシャープペンシルでの自傷。最後に、デルタ機を一刀両断する場面。


 アンディールの琥珀色の瞳が、画面の動きを追っていた。表情は変わらない。それでも、その視線の重みだけは、画面に向かって突き立てられているようだった。


 全シーンを確認し終えると、アンディールはゆっくりと顔を上げた。


「……常識外れの腕だ」


 声が低かった。


「それ以上に、この精神力。15歳の初陣のものとは、到底思えん」


 評価としては、最大級だった。剛剣アンディールが、戦闘経験のない15歳の少女に対して、これほど抑揚を込めて述べる評価。レティシアはその重みを正確に理解していた。


 アンディールは画面を閉じた。


「プロフィールは」


「こちらに」


 レティシアが別のスレートを差し出した。アンディールが受け取り、目を走らせる。


 ——比良坂 綾目。

 ——15歳。アカデミー1年A組。

 ——父:比良坂 豪(故人・元黒竜騎士団副団長)。

 ——母:比良坂 志乃(故人)。

 ——後見:父方祖父・比良坂家/母方祖母・鳴海家。共に騎士団重鎮。


 アンディールの目が、父親の名で一瞬止まった。


 しかし、それだけだった。


 個人的な縁があるわけではない。同期でもなく、任務で言葉を交わしたこともない。「黒竜騎士団副団長の娘」という事実を確認した。それだけだ。


 アンディールはスレートを返した。


「レティ」


「はい」


「俺は長官と直に話をしてくる」


 その一言に、レティシアの背筋が、わずかに伸びた。


 長官——ルクレツィア・ヴァレンシュタイン。特務騎士局の頂点に立つ存在。アンディールが「直に」話しに行くということは、書面の報告では済ませないという意味だ。それは、この案件が彼自身の判断の範疇を超えたと認めたことを示していた。


「戦闘ログが示す能力——ステルス看破、プロテクトシールドへの干渉、異常な弾道予測。通常のパイロット能力では説明がつかない。これは我々だけで処理できる範疇を超えている。長官に直接報告し、判断を仰ぐ」


「……承知しました」


 アンディールはドアの方へ向かった。途中で、一度足を止めた。


 ベッドの方を、振り返らずに言った。


「レティ。この子が目を覚ましたら、伝えてくれ」


「はい」


「特務騎士局は、そして俺個人は、我々の不手際を一人の戦士に全てを背負わせてしまったことを、心から詫びると」


 短い沈黙があった。


 レティシアは、すぐには答えられなかった。


 剛剣アンディール・フィズサールが、15歳の少女に対して「詫びる」と言った。この男がそういう種類の言葉を口にする場面を、レティシアが特務騎士局に入って以来、数えるほどしか見たことがなかった。


 ようやく、レティシアは口を開いた。


「……お伝えします、必ず」


 アンディールは、頷いた。それだけ言うと、病室を出ていった。


 ドアが閉まる音だけが、静かに残った。


 レティシアはしばらく、閉まったドアを見ていた。


 それから、椅子に座り直した。


 ベッドの上の綾目を、黙って見た。


 白くて、細い首筋。あどけない寝顔。アンディールから伝言を預かった今、この子が目を覚ますのを、ここで待ち続けなければならない。


 それは、苦痛ではなかった。


 ただ——重かった。



        ◇



 アンディールが去ってから約30分が経った。


 ドアが、また開いた。


 アルス・マフノだった。


 黒髪をシニヨンに結い上げ、任務中の制服姿。整った顔立ちに、紫水晶色の瞳。室内を一瞥しただけで全ての情報を把握したように見えた。


「お疲れ様、レティ」


 声は静かだった。抑揚が少なく、それでいて冷たさは感じない。


「アルス副局長」


 レティシアは立ち上がり、敬礼した。


「下がっていいわ」


「は——」


「少し、彼女と二人だけで話がしたい」


 穏やかな指示だった。レティシアは一瞬迷ったが、すぐに「了解しました」と答え、マギスレートを抱えて病室を出た。退室の際、アルスがベッドの脇に静かに座る姿を、目の端で捉えた。


 ドアが閉まる。


 病室の中は、再び静かになった。



        ◇



 最初に感じたのは、消毒薬の匂いだった。


 次に、清潔なシーツの感触。皮膚に触れている布の冷たさ。


 綾目は、まぶたの裏に光を感じた。


 ゆっくりと、目を開けようとする。


 その瞬間、目の奥に、鋭い痛みが走った。針を差し込まれたような、深い場所からの痛み。思わず息を止めた。同時に、こめかみが脈打ち始めた。眠っている間ずっとそこにあったのだろう、眠りの底から染み出すような頭痛だった。


 (……ここは……)


 ぼんやりとした視界が、徐々に焦点を結んでいく。


 白い天井。蛍光灯ではなく、柔らかな間接照明。点滴のスタンド。窓のブラインドから差し込む光は、午後のものだ。


 病院だ。


 ゆっくりと、記憶が戻ってくる。正門で見た光景。倒れた騎士たち。ブロードソードに乗り込んだこと。引き金を引いたこと——。


 右太ももに、新しい包帯の感触があった。痛みは鈍い。処置されている。


 視線を、横に向けた。


 ベッドの脇に、人影があった。


 黒髪をシニヨンに結った、長身の女性。任務中とおぼしき制服姿。整った顔立ちに、紫水晶色の瞳が静かに綾目を見つめていた。


 (ダークエルフ……)


 綾目の頭の中で、その種族名が浮かんだ。


 (綺麗な人……でも、どこか氷のように冷たそう……)


 意識がまだ完全には戻っていない中で、それが第一印象だった。


 女性が、口を開いた。


「お目覚めですか、比良坂さん」


 声は、低く、静かだった。



        ◇



「……はい」


 綾目はそう答えた。声がかすれた。


 女性は名乗った。


「特務騎士局副局長、アルス・マフノです」


 名前を聞いて、綾目は記憶を辿ろうとした。特務騎士局の副局長——。


 アルスは、わずかに頭を下げた。


「まずは、お詫びをさせてください」


「……え」


「特務騎士局の初動が遅れたことで、あなた一人に重い負担を強いてしまいました。本来であれば、我々がアカデミーからの第一報を受けた時点で、もっと早く展開すべきでした。お許しいただけるとは思いません。それでも、組織を代表する立場の者として、まずお詫びを申し上げます」


 頭を下げたまま、アルスは動かない。


 綾目は、慌てて首を横に振った。


「……謝らないでください」


 声が、思ったより弱く出た。


「私は、私にできることをしただけです」


 それから、本当に大事なことを思い出した。


「それより——帝国アカデミーは……皆は、無事だったのでしょうか」


 アルスの紫水晶色の瞳が、わずかに見開かれた。


 ほんの一瞬の動きだった。すぐに元の表情に戻る。それでも、その一瞬の中に、確かな何かが宿った。


「……あなたの活躍のおかげで、生徒及び教職員に死傷者は1人も出ていません」


 綾目は、深く息を吐いた。


 全身から、ほんのわずか、力が抜けた。


「……よかった」


 それが、心から漏れた声だった。


 アルスは、しばらくその様子を黙って見ていた。それから、座り直した。



        ◇



「比良坂さん。1つ、お訊きしてもよろしいですか」


「はい」


「なぜ、ステルス機能で不可視化されていた敵機を視認し、正確に撃ち抜けたのですか」


 綾目の頭の中で、何かが引っかかった。


「……視認、ですか」


「はい。ステルスフィールドはレーダーや魔力探知だけでなく、光学的にも対象を捉えづらくする技術です。今回の機種は帝国軍でも解析途上のもので、現状では極めて捉えにくい。にもかかわらず、あなたは三点バーストを、コックピット位置に集中して撃ち込んでいる」


 アルスの言葉は、淡々としていた。


「そして敵の攻撃をコンマ数秒で回避する動き。あれはブロードソードの標準機能でも、パイロットの勘でも不可能なはずです」


「……」


「あなたには、何が見えていたのですか」


 綾目は、答えを探した。


 あの戦闘の中で、自分が何を見ていたのか。何を頼りに撃ったのか。


 ゆっくりと、口を開いた。


「……何となく、そこに、陽炎のような靄が見えたんです。だから、そこを狙いました」


「靄」


「はい。透明なんですけど、空気が歪んでいるような感じで……光の屈折みたいな……でも、見れば見るほど、輪郭がはっきりしてきて」


 アルスは、何も言わなかった。続きを促すように、ただ視線を綾目に向けたままでいた。


「回避については……赤い線のようなものが見えて、それに合わせて機体を動かしただけです」


「赤い線」


「弾の通る道、というか……撃たれる前に、線が見えるんです。それに合わせて」


 綾目はそこで、初めて疑問を口にした。


「あれは……グラムの標準機能では、ないのですか?」


 その瞬間、アルスの瞳の奥で、何かが静かに動いた。


 外見上は、何も変わらなかった。表情筋ひとつ動いていない。それでも、その内側で、何かが完全に確信に至った気配があった。


 (——ステルスの看破。マナを弱体化させることで、ステルスフィールドそのものの効果を削いだ。それが「陽炎のような靄」の正体だ。そして赤い線——マナの動きを読んで弾道を予測した。どちらも魔眼の特性として説明がつく)


 (だが——二つの性質が、まるで違う。前者はマナへの干渉、後者はマナの読み取り。同一個体にこれほど異なる系統が……)


 (まさか、複合魔眼か。千年に一人現れるかどうかの——状況からして、そうとしか考えられない)


 瞬きほどの間に、アルスの中で結論が出た。


 代わりに、綾目の問いに、静かに答えた。


「いいえ。それは、グラムの標準機能ではありません」


「……えっ」


 綾目の目が、わずかに揺れた。


「では、私の——目に……」


 言いかけて、止まった。


 その先を口にする勇気が、まだ綾目にはなかった。何かがあるかもしれない、ということを認めるのが、怖かった。考えなければならないことが、また増える。今はもう、新しいものを抱える容量がなかった。


 アルスは、その逡巡を見ていた。


 追求はしなかった。


「……今は、その話はやめておきましょう」


 綾目は、小さく頷いた。



        ◇



「あの……1つ、お訊きしてもよろしいですか」


「どうぞ」


「私は、これからどうなるのでしょうか」


 声が、少しだけ震えていた。


「テロリストとはいえ、私は、人を殺めてしまいました。それに……許可なく軍のグラムに搭乗したことも……罪に、問われるのでしょうか」


 パニックではなかった。泣き叫ぶでもなかった。それでも、声に薄く震えがあった。彼女の中で、ようやく感情が言葉として形を取り始めていた。


 アルスは、答えた。


「緊急避難および正当防衛が完全に成立します」


「……」


「加えて——あなたが搭乗した機体のプライマリパイロットは、搭乗前にテロリストに殺害されていました。統括AI『アストレイア』が生体シグナルロストとして死亡判定を下しており、あなたへの緊急操縦権限の付与はシステムが正規に行ったものです。無断搭乗ではありません。罪に問われることは、決してありません」


 綾目の表情は、晴れなかった。


 頷きはした。法的な答えとして理解はした。しかし、目の奥に、まだ重いものが残っていた。それは法律で処理できる種類のものではなかった。自分の手で命を奪った、という事実そのものの重さだった。


 アルスは、それを見抜いていた。


 ゆっくりと、口を開いた。


「比良坂さん」


「はい」


「罪の意識は、決して忘れてはなりません」


 声は、低かった。それでいて、温度があった。


「その重さから目を背けた時、騎士はただの人殺しに成り下がる。命を奪ったという事実を、軽くしてはなりません」


 綾目は、唇を噛んだ。


「ですが——その重さに、潰されてもいけない」


 アルスの紫水晶色の瞳が、まっすぐに綾目を捉えていた。


「あなたは、多くの命を救った。あの場で、生徒も、教職員も、あなたが動かなければ、もっと多くが失われていた。皇女殿下も含めて。その事実もまた、あなたが背負うべき誇りです」


「……誇り」


「重さと、誇り。両方を背負って立つ。それが、騎士というものです」


 綾目の目が、わずかに潤んだ。


 涙を流すのではない。何かが、心の奥で、整理される一歩手前にあった。


 アルスはゆっくりと立ち上がった。


「今日、あなたは初めて人を斬った。15歳で、正式な訓練も経ずに。それでも——その覚悟は、私が見てきた騎士たちのそれと、何も変わらなかった」


 それだけ言って、アルスは静かに病室を去った。


 ドアが閉まる音だけが、室内に残った。


 綾目は、目を閉じた。


 涙は、出なかった。


 ただ、深く深く、息を吐いた。


「……重さと、誇り」


 小さく、口の中で呟いた。


 その言葉を抱えたまま、綾目はもう一度、眠りに落ちていった。



        ◇



 窓の外が、オレンジ色に染まり始めていた。


 夕暮れの光が、ブラインドの隙間から差し込んでいる。光の色が、午後のそれより、ずっと深い。


 綾目が再び目を開けたとき、ベッドの脇に、別の人影があった。


 長い金髪。柔らかな顔立ち。明るめの碧眼。


 ハイエルフ——という直感が来た。


 その女性が、綾目と目が合った瞬間、ぱっと笑顔を見せた。


「あ、起きた? アヤメちゃん。気分はどう?」


 綾目は、一瞬、反応に困った。


 (……この人も、特務騎士局の人……?)


 (綺麗な人だけど、あまり騎士っぽくないような……)


 先ほど会ったアルスとは、明らかに空気が違っていた。アルスが氷の彫像のような静謐さだとすれば、この人は陽だまりのような明るさを纏っていた。同じ組織の人間とは思えないほどだった。


「特務騎士局のレティシア・グティエレスよ。ヴリトラのパイロット。アヤメちゃんを引き上げたの、私ね」


「……あ」


 助けてくれた人だ、と綾目は気づいた。


「ありがとうございました」


 頭を下げようとした綾目を、レティシアが手で制した。


「いいの、いいの。こっちが遅れたせいで、あんなことになったわけだし」


 彼女は、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。


「大丈夫? 色々あったし、気にするなって言っても無理だろうけどさ。まあ、アヤメちゃんがやったことは間違いじゃないし、悪いようにはならないから。そこはお姉さんたちに任せときなって」


 屈託のない口調だった。


 アルスの言葉は重かった。重さと誇り。一生かけて向き合うもの——その言葉は綾目の核に届いた。だが、同時に、それは綾目を立たせ続ける重みでもあった。


 レティシアの「お姉さんたちに任せときな」は、軽かった。


 軽くて、温かかった。


 それは、綾目が今いちばん必要としていた種類の言葉だった。


「……ありがとうございます」


 小さく、そう言った。


 レティシアはにっこりと笑った。それから、思い出したように、自分のマギスレートを取り出した。


「あ、そうそう。念のため番号交換しとこうか」


「番号、ですか」


「うん。何かあったらいつでも連絡してきなさいよね。怖いこと思い出した時とか、夜眠れない時とか。話くらいなら聞くからさ」


 差し出されたスレートを、綾目は受け取った。短い操作で、連絡先が交換される。レティシアの登録名は「レティお姉さん」と入っていた。


 綾目が思わず、ふっと笑った。


 今日、初めての笑みだった。


 それを見て、レティシアも笑った。それから、芝居がかった口調で、付け加えた。


「ま、デートのお誘いなら、お姉さんいつでもウェルカムだから!」


「……それは、考えておきます」


 茶化すような口調だったが、その碧眼の奥には、確かな優しさが宿っていた。


 夕暮れの光の中で、2人は少しの間、静かに笑い合っていた。


 病室の白い壁に、夕日の影が長く伸びていた。


 (……これからが、始まりなんだけどね)


 レティシアはそう思いながら、笑顔を保っていた。

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