第二十二話 皇子と嵐の前
夏季休暇の数日前。
放課後の訓練室に三人がいた。
ドルフが壁際に立ち、ソフィアが記録板を手に持っている。綾目はその中央で目を閉じていた。
「読みの眼——起動」
呼びかけに応じて意識の奥で何かが変わる。まわりのマナの流れが薄い輪郭として浮かび上がる。ドルフの体が放出するマナの動き。ソフィアの気配。空気中の微細な揺らぎ。
「停止」
引く。納刀のイメージで意識の内側に収める。
「起動」
また出す。
「停止」
また収める。
以前は「半分しか切れていない」状態が続いていたが、今は違った。スイッチを押すようにはっきりと切り替わる感覚がある。
「最後」
ドルフが言った。
弱化の眼を短く起動して止める。頭の奥に少しだけ鈍い圧がかかった。それだけだった。
「終わりだ」
ドルフは記録板をテーブルに置いて腕を組んだ。ソフィアが数値を確認しながら小さく頷く。
「基礎訓練はここまででいいだろう」
綾目は少し意外に思ってドルフを見た。
「よろしいのですか」
「起動と停止は安定している。飲み込みも早い」
普段ほとんど褒めることのないドルフが短くそう言った。
「もっとも、訓練通りの条件で戦える保証はない。後は自主訓練と実戦の中で調整しろ」
「……はい」
ドルフは記録板をテーブルに置いて腕を組んだ。
「もう一つ確認しておく」
「魔眼については読みの眼の存在だけ明かせ。弱化の眼はこれまで通り秘匿だ」
「卒業までは原則として最高機密。ただし、命に関わるやむをえない場合はその限りではない。そこは自分で判断しろ」
ソフィアが続けた。
「読みの眼についても能力の限界や具体的な使用条件まで話す必要はありません」
綾目は了承した。
(読みの眼を表に出し、弱化の眼を隠す。必要な情報だけを話せばいい)
訓練が予定より早く終わり時間が空いた。
綾目は記録板の整理をしているソフィアの横顔を見た。この一ヶ月毎回の訓練に付き合い、数値を取り続けた。訓練メニューの作成まで担っていたとドルフから聞いている。
声をかけることを少しだけ考えた。
◇
訓練室を出てから綾目は隣を歩くソフィアへ声をかけた。
「ソフィアさん。この後時間はありますか」
ソフィアがわずかに返答を止めた。
「あります」
「よろしければ、お茶に付き合っていただけませんか」
ソフィアがわずかに返答を止めた。
「……何か確認事項がありますか」
「訓練を手伝っていただいたお礼です。記録も毎回まとめていただきましたので」
ソフィアは断る理由を考えた。訓練補助は自分が必要だと判断して行ったことだ。礼を受け取る必要はない。しかし断る理由も見当たらない。
「……分かりました」
「ご迷惑ではありませんでしたか」
「迷惑ではありません」
少しだけ間があった。
「むしろ……問題ありません」
自分でも説明しにくい言い方になった。
◇
食堂に隣接した喫茶コーナーは放課後の時間帯に静かだった。
二人は向かい合って座った。綾目は紅茶を注文した。ソフィアも同じものを頼んだ。
「家のグラムシミュレーターは先日ソフトウェアを更新しました」
ソフィアが言った。
「現在運用されているブロードソードとロングソードの主要な派生型には対応しています」
「それだけ種類があるのですか」
「基本操作は共通していますが、重量配分や推進力が異なります。綾目さんが苦手としている機体を確認することもできます」
「それは楽しみですね。滞在中に一通り試したいと思います」
話題は後半の夏休みについてだった。しかしどこかそれだけではない気がした。訓練の話をしながら二人の間には穏やかな空気が流れていた。
ソフィアはそれを悪くないと思った。もう少し続いてほしいとも感じた。その感覚に名前をつけることはまだできなかったが。
廊下の方から誰かが近づいてくる気配があった。
◇
落ち着いた金髪にグレーがかった青い瞳。
上級生の制服を着た男子生徒が二人のテーブルの前で足を止めた。隠そうとしても隠れない品格が立ち居振る舞いの隅々に滲んでいた。
「お邪魔してもいいかな」
穏やかな声だった。
「妹を助けてもらったお礼が言いたくてね」
「妹……ですか」
「ああ。自己紹介が先だったね」
わずかに微笑む。
「僕はアレン・アウレリア。セレナの兄だ」
綾目は立ち上がろうとした。
「失礼しました。殿下とは知らず——」
アレンが片手を上げて静かに制した。
「ここでは殿下はやめてほしい。一生徒のアレンとして接してくれないかな」
「……分かりました」
ソフィアはアレンの正体を知っていた。静かに頭を下げる。アレンは空いている椅子を示した。
「少しだけ同席しても?」
綾目はソフィアを見た。本来これはソフィアへのお礼の時間だ。
「私は構いません」
ソフィアが答えた。
アレンが席に着いた。
◇
「アカデミーでの事件については聞いている」
アレンがテーブルに軽く手を置きながら言った。
「情報規制が敷かれているから詳細までは知らないけれどね」
「君が妹を救うために動いてくれた。それだけでも礼を言う理由には十分だ」
「私はその場で必要なことをしただけです」
「それでも妹が無事だったことは事実だ。兄として感謝している」
穏やかな会話だった。アレンは礼を言いながら綾目の受け答えを観察していた。ソフィアは口を挟まず紅茶を飲んでいた。
「それとエルゼリス君との立ち合いも見たよ。あの刀術は見事だった」
「ありがとうございます」
「ただ一つ気になったことがある」
アレンはカップを置いた。
「エルゼリス君はあの立ち合いでは魔法を使わなかった」
「もし魔法も使っていたら結果は違ったと思うかい?」
「分かりません」
「分からない?」
「使われていない魔法を仮定しても条件を定められません。術式も距離もタイミングも分からない以上、勝敗は判断できないと思います」
「では実際に使われたら?」
「その場で判断します」
アレンの目がわずかに細くなった。
「対処できないとは言わないんだね」
「できるとも言っていません。まだ起きていない立ち合いの結果を先に決める必要はないと思います」
綾目は虚勢を張らなかった。魔力差があることも理解していた。ただ実際に起きていない状況について敗北を決めつけることもしなかった。アレンは綾目が質問の裏まで察していると感じた。
「もう一つだけ聞いてもいいかな」
「内容によります」
アレンがわずかに笑った。
「ここへの編入にはルクレツィア長官のお墨付きだそうだね。あの刀術だけでも十分だとは思うけど——」
言葉が一拍区切れた。
「何か他にもあるんじゃないかい。例えば……魔眼とか」
綾目は瞬時に考えた。
(知らなかったのではない。私がどこまで話すか確認しに来た。否定すれば別の情報を探し始める)
読みの眼の存在は開示してよいとドルフに確認済みだ。弱化の眼は秘匿する。
「……はい。魔眼を持っています」
アレンが驚いたように眉を上げた。
「本当に?」
「マナの流れを読む魔眼です。ただ実戦で安定して使うにはまだ課題があります」
嘘は言っていない。基礎的な制御訓練は終わったが、あらゆる実戦状況で自在に扱える段階ではまだない。使用時間や詳細な制限については話さなかった。弱化の眼についても一切触れなかった。
「マナの流れを……なるほど」
アレンが少しの間だけ空を見た。驚いたように見える。しかし質問の運び方からして、最初から何らかの魔眼を予想していた可能性が高い。互いに相手がすべてを話していないことを理解している。
それでも表面上は穏やかな会話が続いていた。
アレンは綾目へ身体を向け柔らかく微笑んだ。
「興味深いね。対処するのが難しい力だ……」
◇
その瞬間、ソフィアの胸の奥に強い違和感が生まれた。
(何だ。この感覚は)
先ほどまで綾目と二人でお茶を飲んでいた。アレンが席を離れれば元の状態に戻る。それは分かっている。
アレンは敵ではない。綾目に礼を言いに来ただけだ。会話にも不自然な点はない。
なのに——消えない。
(この場にいてほしくない)
自分の中に浮かんだ言葉にソフィア自身が戸惑った。
論理的ではなかった。アレンを排除する理由がない。
ソフィアは紅茶のカップを静かにソーサーへ戻した。音はほとんど立てなかった。表情も変えなかった。それでも二人の会話を聞くことがさっきより少し不快だった。
◇
アレンのマギスレートが小さく震えた。
画面を確認してアレンは軽く息を吐いた。
「もっと話していたいけれど、邪魔をしすぎたようだ」
立ち上がりながら綾目を見た。
「何か困ったことがあれば僕を頼ってくれて構わない。この学校ではそれなりに顔が利くから」
「お気遣いありがとうございます」
「ではまた」
最後まで余裕を崩さずアレンはその場を離れた。
────
歩きながらアレンは綾目との会話を振り返った。
戦闘力に優れた者なら他にもいる。魔眼を持つ者も数は少ないが存在する。
しかし綾目は——問いの裏を読み、曖昧な条件では結論を出さず、不利な事実を感情的に否定せず、嘘を使わず渡す情報だけを選び、皇族を前にしても必要以上に萎縮しなかった。
戦闘能力だけではない。判断力、機転、情報管理——それらを同時に持つ者は少ない。
(欲しいな)
恋愛感情ではない。優秀な人材を自分の側へ置きたいという政治的な欲求だった。
◇
アレンが去って再び綾目とソフィアだけになった。
「まさかアレン殿下がいらっしゃるとは思いませんでした」
「……そうですね」
返事が短かった。
綾目はソフィアの紅茶がほとんど減っていないことに気づいた。
「冷めてしまいましたか」
「いいえ。問題ありません」
ソフィアは再びカップを持ち上げた。しかし先ほどまで感じていた穏やかさは戻りきらなかった。
(綾目さんと関わるようになってから説明のつかない反応が増えている)
胸が痛む。心拍が変化する。理由もなく不快になる。綾目が別の誰かと親しげに話していると落ち着かなくなる。
今日の反応は特に強かった。
(これは正常ではない)
(……一度診察を受けるべきかもしれない)
嫉妬という言葉へは辿り着かなかった。ソフィアは本気で身体的な異常を疑っていた。
綾目はその内心を知らず静かに紅茶を飲んでいた。
◇
その頃、帝国郊外の広大な私有地の中央に建つ邸宅では。
一通のマギスレートのメッセージが届いていた。
受信者はファルケンブルク家当主——ガイウス。送信者はエルゼリスだった。
『夏季休暇により帰省します。学友を一人連れていく予定ですので客室の準備をお願いします』
ガイウスは画面を見たまま動かなくなった。
(学友を一人連れてくる?)
何度読み返しても内容は変わらない。学友。エルゼリスが。
ガイウスは立ち上がり家族の集まっている部屋へ向かった。
◇
居間では母リーナ、長兄レオン、妹フィアがお茶を飲んでいた。
次兄クロードは前線任務中だが、マギスレートのオンライン通信で会話に参加している。画面の中でクロードが片手でカップを持ちながら何かを言っていた。
ガイウスは家族を見渡した。
「……エルゼに友人ができた」
一瞬の沈黙。
「……何?」
レオンがわずかに前のめりになった。いつも姿勢を崩さない長兄が、だ。
通信画面の向こうでクロードが目を見開いた。
「本当に? あのエルゼが?」
「本当だ」
ガイウスはエルゼリスのメッセージを全員に見せた。
リーナは口元を押さえた。目に薄く涙が浮かぶ。
「あの子に友達が……本当に……」
「お姉様がお友達を連れてくるのですか?」
フィアが少し目を丸くした。
その一文——『学友を一人連れていく』——がファルケンブルク家に大きな衝撃を与えた。
家族関係は悪くない。しかしエルゼリスは以前から友など不要と孤独を貫き、同年代の友人を家へ招いたことがなかった。孤高を貫いてきた娘のその変化を、全員が密かに心配していた。
◇
「当家を挙げてお迎えせねばならん」
ガイウスが立ち上がった。
「警備配置を見直すべきでしょう」
レオンが低く言う。
「せっかくだし歓迎会を開こう」
クロードが通信越しに言った。
「客室のお花を全部替えましょう。食事の好みも確認しないと」
リーナが手帳を取り出す。
「楽団も呼ぶか」
「訓練場の整備も必要です。エルゼの友人なら騎士学校の生徒でしょう」
「休暇を申請する。三日程度なら戻れるはずだ」
前線任務中の隊長が自ら休暇を取ってまで帰ると言い出した。
話がみるみる大きくなっていった。
フィアはしばらく黙って聞いていた。やがて小さく手を上げた。
「……少しよろしいですか」
全員が止まった。
「そのような大げさな歓迎をしたらお姉様のお友達が困ると思います」
「しかし失礼があってはならん」
「楽団を呼ぶ方が失礼です」
クロードが通信画面の向こうで笑いをこらえる顔をした。
「普通でいいのです。普通に客室を整えて普通に食事を用意して、自然に迎えればいいと思います」
「そうね。フィアの言う通りだわ」
「確かに過剰な歓迎は警戒させる可能性があります」
ガイウスも少し考えて頷いた。
「分かった。普通にもてなそう」
全員の意見がまとまった。
◇
翌朝からファルケンブルク家では普通のおもてなしの準備が始まった。
客室棟の中から日当たりと眺望のよい部屋が三つ候補として選ばれた。
料理長は帝都の有名店から食材を取り寄せる手配を始めた。
訓練場では使用予定の武器が一通り点検され、予備の防具が寸法別に並べられた。
庭師たちは玄関から客室棟までの庭園を整え始めた。
警備責任者は来客に威圧感を与えない範囲で警備員を増員した。
楽団は呼ばれなかった。歓迎会も開かれない。あくまで普通のおもてなしだった。
フィアはその準備の様子を眺め何かを言いかけた。しばらく考えてからひとつ息を吐いた。
ファルケンブルク家における「普通」は一般家庭のそれとは少し違っていた。
ガイウスは整えられていく邸宅を満足そうに見渡した。
「これならエルゼの友人にもくつろいでもらえるだろう」
「……そうだといいですね」
フィアだけが少し不安そうに答えた。
その頃、綾目はまだ自分を迎えるためにファルケンブルク家全体が動き始めたことを知らない。
夏季休暇の開始まであとわずかだった。




