第二十一話 夏休みの誘い
授業は順調に進んでいた。
グラムシミュレーターでの訓練も回数を重ねるごとに機体の扱いが身についてきた。
ただ一つ、フォースフィールドを持つ相手への決定打がない。その課題だけが、いまだ宙に浮いたままだった。
魔眼の訓練も並行して続いている。起動と停止の精度は上がっていたが、実戦で自在に扱える段階にはまだ遠い。
夏季休暇まで、あと一週間ほど。
◇
エルゼリスは自室の机に向かい、マギスレートを見つめていた。
長期外出申請の締め切りは来週の初め。帰省するかどうかは、まだ決めていない。
家族が嫌いなわけではなかった。
自分が反抗期なのだという自覚もある。
ただ、入学直前まであれほど反抗的な態度を取っておきながら、何事もなかったように帰るのは気まずかった。
家族はエルゼリスの意思を理解してくれている。
『お前が進みたい道を進め』
父も母も、兄たちも妹も、それぞれの形で示してくれた。
だからこそ顔を合わせにくい。
言葉にすると矛盾しているが、そういう気持ちだった。
(それに――)
エルゼリスはマギスレートを操作した。
画面に表示されたのは、以前購入した友人関係についての電子書籍だった。第七章には自分で付けた目印が残っている。
【重要】宿泊を伴う交流は、友人との心理的な距離を縮める効果があります。普段とは異なる環境を共にすることで、相手の新たな一面を知る機会にもなるでしょう。
エルゼリスは三度読み返してから画面を閉じた。
ホーム画面へ戻ると、使い魔を模した灰色の小竜がアイコンの中で首を傾ける。
『比良坂様を、ご実家へお誘いしてみますか?』
チャット欄に一行だけ表示された。
エルゼリスは無言で画面を見つめる。
(突然すぎるでしょうか……)
だが、考えてみれば悪い話ではない。
実家には訓練施設がある。一人で鍛錬するより、実力の近い相手と稽古をする方が効率はいい。勉学も互いに教え合える。
少なくとも、明確な欠点は見当たらなかった。
もし断られたら、帰省しなくてもいい。
学校に残れば訓練場で顔を合わせる機会もあるだろう。それは偶然であり、綾目に付きまとうことにはならない。
おそらく。
エルゼリスは返信を打つ代わりに、マギスレートをそっと机へ置いた。
(明日の昼食で誘ってみましょう)
◇
同じ夜。
ソフィアも長期外出申請の画面を開いていた。
夏季休暇中は、生徒の多くが帰省する。教官や警備員も交代制となり、校内に残る人員は通常より少なくなる。
綾目は夏休みの大半を学校で過ごすつもりだと聞いていた。
父方と母方、双方の祖父母から帰省を求められているものの、どちらかを優先することが難しいらしい。
結果として、短い挨拶以外は寮に残る可能性が高い。
(警備人員の減少した環境に一人で残すことは、推奨できません)
ネーゲルシュタイン家の邸宅は、警備面で学校を上回っている。訓練設備も整い、グラムシミュレーターも利用可能だった。
父と兄は仕事で不在にすることが多いが、母と姉はいる。二人なら綾目を迎えることに反対しないだろう。
(実家へ招くのが合理的です)
ソフィアは申請書の目的欄に文字を入力した。
――友人の招待。
書き終えたところで、指が止まった。
まだ綾目本人には何も話していない。
なぜ先に申請書へ書き込んだのだろう。
答えは出なかった。
ただ、考えるより先に手が動いていた。
◇
翌日の昼休み。
食堂へ向かう廊下で、綾目は人の流れの中に見知った顔を見つけた。
セミロングの黒髪と、その隣を歩く薄紫色のウェーブヘア。
カイとナーヤだった。
ナーヤが先に気づき、小さく手を振る。
カイも「よっ」と片手を上げた。
綾目も軽く手を上げて応じる。
言葉を交わすこともなく、二人はそのまますれ違っていった。
編入してから、まだ一か月も経っていない。
それでも一般科に顔を知る相手ができた。
ほんの短い挨拶だったが、以前の綾目にはなかった変化だった。
◇
食堂では、いつもの五人が同じテーブルを囲んだ。
「夏休み、楽しみですね」
ヴァルカが弾んだ声で言った。
「ヴァルカさんは、カルデアへ帰るんですか?」
ミアが尋ねる。
「はい。久しぶりに子供たちの顔を見られます。祖母にも会えますし」
ヴァルカは嬉しそうに答えた。
エルゼリスは二人のやり取りを聞きながら、膝の上で指を組んでいた。
(今日こそ、誘う)
昨日も一昨日も機会を逃している。
今日こそは切り出さなくてはならない。
向かいではソフィアが静かに食事を続けていた。
「そういえば、皆さんは夏休みをどう過ごすんですか?」
ミアが首を傾けながら、テーブルを見渡した。
「私は実家へ戻ります。休暇というより、半分は勉強になりそうですけど」
アストラル・ダイナミクスの施設を見学する予定なのだろう。
ミアは続いてエルゼリスへ視線を向けた。
「エルゼリスさんは?」
「……帰省するかもしれません」
エルゼリスは箸を置いた。
今しかない。
ためらったのは、ほんの一秒だった。
「比良坂さん。夏休みは――」
「綾目さん。夏季休暇は――」
二つの声が重なった。
テーブルの空気が止まる。
エルゼリスとソフィアは互いの顔を見た。
ミアとヴァルカも黙って二人を見比べている。
「……お先にどうぞ」
エルゼリスが言った。
「いえ。エルゼリスさんからで構いません」
「では……失礼します」
少しぎこちない譲り合いの後、エルゼリスは綾目へ向き直った。
「比良坂さん。夏休み、我が家へ来ませんか」
声が少し上ずったような気がする。
「エルゼリスさんのご実家へ、ですか?」
「はい」
エルゼリスは姿勢を正した。
「客室は余っています。訓練施設もあるので、一緒に稽古ができます。勉強にも支障はありません」
「ですが、ご家族の迷惑にはなりませんか」
「迷惑ではありません!」
思ったより強い声が出た。
周囲の視線がわずかに集まり、エルゼリスは小さく咳払いをする。
「それに、比良坂さんなら訓練相手としても不足はありません」
綾目の口元がかすかに緩んだ。
「不足がない、という誘われ方は初めてです」
「褒めています」
「ありがとうございます」
エルゼリスは真顔で礼を返され、返答に困った。
ミアが口元を隠して笑いをこらえている。
「エルゼリスさんのご実家で稽古ですか。確かに魅力的ですね」
エルゼリスは赤くなりかけた耳を隠すように顔を背けた。
◇
ソフィアは二人の会話を黙って聞いていた。
ファルケンブルク家の警備水準は高い。訓練環境も整っている。
綾目がそこで夏休みを過ごすのなら、安全上の問題はない。
合理的に考えれば、自分の提案は必要なくなった。
そのはずだった。
胸の奥に、小さな異物のような感覚が生まれる。
痛みではない。
不安とも違う。
ただ、このまま引き下がることは適切ではないと感じた。
理由は分からなかった。
「……当家も警備水準が高く、訓練設備が充実しています」
ソフィアが静かに口を開く。
「綾目さん。夏季休暇中、当家へ来ませんか」
テーブルが再び静かになった。
「ソフィアさんのご実家にも?」
「はい。グラムシミュレーターも利用できます。長期的な訓練環境として問題はありません」
いつもと変わらない淡々とした声だった。
だが、エルゼリスの誘いを受けて引き下がるつもりがないことだけは、はっきりと伝わった。
◇
ヴァルカは、そのやり取りをじっと見ていた。
(綾目さんを実家に誘う)
(その手があったかぁ……!)
なぜ思いつかなかったのだろう。
綾目なら、カルデアの子供たちにも好かれるはずだ。祖母もきっと歓迎する。
だが、すでにエルゼリスとソフィアが一歩も引かずに向かい合っている。
今から自分まで加われば、綾目を困らせるだけだろう。
ヴァルカはテーブルの下でマギスレートを開き、メモアプリに一行だけ入力した。
『次の長期休暇――先手を打つ』
保存を終えると、何事もなかったように端末をしまった。
◇
「あの」
綾目が二人へ声をかけた。
「お二人とも、誘ってくださるのはありがたいのですが……」
どちらの誘いも嬉しかった。
一人で学校に残ることに不満はない。
だが、エルゼリスとの剣術訓練にも興味がある。ソフィアの実家にあるグラムシミュレーターも魅力的だった。
どちらか一方を選ぶ理由がない。
同時に、どちらか一方を断る理由もなかった。
「どちらを選べばよいのでしょうか」
「でしたら、両方に行けばよいのではありませんか?」
ミアがあっさりと言った。
四人の視線が集まる。
「夏休みの前半をエルゼリスさんのご実家で、後半をソフィアさんのご実家で過ごすんです。日程を分ければ問題ありません」
エルゼリスは少し考えた。
前半を確保できるのなら悪くない。
「……私は構いません」
ソフィアも短い沈黙の後に頷く。
「問題ありません」
二人の答えを聞き、綾目は小さく息を吐いた。
「では、お二人のご家族にも問題がなければ、お世話になりたいと思います」
「もちろんです」
「許可は確認します」
二人がほぼ同時に答えた。
綾目は、わずかに目を伏せる。
自分からどこかへ行きたいと思ったわけではない。
それでも、こうして行き先が増えていくことは不思議だった。
以前の自分にはなかったことだ。
◇
「あ、それから」
ミアが思い出したように声を上げた。
「夏休みの最後の三日間は、皆さん予定を空けておいてくださいね」
「皆さん、ですか?」
綾目が尋ねる。
「はい。せっかくの夏休みですから、少し計画していることがあります」
ミアはそれ以上説明しなかった。
眼鏡の奥の碧眼が、どこか楽しそうに輝いている。
「私もですか?」
ヴァルカが身を乗り出した。
「もちろんです。ヴァルカさんも含みます」
「内容は何ですか?」
エルゼリスが尋ねる。
「まだ秘密です」
ミアは笑顔でかわした。
「……危険な実験ではありませんよね」
「失礼ですね。友人を危険な実験に巻き込んだりはしません」
ミアは少し間を置いた。
「もし巻き込むならちゃんと安全性を確認してからにしますよ」
「その言い方では安心できません」
綾目が指摘すると、ミアは答えずに食事を再開した。
テーブルには、いつもの昼食の空気が戻ってくる。
綾目も箸を動かした。
夏休みの予定は、いつの間にか埋まり始めていた。
エルゼリスの実家。 ソフィアの実家。
最後の三日間には、ミアが何かを計画している。
(少し前の自分には——こんな夏休みは、考えられなかった)
胸の奥に、温かいものが広がる。 嬉しいというより、楽しみ。 そう名付けるのが一番近い気がした。
綾目は、わずかに口元を緩めた。
誰も気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしたのか。
食堂では、変わらない会話が続いていた。




