第二十話 囲われた少女
魔眼の訓練が終わり、訓練室を出たとき廊下の時計は19時を少し回っていた。
窓の外にはまだ薄い青が残っている。だが、長い廊下の奥にはすでに夜の影が溜まり始めていた。
「ソフィアさん。夕食、一緒にどうですか?」
綾目が声をかけると、隣を歩いていたソフィアは足を止めた。
淡い銀髪がわずかに揺れる。
「……今日は訓練記録をまとめます」
ソフィアの腕には薄い資料板が何枚か抱えられていた。
「そうですか……」
「すみません」
「謝ることではありません。また今度にしましょう」
「……はい」
ソフィアは小さく頭を下げ、教官室の方へ戻っていった。
その背中を見送ってから綾目は食堂へ向かう。
夏季休暇まであと二週間ほど。
騎士学校へ編入してからまだ半月も経っていない。だが、授業と訓練に追われる毎日は以前からここで暮らしていたような錯覚を起こさせるほど濃密だった。
腹部が空腹を訴えている。
今日の夕食は何だっただろう。昼に見た献立には肉料理の文字があった気がする。
食堂への最短経路は本校舎の裏を通る細い道だった。
昼間なら移動に使う生徒も多い。だが夜になると照明が少なく人影もほとんどなくなる。
綾目は迷わずそちらへ足を向けた。
(近い方がいい)
それだけの理由だった。
◇
校舎の裏手に回ると周囲の音が急に遠くなった。
食堂の方角から聞こえていた話し声も建物に遮られている。石畳を踏む自分の足音だけが一定の間隔で響いていた。
風が垣根を揺らす。
その音に混じって小さな声が聞こえた。
「……やめてください」
綾目の足が止まった。
女性の声だった。
先ほどのものよりも少し大きな声が続いた。
「本当に困ります……」
「困ることねぇだろ」
今度は男の声だった。
綾目は進行方向を変えた。
声は校舎と一般科寮を結ぶ渡り廊下の裏側から聞こえている。植え込みに隠れ、正面の通路からは見えにくい場所だった。
角を曲がる。
男子生徒が四人いた。
壁際に小柄な女生徒が追い詰められている。
肩より下まで伸びた薄紫の髪。柔らかなウェーブがかかった髪が俯いた顔を隠していた。制服の上から大きめのカーディガンを羽織り、胸元まできっちりと留めている。
逃げようとするたびに男子生徒の一人が進路を塞いでいた。
「俺たちが魔力補給の手伝いをしてやるって言ってるんだよ」
「そんなものは必要ありません……」
「サキュバスなんだろ? 遠慮するなって」
「今日はあの暴力女もいねぇしな」
笑い声が上がった。
女生徒の背中が壁に触れる。
「すぐ気持ちよくなるって。そういう種族なんだろ?」
綾目の指先がぴくりと動いた。
(騎士を目指す者が――)
一人を四人で囲み、逃げ道を塞いでいる。
拒絶の言葉を笑い、種族を理由に力を押しつけている。
気づいたときには綾目は暗がりから歩み出ていた。
「――何をしているんですか!」
声が校舎の壁に鋭く反響した。
自分でも驚くほど大きな声だった。
男子生徒たちが一斉に振り返る。
「なんだ、てめぇ」
先頭の一人が睨みつけてくる。
だが綾目の顔を認めた途端、その表情が止まった。
「おい、こいつ……」
「特別選抜科に入ってきた奴だ」
「ファルケンブルクとやり合ったっていう……?」
綾目は答えず腰のマギスレートを取り出した。
「校内での会話と皆さんの顔を記録しました」
それは半分だけ事実だった。起動したのは今だ。だが相手にそれを説明する必要はない。
「これ以上続けるのなら担当教官へ提出します。どうしますか?」
四人の視線が綾目へ集まった。
武器は持っていない。
それでも一歩も退くつもりがないことだけは伝わったらしい。
「……チッ」
先頭の男子生徒が舌打ちした。
「勘違いすんなよ。ちょっと話してただけだ」
「本人が拒絶しています」
「うるせぇな」
男子生徒は吐き捨てるように言い、仲間へ顎をしゃくった。
「行くぞ」
四人は綾目の脇を避け、足早に立ち去っていく。
すれ違いざま一人が低い声で言った。
「余計なことしやがって」
綾目は振り返らなかった。
追えば捕まえられるかもしれない。
だが今はそちらではない。
壁際の女生徒はまだ動けずにいた。
◇
「大丈夫ですか」
綾目は少し距離を残して立った。
女生徒は俯いたまま小さく頷いた。
「……はい」
声は震えていた。
両手で制服の裾を強く握っている。指先から血の気が失われていた。
「怪我はありませんか」
「はい、囲まれただけだったので……」
綾目は伸ばしかけた手を止めた。
「体を支えてもいいですか」
女生徒がゆっくりと顔を上げた。
大きな深紅の瞳が恐怖の余韻に濡れている。やや垂れた目元と整った顔立ちは柔らかな印象だったが、今はできる限り自分を小さく見せようとしていた。
ためらった後、彼女は小さく頷いた。
「……お願いします」
綾目は肩へ手を添えた。
触れた体はまだ細かく震えていた。
「深呼吸してください。急がなくて大丈夫です」
一度。
二度。
女生徒の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「私が……勝手に一人で帰ろうとしたから」
「一人で歩くこと自体は悪いことではありません」
「でも友達に待っているように言われていて……」
「悪いのはあなたに乱暴を働こうとした人達です」
女生徒が目を瞬いた。
何かを言おうとしたそのときだった。
「ナーヤ!」
校舎の向こうから荒い足音が近づいてきた。
黒髪の女生徒が渡り廊下を駆け抜けてくる。
セミロングの髪は走った勢いで乱れ、訓練着の上着を腰に巻いていた。細身ではあるが腕や肩には日頃から鍛えている者の筋肉が薄く浮いている。
「ナーヤ、大丈夫か!」
綾目の前まで来ると、その女生徒――カイはすぐに膝をついた。
顔を覗き込み、両腕や制服を確かめる。
「どこか触られたか?怪我は?」
「大丈夫……この人が来てくれて……」
カイの動きが止まった。
それから綾目を見る。
「あんたが助けてくれたのか」
「通りかかっただけです」
「それでもだ」
カイはナーヤへ向き直った。
「先に戻るなって言っただろ。売店に寄るだけだったんだぞ」
「ごめんなさい。人の多いところを通りたくなくて……」
カイは何か言いかけ、奥歯を噛んだ。
「……いや。目を離したあたしが悪い」
「カイのせいではありません」
「でも――」
「カイさん」
綾目が遮った。
「先ほどの四人について警備室へ報告します。ナーヤさんにも確認が必要になると思います」
ナーヤの肩が強張った。
「報告……」
「嫌なら今すぐ詳しく話す必要はありません。ただ何もしなければ繰り返されます」
綾目はマギスレートを見せた。
「顔は記録しています」
カイが画面を覗き込み目を細めた。
「なるほどな。逃がしたわけじゃねぇのか」
「追うよりナーヤさんの安全を優先しました」
「正解だ」
カイは短く言った。
それから少しだけ頭を下げる。
「助かった。本当に」
豪快な口調に似合わずその礼は真っ直ぐだった。
◇
警備室への連絡はカイが引き受けた。
今夜のうちに事情を伝え、翌日ナーヤ本人を交えて正式な確認を行うことになった。ナーヤの状態を考慮し女性教官が対応することも決まった。
通信を終えるとカイはマギスレートを腰へ戻した。
「これでいい。あとは明日だ」
ナーヤはまだ不安そうだったが先ほどより顔色は戻っている。
カイが綾目を見た。
「そういや、ちゃんと名乗ってなかったな。俺はカイだ。一般科の一年だ」
ナーヤが一歩前に出て、小さく頭を下げる。
「ナーヤです。同じく一般科の一年です。よろしくお願いします」
綾目も軽く会釈する。
「比良坂綾目です。特別選抜科の一年です」
カイがにやりと笑う。
「へぇ、あんたが噂の特別選抜か」
「大したものではありません」
「謙遜すんなって。あの足の運び、相当訓練積んでるだろ?」
ナーヤが少しだけ表情を緩める。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「いえ、当然のことをしただけです」
カイが親指で一般科のある方向をくいっと差す。
「礼にもならねぇけど、少し寄ってけよ」
「いえ。いきなりお邪魔するのも……」
「別に構わねぇって。それにナーヤも落ち着くだろ」
ナーヤが、綾目の袖をそっと摘んだ。
先ほどまで恐怖で震えていた手だった。
「あの……お願いします」
声は小さい。
だが、目は逸らさなかった。
「何もできないまま帰ってもらうのは、その……嫌なので」
綾目は袖を掴む指先を見下ろした。
他人の部屋へ上がるのは、あまり気が進まない。
迷惑になる可能性もある。
だが、このまま帰るのも、どこか落ち着かなかった。
ナーヤの手は、まだわずかに震えている。
カイも、軽口の裏で気にしているのが分かる。
「……では、少しだけ」
ナーヤの表情が、ほんの少し緩んだ。
◇
一般科の寮棟は特別選抜科とは別の建物にあった。
中へ入った途端、綾目はわずかに目を見開いた。
廊下の壁際に生徒が三人座り込んで話している。
開け放された部屋から笑い声が漏れ、別の部屋からは焦げたような匂いと、「また失敗した!」という叫び声が聞こえた。
カイが鼻を鳴らす。
「また誰か湯沸かし器で料理してやがるな」
「料理に使うものではないのでは……」
「腹に入れば一緒だろ」
「そうでしょうか」
ナーヤが小さく笑った。
特別選抜科の寮は個室が並ぶ静かな場所だった。
こちらは扉一枚ごとに人の生活が廊下へはみ出している。
同じ学校の中とは思えなかった。
◇
カイとナーヤの部屋は二人部屋だった。
同じ形の机とベッドが左右に並んでいる。
片方の机は教本が高さも向きも揃えて並べられていた。小さな花を挿した瓶まで置かれている。
もう片方の机には参考書、拳の保護具、飲みかけの水筒が無秩序に積み重なっていた。
「適当に座ってくれ」
カイが椅子の上に載っていた訓練着を掴み自分のベッドへ放り投げる。
ナーヤは小さな盆にカップを三つ並べ、湯を注いだ。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとうございます」
続いてナーヤは蓋つきの容器を机へ置いた。
中には小さな花の形をしたクッキーが並んでいる。焼き色も大きさもほとんど同じだった。
カイは棚を開け、大袋のせんべいを取り出した。
机の中央へ袋ごと置く。
「こんな物しかないけど適当に摘まんでくれ」
そう言って自分でせんべいを一枚取った。
綾目はクッキーへ手を伸ばす。
ナーヤがその動きをじっと見ていた。
一口かじる。
控えめな甘さだった。表面はさくりとしているが、中は少しだけ柔らかい。
「おいしいです」
ナーヤの肩から力が抜けた。
「……よかった」
「見た目は細けぇのに意外と量を作る」
「カイがすぐ食べてしまうからです」
「うまいから仕方ねぇだろ」
カイはそう言いながらクッキーにも手を伸ばした。
ナーヤがその手を軽く叩く。
「これはお客様用です。カイはおせんべいを出したでしょう」
「こんだけあるんだからいいじゃねぇか」
二人のやり取りを見ながら、綾目はもう一枚クッキーを取った。
◇
しばらくしてナーヤがカップを両手で包んだ。
「……私、サキュバスなので」
声が湯気の向こうから聞こえた。
「時々今日みたいなことがあります」
カイのせんべいを噛む音が止まった。
「サキュバスは誰かから魔力をもらわなきゃ生きられねぇとか、触っただけで相手を魅了するとか。昔の俗説を本気で信じてる奴がいるんだよ」
「俗説なのですか?」
綾目が聞くとナーヤは頷いた。
「普通に食事をすれば生きていけます。魔力も自分で回復します」
「では先ほどの発言に根拠はない」
「……はい」
「都合のいい言い訳に使っているだけです」
ナーヤは目を伏せた。
「そうだよ」
カイが低い声で言った。
「普段はあたしが追い払ってる。何度か痛い目にも遭わせた」
「暴力女とはカイさんのことですか」
「たぶんな」
カイは悪びれなかった。
「今日は売店に用があってほんの少し離れただけだった。ナーヤには待ってろって言ったんだけどよ」
「人の多い場所にいる方が怖くて……」
「だからって一人であの道に行くな」
「ごめんなさい」
「……あたしも悪かった」
ナーヤが顔を上げた。
「カイは悪くありません」
「目を離した」
「私が勝手に――」
同じ場所を回り続ける会話だった。
綾目はカップを置いた。
「いつもこのように謝り合っているのですか」
二人が同時にこちらを見た。
「……まあ」
カイが頭を掻いた。
「何度かは」
「何度もです」
ナーヤが訂正する。
「カイが謝って私が違うと言って。それでもカイが納得しなくて」
「お前も納得してねぇだろ」
「していません」
「ほらな」
二人は顔を見合わせた。
それからナーヤが先に小さく笑った。
カイも仕方なさそうに口元を緩めた。
◇
「あんた噂の編入生なんだろ」
カイが新しいせんべいを取り出しながら言った。
「エルゼリス・ファルケンブルクと互角だったって」
「勝負は引き分けでした」
「負けてねぇってことだろ」
「勝ってもいません」
「細けぇな」
カイは笑った。
「それで魔力はD-」
「はい」
「なのに特別選抜科」
「そうですね」
「気に食わねぇ」
綾目はカイを見た。
敵意は感じない。
むしろその目には抑えきれない興味があった。
「何がですか?」
「実際に見てねぇのに噂だけで納得させられてんのがだよ」
カイは自分の拳を握った。
「……なあ、今度あたしと手合わせしろよ」
唐突に見えたが、前の言葉の続きだった。
「機会があれば」
綾目が、淡々と返した。
カイが「ほう」という顔をした。即断でもなく、断りでもない。その「機会があれば」が、カイには面白く聞こえたようだった。
「……ふん。じゃあ、機会を作るとするか」
「その時はよろしくお願いします」
カイが、少し意外そうな顔をした。形通りの礼を、真顔で返された——という感じの顔だった。
「あんた、面白い奴だな」
「そうですか?」
「一応、誉め言葉だぞ」
カイがおせんべいをかじった。ナーヤが横でクッキーを手に取り、微かに笑っていた
◇
話が途切れたところでナーヤが綾目を見た。
「あの……綾目さんは」
「はい」
「私と同じ部屋にいて平気なんですね」
綾目は質問の意味を測りかねた。
「先ほどから特に危険は感じません」
「そういう意味ではなくて……」
ナーヤは袖口を指で握った。
「私が触ったカップを使ったり私が作ったものを食べたり」
視線が空になりかけたクッキーの皿へ落ちる。
「嫌がる人もいるんです。魅了されるとか何かを吸われるとか」
「根拠のない俗説だと先ほど聞きました」
「分かっていても避ける人はいます」
ナーヤは一度息を呑んだ。
「サキュバスは男の人にも女の人にも、その……変な目で見られることがあって」
声が小さくなる。
「綾目さんは私と一緒にいるのを嫌だと思いませんか」
「思いません」
答えはすぐに出た。
ナーヤが顔を上げる。
「ナーヤさんがサキュバスであることを理由に接し方を変えるつもりはありません」
「でも私は――」
「今日会ったあなたを種族だけで決めつける理由もありません」
深紅の瞳が揺れた。
ナーヤは唇を結びしばらく何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
やがて出た声はわずかに掠れていた。
「カイ以外の同年代の人にそう言ってもらえたのは……初めてです」
カイがせんべいの袋を静かに閉じた。
何も言わない。
ただナーヤの方を見ないように棚へ袋を戻していた。
ナーヤは目元を指で拭い少し照れたように笑った。
◇
「それにしても」
綾目は空になったカップを見ながら言った。
「騎士を目指す学校に先ほどのような生徒がいるとは思いませんでした」
「そりゃいるだろ」
カイがベッドの縁へ腰掛ける。
「全員が立派な騎士様になりたくて入ってくるわけじゃねぇ」
「そうなのですか」
「家に無理やり入れられた奴もいる。騎士になれば食いっぱぐれねぇってだけの奴もいる。最初から肩書き目当ての奴もな」
カイの声には先ほどまでの軽さがなかった。
「人数が多けりゃどうしようもねぇ奴も混じる。制服着ただけで中身まで立派になるわけじゃねぇよ」
「……そうですね」
制服は騎士であることを証明しない。
力を持っていることも同じだ。
綾目が求めてきたものはもっと別の場所にある。
「さっきの連中、同じ奴らとつるんでるのを見たことがある」
カイが続ける。
「何かの派閥の末端らしい。仲間が多いから少しくらい問題を起こしても何とかなると思ってやがる」
「カイさんはどこにも所属していないのですか」
「面倒だからな」
「誘われないのですか」
「誘われるぜ。実技だけは目立つからよ」
カイは肩をすくめた。
「でも短命種だの長命種だの、誰の家が偉いとか、そんな話ばかりだ。強い奴が強い。それでいいだろ」
綾目はカイを見る。
一般科であり魔力D+。
それでも実技では特別選抜科の平均を上回るという。
「カイさんらしい考え方ですね」
「今日会ったばかりであたしの何が分かるんだよ」
「少なくとも分かりやすい人です」
一拍の沈黙。
ナーヤが吹き出した。
カイは目を丸くした後、大きな声で笑った。
「ハハッ!誉め言葉として受け取っておくよ」
◇
時計が二十時を過ぎたころ綾目は立ち上がった。
「長居をしてしまいました」
「こっちが引き留めちまったからな。わりぃ」
カイも立ち上がる。
部屋の扉まで来たところでナーヤが綾目の名を呼んだ。
「あの、綾目さん」
「はい」
ナーヤは胸の前で両手を組んでいた。
「また……来てもらえますか」
控えめな声だった。
しかし今度は目を逸らさなかった。
「ええ」
綾目が答えるとナーヤの顔に小さな笑みが浮かんだ。
「次はもっとクッキーを焼いておきます」
「楽しみにしています」
背後からカイの声が飛んでくる。
「せんべいもあるぜ」
「そちらもいただきます」
綾目は軽く頭を下げ廊下へ出た。
◇
扉が閉じる。
部屋に残ったカイはしばらくその扉を見ていた。
「……偉ぶったところがねぇな」
ナーヤが空になった皿を片づけ始める。
「はい。とても優しい人です」
「優しいかどうかは知らねぇけどいい奴だ」
カイは自分の拳を開きまた握った。
「それに強い」
口元が楽しそうに持ち上がる。
「ああ、ヤリてぇなぁ……」
皿を持っていたナーヤの手が止まった。
「そ、そんな……」
「あ?」
「ヤリたいだなんて……」
耳まで赤くなる。
視線が落ち着かず薄紫の髪が揺れた。
「で、でも……綾目さんならその……私は……」
「おい」
カイがじっとナーヤを見る。
「手合わせがしたいって意味だぜ」
「……え」
「戦いたいって話だ」
ナーヤは固まった。
顔の赤みがさらに濃くなる。
「へぇ……」
カイがゆっくりと近づいた。
「お前、何を想像したんだ?」
「な、何も想像していません!」
「綾目なら大丈夫って聞こえたけどな」
「聞き間違いです!」
「耳はいい方なんだよあたし」
「違います! 今のはその、言葉の意味を確認しようと――」
「じゃあ綾目のこと何とも思ってねぇんだな?」
ナーヤの口が止まる。
「……助けてもらったので感謝はしています」
「それだけか?」
「それだけです」
「ふぅん」
カイはにやにやと笑っている。
「な、なんですか」
「別に」
「その顔をやめてください!」
ナーヤは残っていたクッキーを一枚掴みカイの口へ押し込んだ。
「むぐっ」
「片づけますから黙っていてください」
カイはクッキーを噛みながら声を上げて笑った。
◇
一般科寮を出ると夜風が火照った頬を撫でた。
綾目は一人で特別選抜科の寮へ向かう。
一般科の生徒とまともに話したのは初めてだった。
カイは粗暴に見えてナーヤを誰より気にかけている。
ナーヤは怯えがちだがクッキーを差し出す手は丁寧だった。
(いい人たちだった)
同じ学校には騎士の名を貶めるような行動をする者もいる。
だが所属する科だけで人間を決めつけることもできない。
特別選抜科だから優れているわけではない。
一般科だから劣っているわけでもない。
寮棟の入り口が見えてきたところで、腹が鳴った。
(あ……晩ご飯、食べ損ねた)
食堂はもう閉まっている時間だった。
(食堂の自販機に、パンが売っていたな)
綾目は、踵を返した。パン一個で足りるかどうかは、あまり考えないことにした。




