第十九話 魔眼訓練
7月上旬の月曜日。
編入から一週間が経っていた。
昼食の席に今日はエルゼリスも加わっていた。五人になった席は以前とは少しだけ空気が違った。ミアが場を回し、ヴァルカが何かと世話を焼き、ソフィアが静かにいて、エルゼリスが——少しぎこちない。話しかけられると丁寧に答えるが、自分から何かを言い出すタイミングをまだ測りかねている様子だった。
綾目はトレーを持ちながらふと思った。
(編入してまだ一週間だ)
一週間でこんなに人が増えた。
(一人でいた方が煩わしくなくて気が楽だと思っていた)
でも——こうして五人で昼食を食べていると悪い感じはしない。むしろ楽しい。それが少し意外だった。
(……これが楽しいということか)
静かにそう思った。
「ねえねえ、エルゼリスさん、週末は何をして過ごしてるんですか?」
ミアが明るく振った。エルゼリスが「……訓練場に行っていた」と答える。「休日も?」とヴァルカが少し驚いて返す。エルゼリスが「それの何が問題か?」とわずかに眉を上げる。
「いや、むしろ尊敬する! でも最初、エルゼリスさんって近づきにくそうな印象があって——実際は全然そんなことなかったですけど」
ミアがにこりと言った。
エルゼリスは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そうか」
それだけ返した。表情には出なかったが内心では少しだけ意外だった。
(こちらの席に来たのは——綾目さんと話したかったからだが)
でも気づけばミアやヴァルカとの会話も嫌ではなかった。むしろ——知らなかった何かが少しずつ埋まっていく感じがした。
(……これが友人というものか)
綾目はそのやり取りを黙って聞いていた。
◇
放課後、グラムシミュレーターの手応えがまだ頭に残っていた。今日も行こうかと廊下を歩きかけたところで後ろから声がかかった。
「比良坂。少し残れ」
振り返ると担任のドルフが立っていた。
「補習だ」
(補習……?)
綾目は内心で疑問を整理した。座学は遅れていない——帝国アカデミーからの引き継ぎも含めて現状のカリキュラムには追いついている。グラムのシミュレーターは昨日やったばかりだ。なぜ補習なのか。
だがドルフの表情には補習を言い渡す時の余計な感情がなかった。端的で淡々としている。それはいつも通りだが——今日のその目には何か別の意図が宿っているように綾目には見えた。
(補習ではない)
確信ではなかった。だがそう感じた。
「……分かりました」
綾目は答えた。
◇
案内されたのは魔法用の訓練室だった。
授業では使ったことのない場所だった。魔法の訓練のための施設で、魔力の測定器や各種の標的装置が壁際に並んでいた。
そして——ソフィアがすでにそこにいた。
(なぜここに)
綾目の内心に疑問が浮かんだ。ソフィアと目が合う。ソフィアは小さく頷いた。表情は変わらない。
ドルフが扉を閉めた。内側から鍵をかける音がした。
「グラムに関しては昨日のレポートを見た」
ドルフが窓の外に視線を向けながら言った。
「補習の必要はない。正直驚いている。2回目の搭乗であれだけ動けるなら、このまま授業に合流しても何の問題もない」
そこで一度切った。
「だから今月は本命の方をやる」
振り返った。赤みがかった琥珀色の目がまっすぐに綾目を見た。
「魔眼の訓練だ」
綾目はその言葉を静かに受け取った。
(やはり)
「補習」は表向きの名目だった。
(ルクレツィア長官から……ということだろう)
表には出さなかった。ただ頷いた。
◇
「ネーゲルシュタインに訓練メニューの作成を手伝わせた」
ドルフが続けた。
「魔眼の事情を知る者は限られている。彼女はその一人だ」
綾目はソフィアの方を見た。
そこで頭の中で何かが繋がった。
「……昼休みにたまにいなくなっていたのは」
少し間があった。ソフィアが静かに答えた。
「はい。このメニューを作っていました」
(ソフィアさんが……私のために)
思えば、いくつかの昼食の場面でソフィアが席を外していることがあった。どこに行っていたのかとは聞かなかったし、ソフィアも言わなかった。それがこれだったのか。
(自分のためにそこまでしていた)
感情として大きく動くわけではなかった。ただ確かに何かが動いた。言葉では出さなかったが出さなくていい。受け取った。
「訓練では私が記録と状態の観察を担当します」
ソフィアが続けた。
「何かあればすぐに止めます」
短い言葉だった。それ以上の説明をしない。ただそこにいる——というソフィアの在り方がいつものとおりだった。
◇
「訓練の目的を整理する」
ドルフが壁際のボードに向かって立った。
「三つだ。一つ目、魔眼が連続で何秒使えるか——限界の把握。二つ目、読みの眼と弱化の眼の使い分け。三つ目、魔眼のオンとオフの切り替え。この三本柱だ」
綾目は頭の中で整理した。
その前に、ドルフが一度綾目を真正面から見た。
「一つ先に言っておく。魔眼を酷使した場合の代償は知っているな」
「はい。目の奥の痛み、頭痛。さらに酷使すれば視力低下、血涙——最悪の場合、失明や記憶障害」
「分かっているなら話は早い。使い方を誤れば自分を壊す。制御を覚える前に力を出しすぎた場合の末路は一つだ」
淡々とした言い方だったが軽くない言葉だった。
「分かりました」
綾目は短く答えた。
(昨日のシミュレーターで実感した。知らないことが実戦の選択肢を狭める。魔眼も同じだ——使い方を正確に知らなければ身を滅ぼす)
やる気というより確信としてその思いがあった。
「魔眼の保有者は過去にも現在にも少数だが存在する」
ドルフが続けた。
「単一の魔眼、読みの眼だけ、あるいは弱化の眼だけなら——訓練のノウハウもある程度蓄積されている」
そこでドルフは言葉を切った。室内に短い沈黙が落ちた。
「だが」
綾目はドルフの目を見ていた。
「複合魔眼は前例がない。お前が最初だ。お前のデータが今後の指標になる」
(前例がない……私が最初)
言葉として頭で受け取った。
比べる対象がない。間違えた時に「こうすべきだった」という正解がどこにもない。手探りで進むしかない——そういう状況だと理解した。
(でも)
(だからこそ私にしかできないことがある)
最初だからこそ自分のデータが次に繋がる。その意味を静かに受け取った。
◇
「読みの眼から始めろ」
ドルフの指示で綾目は目を閉じ、静かに集中した。
周囲のマナを読むことに意識を集中させる。
視野が変わる。周囲のマナの流れが薄く浮かび上がる。空気中のマナの微細な揺れ。ソフィアの体から放出されるマナの輪郭。ドルフの体のマナの動き。見えているものの奥に別の層が重なる感覚。
「記録、始めます」
ソフィアが告げた。
綾目はただ維持し続けた。
最初は問題なかった。10秒、20秒、30秒——。
40秒を過ぎた頃から目の奥に違和感が来た。鈍い圧のようなものが眼球の奥側から押してくる感じ。
50秒を超えた瞬間、頭の芯に鈍い痛みが走った。
綾目は眉が動くのを抑えられなかった。
「そこまでです」
ソフィアがすぐに言った。
綾目は読みの眼をオフにした。痛みがゆっくりと引いていく。
「50秒、ちょうど」
ソフィアが記録に数値を書き込んだ。
「目の奥が……少し」
「痛みですか」
「はい。目の奥に鈍い痛みが」
ソフィアが手元の記録に視線を落とした。それから綾目に目を向けた。
「……少し休んでください」
その言葉は記録者としての指示だった。だが声のトーンがわずかに違った。
(ソフィアさんが気にかけている)
綾目はそれを感じた。言葉にはしなかった。
◇
インターバルを置いてから、次は弱化の眼を単体で試した。
今度はマナを弱めることを意識する。その感覚は読みの眼とは少し異なった。読みの眼は「受け取る」感覚に近い。こちらは「放出する」感覚がある。目に見えない何かを視線の先に流し込んでいるような。
20秒で明らかに違った。
読みの眼より早く消耗が来た。目の奥の痛みではなく、頭全体を内側から圧迫されるような感覚。
30秒で顔がしかめた。
「そこまでです」
ソフィアが即座に止めた。
「……弱化の方が消耗が早い」
「はい。30秒。読みの眼より約20秒短い」
ソフィアが記録に書き加えた。その手は迷いなく動いていた。だが——顔がしかめた瞬間に止めたタイミングが綾目には引っかかった。まだ続けられる余地があったはずだ。
(ソフィアさんが……止めた。もう少し続けられたのに)
記録者としてデータを取ることが目的なら、もう少し限界を見極めてから止めるはずだ。早めに止めたのは——私の事が心配で? と考えかけてやめた。今は訓練に集中する。
◇
最後に両方を同時に発動した。
複合——読みの眼と弱化の眼を同時に。
発動した瞬間から負荷が違った。単体の時とは消耗のスケールが別物だった。二つの魔眼が同時に稼働し、それぞれが魔力を消費する。綾目の体の内側から何かが急速に削れていくような感覚。
10秒。
(まだ……)
12秒。頭の芯に鈍い痛みが来た。目の奥にも圧が走る。
15秒ではっきりと顔が歪んだ。
「——そこまで。やめてください」
ソフィアの声が今日で一番強かった。
綾目は即座に複合を解除した。両方の魔眼が落ちる。頭の中が急に静かになる感覚。
数秒何も言わなかった。
「……15秒」
ソフィアが記録した。その声は普段より一段低かった。
「やはり併用すると負荷が段違いに跳ね上がるか。想定よりも大きい」
綾目は深く息を吸って吐いた。痛みは残っているが許容範囲だった。
(15秒、か)
読みの眼が50秒、弱化の眼が30秒、複合が15秒。消耗の差がはっきりした。
◇
「次はインターバルについてだ」
ドルフが続けた。
「使った時間の約2倍。それを目安にしてください」
ソフィアが言った。
「5秒使えば10秒。10秒使えば20秒。上限まで使えばその分長い回復が必要になります。今日の複合15秒なら30秒以上」
「…………」
綾目は頭の中で実戦を想定した。
(複合を15秒使えば、30秒以上は再使用できない)
その間に状況が変わる可能性はいくらでもある。
敵の切り札が出るかもしれない。
逃がしてはいけない一瞬が来るかもしれない。
(便利だから闇雲に使う、では駄目だ)
魔眼は使いどころを誤れば、必要な瞬間に手札がなくなる。
制限時間よりも重要なのは、発動するタイミングだった。
「次はオンとオフの切り替えだ」
ドルフが言った。
◇
切り替えの訓練は持続時間の測定とは別の難しさがあった。
「今オン。今オフ」——それを瞬時にやる。
綾目は最初うまくいかなかった。
オフにしたつもりが完全に切れていない。魔眼が「半分オン」のような曖昧な状態が続き少しずつ消耗が続いていく。オンにする時にはわずかなタイムラグがある。
(切れない……。オフにしたはずなのにまだ動いている)
綾目は何度か試した。都度ソフィアが記録を取る。「まだ出力が落ちていません」「今のは切れていましたが再発動に0.3秒かかっています」——淡々と、しかし確実にフィードバックが来る。
(境目が……掴めない)
歯がゆかった。刀術は体が先に覚える。繰り返した動作が骨に沁みる。だが魔眼は体の動作とは違う。どこをどう動かせばいいのか感覚として掴めない。
四度目の失敗を終えて綾目は少し考えた。
(体の動作と違う——いや、本当にそうか)
魔眼を発動する時、何かが「動いている」感覚はある。目の奥で何かが。オンにする時は何かが「出る」。オフにする時は何かが「引く」——はずだ。なのに完全に引ききれない。
(……刀術だ)
納刀と抜刀。
刀を鞘に納める時、刃を完全に収める。一点の隙もなく完全に。中途半端に収めれば刃が出た状態になる。それは危険だ。だから完全に。
(魔眼を「納める」)
意識の中でそのイメージを作った。刃を鞘に完全に収める。出ているものを全部しまう——。
「……比良坂さん」
ソフィアが言った。
「今の切り替え。出力がゼロになっています」
綾目は顔を上げた。
「精度が上がっています」
ソフィアの声はいつも通り平坦だった。でもその言葉に綾目は確かなものを感じた。
(刀術の感覚でいける)
まだ完全ではない。オンにする時のタイムラグは残っている。でも——糸口を見つけた。それは確かだった。
◇
訓練が終わりドルフが告げた。
「今日の分はここまでだ。継続する。次のスケジュールはネーゲルシュタインに伝えてある」
そして付け加えた。
「目標はこれを意識せずできるようになることだ。体が覚えるまで積み上げる」
扉へ向かいかけて一度足を止めた。
「比良坂、慣れないうちは頭への負荷が高い。今夜は早めに休め」
それだけ言って部屋を出た。
二人になった室内で綾目は片付けをするソフィアを見ていた。
「今日はありがとうございました」
綾目が言った。
ソフィアは手を止めた。
「メニューまで作ってくれていたんですね。……助かります」
少しの沈黙があった。
「……いえ」
ソフィアが答えた。
「担任に頼まれたので」
それだけだった。でも——ソフィアはわずかに目を伏せた。
(頼まれたからだけではない気がする。でも——分からない)
ソフィア自身はその感情の名前を知らなかった。ただ自分の内側に、「頼まれたから」では説明しきれない何かがあるということだけがうっすらと感じられた。
綾目はそれを見ていたが何も言わなかった。
ただもう一度頷いた。
「引き続きよろしくお願いします」
「……はい」
二人は並んで訓練室を出た。廊下に夕方の光が差し込んでいた。
◇
その夜、ドルフの報告が上へ上がった。
国防総省長官室。
報告書は二部に分かれていた。
第一部——グラム操縦データ。シミュレーター初回より。ロングソードにて射撃・近接戦闘を実施。火器管制への習熟は初見と思えない精度。近接戦は設計想定外ながら即応。ブロードソードに機体変更後、操縦感覚の馴染みが著しく早い。クイックブーストの応用習得、初日に完了。現時点の操縦適性は高。将来的にエースクラスへの成長が期待される。
第二部——魔眼訓練初回データ。読みの眼、持続50秒。弱化の眼、30秒。複合、15秒。インターバル算出済み。オンオフ切替、初回に糸口を掴む。
報告を受け取った者はそれを黙って読んだ。
銀髪が長官室の灯りに照らされている。赤い瞳が報告書の文字の上でゆっくりと動き、最後の数値の上で止まった。
(初回で糸口を)
長命種としての超長期的な時間軸の中で、この数字が何を意味するかをルクレツィアは一瞬で計算した。通常の単一魔眼の訓練でも、オンオフの切り替えに糸口を掴むまで早くて2週間はかかる。複合魔眼で前例のない条件で——初日に。
ルクレツィアは報告書を閉じた。
それ以上は何も言わなかった。
窓の外に夜の帝都が広がっていた。その遥か向こう——封じられたあの穴の方角をしばらく見ていた。
(順調だな)
静かに、確かに何かが積み上がっていく。
その視線の奥に何が宿っているのかを綾目は知らない。知る由もなかった。




