第十八話 シミュレーターと、届かない一撃
エルゼリスと話した後、綾目は寮の自室に戻っていた。
窓の外はもう暗い。夜の帝都が遠く灯っていた。机に向かってノートを開いたが字を追う気にはなれなかった。今日は色々なことがあった。訓練場でエルゼリスと話し、手合わせの話をして、夏休みの話になって。
(帰る所がない、か)
自分の言葉が改めて頭の中で響いた。正確には帰る場所が全くないわけではない。比良坂家にも鳴海家にもそれぞれ部屋はある。ただ——どちらかに先に行けばもう片方が黙っていない。毎回それで揉める。だから結局どちらにも帰れない。「帰る所がない」というのはそういう意味だった。感傷ではなく現実の話だ。
マギスレートが震えた。
時刻は20時半を少し過ぎていた。画面を開くと隼のアイコンがメッセージの着信を知らせていた——自分の使い魔だ。その下に送信者の使い魔のアイコンが表示されている。黒猫。ソフィアからのメッセージだった。
「明日の予定は空いていますか」
綾目は少し考えてから返信した。
「はい、特に何も予定はありません」
すぐに返信が来た。
「では、グラムシミュレーターの使い方を説明します。担任からもフォローを頼まれているので」
(ソフィアさんの方から……)
綾目は内心でそれを受け取った。昨日、訓練場に行った帰りに「シミュレーターの使い方を聞いておけばよかった」と思っていた。それが言わずして向こうから来た形だった。
「……ぜひ、お願いします」と打った。
既読がついた。それでやり取りは終わった。
綾目はマギスレートを置いてまた窓の外を見た。
(グラムにまた乗れる)
静かな期待が胸の奥に灯っていた。あの感覚が戻ってくる。巨大な機体と自分がひとつになるあの感覚が。
◇
その頃、ソフィアは自室のデスクに座っていた。
マギスレートを閉じて、少しの間、画面の消えた端末を見ていた。
(先ほど廊下で感じたあの胸の違和感)
訓練場の窓から綾目とエルゼリスが並んでいるのを見た時に感じたチクリとする小さな痛み。その感覚は今は消えていた。いつのまにかどこかへ消えていた。
体調の問題ではなかったのかもしれないとソフィアは思った。
だとすれば何だったのか。まだ分からなかった。
◇
翌朝。
翌朝、ソフィアに連れられてグラムシミュレーター室へ向かった。本校舎の地下一階。ソフィアが廊下を先導しながら歩きながら説明した。
「基本的に空いていれば自由に使えます。ただ、特別な申請を出して使用している者がいればそちらが優先です。今日は申請者がいないことを事前に確認してあります」
日曜の朝とあって先客はいなかった。
シミュレーター筐体が三十基ほど並んでいる。広い室内に規則正しく配置されていた。小隊単位での同時訓練や、一般科の大人数にも対応できる規模だ。外見は搭乗型の訓練機に近く、側面のハッチが開くと中にコックピットが見えた。
(……覚えがある)
綾目はその造りを見てあの日を思い出した。帝国アカデミーの正門前。倒れていた騎士の機体。緊急操縦権限で乗り込んだブロードソードのコックピット。同じ構造だった。当然だった——シミュレーターは実機と同じ作りを再現している。
「起動手順から説明します」
ソフィアが横に立って端的に話し始めた。グリップの位置。起動シークエンス。UIの見方。座標表示と目標捕捉の違い。ウェポンセレクトの操作方法。それからサブディスプレイについても触れた。
「コックピット右側面にマギスレートのスロットがあります。そこにセットすると、使い魔をサブディスプレイ上でサポートとして機能させられます。情報の補助表示やチェックリストの管理などに使えます」
不要な説明は一切ない。必要なことだけが過不足なく出てくる。ソフィアの説明はいつもそういう構造をしていた。
綾目は頷きながら聞いた。
「一つ注意があります」
ソフィアが少し間を置いた。
「シミュレーターは魔法プログラムで構築されています。そのため綾目さんの魔眼はこの中では使用できません」
「……分かりました」
「魔眼が使えるのは、ダイレクトリンクシステムで接続するグラム実機のみです。ここでの訓練は魔眼なしで行うことになります」
「ありがとうございます。念頭に置いて訓練します」
(魔眼なしか)
綾目はその事実を受け取った。
(まあそれでいい。そもそも魔眼は極力使わないようにしている)
感情の揺れはなかった。ただ条件として把握した。——その選択が後で自分に何をもたらすかはまだ知らなかった。
◇
最初に乗ったのはロングソード——火力支援型だった。
ソフィアが機体を指定した。「まずは射撃機から触れることで操縦全体の基礎をつかめます」というのがその理由だった。
コックピットに収まりグリップを握る。起動シークエンスが走りUIが展開される。ブロードソードと基本的な配置は同じだが、射撃系統の表示が多い。照準レティクルがより大きく細かく表示されていた。弾道の軌道予測まで重ねて表示されている。
仮想空間にターゲットが現れた。魔物種を模した移動標的だ。六体。距離はさまざま。静止しているものとランダムに動くものが混じっている。
(射撃してみよう)
ヘヴィバルカンのトリガーを引く。
重い。
引いた瞬間、機体全体が振動した。マニピュレーターが重機関銃の猛烈なリコイルを押さえ込み、それでもフレームを伝ってコックピットに振動が届く。弾幕が走り、連射のたびにわずかに機体軸がぶれる——それを姿勢制御が即座に戻す。生身の腕で保持すれば引きちぎられるような反動をグラムの機体が受け止めて弾をまっすぐ飛ばしている。
驚いたのは照準の精度だった。
レティクルが示す位置に弾を重ねればほぼ確実に目標に当たる。移動予測が自動補正され、撃った瞬間にはもう次の弾の軌道が表示されている。射撃の技量より先に、機体側のシステムが「当たる」状況を作り出していた。
ターゲットが次々と爆発していく。
(……すごい火器管制システムだ)
テロ事件の時、綾目は感覚だけで撃っていた。動く標的に弾を重ねるのは決して簡単ではなかった。なのにこの機体はそれを補助どころかほとんど代行してくれる。意識が「どう当てるか」より「どこを狙うか」に集中できる。戦術的な判断にだけ頭を使えばいい。
肩部の203mm砲を試した。
シミュレーターが再現した反動がコックピットを揺らした。本物の砲撃とは異なるが、制御された振動が筐体全体に伝わる。遠距離の目標が爆煙の中に消えた。
(火力が桁違いだ)
ヘヴィバルカンが弾切れになった。
「弾切れになりましたね」
ソフィアが言った。
「グリップ横のこのボタンを押せばリロードされます」
示されたボタンを押すと装填完了の音が鳴った。
(こんな機能が……)
綾目の手が一瞬止まった。
(これを知っていればあの時も)
テロ事件の時——弾薬の管理に無駄が多かったと今ならそう思う。リロード操作を知らなかったために、弾切れのライフルをそのまま投擲するという判断をするしかなかった。正規の訓練を受けた者には当たり前の操作を自分は知らなかった。それだけのことが実戦での選択肢を狭めていた。
(訓練を受けること——それ自体に価値がある)
当然のことだが、体で実感するのは初めてだった。
次にロングソードで近接戦闘を試してみた。
(パワーはある。でも……重い……!)
機体の動きが自分の想像とひとつズレた位置に着地する。重武装ゆえの高出力が動作の一つひとつに微かな遅れを生む。切り込む判断をしてから機体が実際に動き出すまでのコンマ数秒——それが近接戦では致命的に感じられた。
(これは後方支援に特化した機体だ。前に出る設計じゃない)
それでも手は動かし続けた。重さに合わせて動作の先読みを早める。コンマ数秒のズレを体で覚えながら格闘を続ける。機体の特性を把握して動きを組み立てるのは剣術の稽古と変わらない——体で学ぶしかない。
ソフィアがコックピット外のモニターからデータを眺めながら、内心で一つの確認をしていた。
(ロングソードでここまで近接戦闘をこなすとは)
ロングソードはその設計思想からしてインファイトを想定していない。機動性が低く取り回しが悪い。それをここまで動かしている。射撃も先ほどの習熟度は明らかに「初見」ではない精度を持っていた。移動予測の立て方、弾薬の使い方、機体の扱い——独学で構築したものなのに欠落が少ない。
(習熟なしでこの扱いは——想定外だ)
(テロ事件での初陣から2回目の搭乗でこれほどとは)
ソフィアは何も言わなかった。ただデータを見続けた。
◇
次にブロードソードに乗り換えると体の馴染み方が全く違った。
(こっちの方が軽くて扱いやすい)
コックピットの配置がしっくりくる。テロ事件で乗った機体と同じ作りだ。起動から操作まで手が先に覚えていた。
「クイックブーストを使ってみてください」
ソフィアが告げた。
「どのボタンですか」
「左グリップの側面、ここです。瞬間的に推進剤を使い、任意の方向に急速移動できます。被弾回避にも間合い詰めにも使えます」
試すと機体が一瞬で横に飛んだ。
(こんな機能が……)
また思った。
(テロ事件の時、これを知っていれば)
あの日横転したのはタックルに対応できなかったからだ。クイックブーストを知っていれば側面に逃げながら距離を取れた。あの機体停止は避けられたかもしれない。
(知らないということの恐ろしさ)
それを今改めて実感していた。
次にフォースフィールドを試した。
「展開してみてください」
ソフィアが告げた。
フォースフィールドのシステム画面を呼び出した。HUDに展開手順と出力パラメーターが表示されるが、起動を試みようとしても魔力不足でジェネレーターが応答しない。パイロットの魔力がシステムに流れ込む感覚がまるでない。展開不可の表示が静かに残っていた。
「これがフォースフィールドです。パイロットの魔力でジェネレーターを駆動し、機体周囲にマナの防御場を形成します。小火器の完全防御から戦車主砲数発程度まで耐える帝国軍の主力防御システムです」
「バリアですね」
「そういう理解で合っています。ただ、万能ではありません」
ソフィアが続けた。
「フォースフィールド同士は互いに干渉し合う性質を持ちます。そのため敵のFFを打ち破る最も有効な手段は、こちらの近接武器にもFFを付与して斬り込む——FF同士のぶつけ合いです。それ以外の通常の実体攻撃はFFの前で弾かれます」
「……」
「それと」
ソフィアが少し間を置いてから言った。
「綾目さんはFFを展開する魔力がりません。シミュレーターでも実機でも」
分かっていたことだった。ただ、展開不可の表示を目にしてから言われると、重みが違った。
(私は、これが使えない)
システム画面を閉じた。HUDの表示が消える。
ブロードソードで模擬戦闘をこなした。アサルトライフルで遠・中距離を制し実体剣で格闘する。刀術の感覚がここでも活きた。機体を動かすことと剣を振ることが意識の上で一つの動作として繋がっていく。
(でも、この機体は自分に合っている)
初めてそうはっきりと思った。
◇
最後にソフィアとの模擬戦を行うことになった。
「どちらの機体でも構いません」
ソフィアが告げた。
「ブロードソードで」
「了解です。私はロングソードを使います」
ソフィアが別の筐体に収まり仮想空間が立ち上がる。シミュレーター上での二機対峙——ソフィアのロングソードと綾目のブロードソード。
開始と同時に綾目は動いた。
クイックブーストで一気に間合いを詰める。遠距離ではロングソードの火力に太刀打ちできない。近づけば近づくほどこちらの土俵になる——そう判断した。
アサルトライフルを構えながら、クイックブーストで側面への機動を繰り返す。直進では補足される。ジグザグに動きながら距離を詰め射線を切る。ソフィアのロングソードが重い射撃を放ってくる。ヘヴィバルカンの弾幕。それをクイックブーストで一歩横に逃げながら引き続き前進する。
接敵した。
ブロードソードの実体剣を振り抜く。
——届かなかった。
打ち込んだ瞬間、ごんという振動がコックピットに伝わった。ダイレクトリンクは痛みや感触を伝えないが、攻防の衝撃が生む慣性は完全には消えない。抑制はされているがそれでもわずかにシートに伝わってくる。「弾かれた」という事実が数値ではなく体でも分かった。フォースフィールドを纏った機体は通常の実体攻撃を受け付けない。
(……そうか。そういうことか)
頭では分かっていた。だが実際に体験すると重さが違った。
もう一度斬りつける。また弾かれる。角度を変えて叩き込む。弾かれる。刃が通じない。物理的に刃が通じない。
アサルトライフルに切り替えて連射した。通常弾がフォースフィールドの前で減衰していく。弾が着弾しているのは分かる。しかしフォースフィールドを削れていない。牽制にすらほとんどならなかった。
(属性付与弾ならフォースフィールドに干渉できる)
だが属性弾の使用には魔力行使が必要だった。魔力クラスD−——それが意味するところを綾目は今、改めて正面から突きつけられていた。
(属性弾が使えない)
実体剣にフォースフィールドを付与する手も同じ理由でできない。フォースフィールドで斬撃を包めれば、相手のFFに干渉しながら斬り込める——しかしそのためにも魔力が要る。
では手数でフォースフィールドをオーバーヒートに追い込む——。
それも試みた。間断なく攻撃を仕掛け続けた。アサルトライフルで撃ちながら実体剣で斬りかかり、クイックブーストで離れてまた斬り込む。消耗戦を強いようとした。フォースフィールドも無限に出力できるわけではない。酷使すればいずれ出力が落ちる。
だがソフィアは付き合わなかった。
ソフィアは間合いを巧みに保っていた。こちらが接近しようとするたびにロングソードの後退機動で距離を取り、ヘヴィバルカンの弾幕で牽制して踏み込ませない。遠距離で仕留める機体に正面から近づかせてくれなかった。
(手練れにはこれも通じない)
三つの選択肢が全て塞がれた。
(属性弾が使えれば……実体剣にFFを付与できれば……この攻撃が通るのに)
時間が経つほどじりじりと消耗していく。最終的に残弾が尽き推進剤が底をついた。ソフィアに側面を取られ動けなくなった状態で模擬戦は終わった。
(どこに手を伸ばしても届かなかった)
コックピットの中で綾目はしばらく動けなかった。
◇
シミュレーターから出た後、綾目はしばらく黙っていた。
ソフィアはその横に立って同じように黙っていた。
(落ち込んでいる)
ソフィアの内心でそう認識した。
綾目が感情を外に出すことは普段ほとんどない。あの無表情が今は微かに違う。眉のほんのわずかな角度。伏せた視線の深さ。普段なら気にしない細部が今日は別のものを語っていた。
(励ました方がいいのだろうか)
そう思った。思ったが——方法が分からなかった。
(こういう時、人は何を言うのだろう)
人が誰かを慰める場面をソフィアは見てきた。だがそれを「どうやってやるのか」が分からない。感情的な言葉を口にすることの仕方が分からない。「大丈夫ですよ」と言えばいいのか。「気にしないでください」と言うのか。どちらも嘘になる気がした。大丈夫かどうかは分からない。気にするなという根拠もない。
(でも——何かを言わなければ)
そう感じていること自体がソフィアにとっては新しかった。誰かの落ち込みを前にして何かしなければと感じる——その感情の名前がまだ分からなかった。
分からないままソフィアは自分にできることをした。
「一つ整理しておきます」
端的な声だった。
「グラムは帝国のみが保有する兵器です。そのためグラム対グラムの戦闘は演習以外では発生しません。実戦の相手は魔物種か敵国の兵器です。ですので、フォースフィールドを突破できないことは実戦における直接の評価にはなりません」
綾目は聞いていた。
「それに——グラムは基本的に小隊単位で戦闘します。一対一の状況では不利ですが、小隊運用であれば補える部分です」
慰めではなかった。事実を順番に述べた。それがソフィアにできる精一杯だった。
綾目は受け取った。
「……今日は勉強になりました。助かりました」
短い言葉だった。だが本心だった。ロングソード、ブロードソード、フォースフィールド、クイックブースト、リロード——知らなかったことを一つずつ埋めることができた。それは確かだ。
「でも……」
綾目は少し言葉を選んでから続けた。
「このままでは——FF持ちの相手に決定打がない。それが気になっています」
声は静かだった。弱音でも泣き言でもなかった。ただ課題を口にした。誰かに言う必要があったわけでもないが、ソフィアに対してなら言えた。
(そうだ。グラム対グラムは演習でしか起きない。ソフィアの言う通りだ)
だが——考えが止まらなかった。
(でもグラム対抗戦のような演習はある。それに上位の魔物種は魔法障壁を展開すると聞く。敵国の兵器も年々進化している)
(魔法障壁も進化した装甲も——結局は「硬い防御をどう破るか」という同じ問題だ)
ソフィアの言葉が正しいことは分かる。それでもなお課題は消えなかった。
(グラム実機なら読みの眼は使える。秘匿するよう言われていないし、ダイレクトリンクを通じて機体と接続すれば使える。相手の動きを先読みすれば攻撃を避けることは問題ない)
(でも——それだけだ)
(弱化の眼は卒業まで人前では使えない。身の安全のため秘匿するよう言われている。弱化の眼なしでは——硬い防御を突破する手段がない)
(回避はできる。でも決定打がない)
そう整理すると新しい不安が来た。
(小隊運用なら問題ない、とソフィアは言った。でも——弱化の眼を使えない状況では小隊の中でも力を出し切れない。足を引っ張ることになるんじゃないか)
(こんなことで騎士に……なれるのか)
珍しくその問いが胸の中心に落ちてきた。払えなかった。
ソフィアが横から少しだけ綾目の方を向いた。
(何か言えればよかった)
内心でそう思った。慰める言葉を今日も見つけられなかった。ただその場にいることしかできなかった。それが役に立っているのかソフィアには分からなかった。
(でも——立ち去るのも違う気がする)
だから隣に立ち続けた。
静かな訓練室に二人が並んでいた。
夏の午前の光が窓の向こうに白かった。
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