第十七話 休日の訓練場
騎士学校での最初の土曜日は静かに始まった。
朝の起床時間は休日も変わらない。全寮制という環境は自宅での暮らしとは根本的に違う。自分のペースで動けない部分が思ったより多かった。
着替えを済ませ、綾目は部屋の中を見渡した。
(……やることがない)
正確にはないこともない。進捗確認が必要な座学の課題がある。多少の遅れはあるが致命的なレベルではない。後回しにしても今週末ではなく来週でも間に合う。
以前の生活では、こういう朝は必ず素振りから始めていた。父から受け継いだ日課だ。毎朝時間が来れば体が自動的に動いた。だがここでは個室の中で素振りをする広さがない。廊下でやれば他の生徒の迷惑になる。
(環境が変わると日課も変わるものか)
合理的な観察として綾目はそれを受け止めていた。悲嘆でもない。ただの事実の確認だ。
窓の外を見た。帝都の夏の朝が白く眩しかった。
(……そういえば訓練場があった)
設備の充実した訓練場が本校舎と繋がっている。休日でも使用できると案内に書いてあった。グラムシミュレーターも設置されているとのことだったが、操作方法はまだ分からない。
(ソフィアに聞いておけばよかった)
今更そう思った。ただ当日にいきなり「シミュレーターの操作を教えてください」と連絡するのも唐突すぎる。聞く機会はまた別にあるだろう。今日は素振りだけができれば十分だ。
綾目は部屋を出た。
◇
訓練場は休日ということで人が少なかった。
器具でトレーニングしている者が数名。隅でストレッチをしている者が一人。平日の授業時間とは違うゆったりとした空気が漂っていた。
木刀の置き場へ向かおうとして綾目の足が自然に止まった。
その手前で——一人の少女が剣を振るっていた。
灰色のセミロングの髪が動くたびに揺れる。こめかみの小ぶりな角が汗に濡れて光っていた。エルゼリス・ファルケンブルクだった。
素振りという言葉では足りなかった。
定められた型を繰り返しなぞる。一連の動作の中に無駄がない。踏み込みから剣先の振りまでどこを切り取っても美しかった。次いで仮想の敵を相手にした連続動作に移った。払い、捌き、踏み込み、斬る。見えない相手の動きを想定しながら体を動かすその稽古は、熟練した剣士でなければ様にならない。エルゼリスの剣にはそれが備わっていた。
(綺麗な剣だ)
綾目はそのまま見ていた。
意識してではなかった。気づいたら足が止まっていた。
(この人と——手合わせした)
あの日の感触が手に蘇った。重い一撃。速い反応。こちらの変則を正面から読もうとする揺らがない構え。力だけでも技だけでもない長年の鍛錬が骨に沁みた剣だった。
(父さん以来、初めて本気で打ち合えた相手だ)
それが何を意味するか。
綾目には分かっていた。本気で向き合ってくれる相手が今ここにいる。それは珍しいことだった。自分の剣を受け止めてくれる相手。
(……またこの人と打ち合いたい)
その思いが静かに湧いていた。剣士としての純粋な感情だった。
◇
一通りの型を終えてエルゼリスが振り返った。
——綾目と目が合った。
エルゼリスの内心で何かが急速に動いた。
(比良坂さんが——いた! いつから? どこから見ていた?)
外見上は何も変わらない。それがエルゼリスの習慣だった。無表情を保つことは長年の癖だ。
「……何か?」
素っ気ない声が出た。内心とは全く逆の方向に。
「あ、ごめんなさい。邪魔でしたよね」
綾目が軽く頭を下げた。「見入っていた」と気まずそうな顔をしている。
(チャンスだ)
エルゼリスの頭の中で声がした。
(邪魔ではないと言え。会話を繋げ。剣の話なら——)
「いえ、そんなことはありません」
エルゼリスは一拍置いてから続けた。
「……ところで比良坂さんの刀術ですが——あの居合の構え。あれはどういう原理なんですか」
声がわずかに変わった。問いたいことを問う時の真剣な声になった。
綾目は少し間を置いてから口を開いた。
「あれは極東のヤシマ連邦に伝わる刀術の型で……あ、こんな話してもいいですか?」
「ぜひ聞かせてください。ずっと気になっていました」
それは本当だった。手合わせの日からずっと。
◇
二人は訓練場の壁際に腰を下ろした。
「居合は納刀した状態を起点にします」
綾目が静かに話し始めた。
「鞘の中で刃を加速させて抜くと同時に斬る。だから初動が読みにくい。構えで次の動作を読まれない」
「……洋剣にはない発想ですね」
「洋剣は基本的に刀身を晒した状態で構える。抜くという動作がない分、構えそのものが意図を示す。でも納刀状態から始まると何が来るか分からない」
エルゼリスは聞きながら自分の剣と比較した。正統派の剣術は構えから動きを読む。構えを読んだ上で動きを先読みして対応する。それが訓練の中心だった。
「あの手合わせでの最初の構え——あれは隙を誘うものでしたね」
エルゼリスが言った。
「はい。見破られましたね」
「見事でした。見切れる者でなければあのままあなたの間合いに踏み込んでいます。正統派は隙を見つけたら踏み込む。それが反射になっていますから。……危ないところでした」
それは本当の話だった。あの構えが誘いだと気づかなければ、踏み込んだ瞬間に打ち取られていた。
「あの踏み込みも起点が見えませんでした。消えたように見えた」
「起点は膝に出ます。踏み込む前、膝が動く。そこを見れば分かります」
「……気づかなかった」
「本来は袴を穿いてその動きを隠します。今日の格好だと膝が見えているので」
今着ている稽古着や制服では確かに膝が出ている。
「あの手合わせの時、私は膝を見るという意識は無かったです」
「初見ならそうなると思います。膝を意識して見るという発想自体が、刀術と戦った経験がなければ出てきません」
「なるほど……」
エルゼリスは頭の中でそれを再現した。あの瞬間、自分は何を見ていたか。顔か。肩か。剣先か。膝を意識して見たことは——なかった。
「変則の剣ですね」
「……そう言われます」
綾目は少し間を置いてから付け加えた。
「父から——教わりました」
さりげなく言った。だがエルゼリスにはその「父から」という言葉の重さが何となく伝わった。多くは聞かなかった。聞くべき場面ではないと思った。
「……あなたの刀術は本物だと思っています」
エルゼリスは真正面から言った。
「最初の手合わせを申し込んだ時——私はあなたをコネで入った者だと思っていました。それを証明して帝国アカデミーに帰してやろうという気持ちで申し込んだんです」
綾目は黙って聞いていた。
「……本当に申し訳ありませんでした」
エルゼリスは頭を下げた。
深い謝罪だった。言い訳のない正面からの謝罪。
綾目は少し間を置いた。
「……顔を上げてください」
エルゼリスが顔を上げた。
「黙っていれば分からなかったのに、自分から話してくれましたね」
綾目の声は静かだった。責める色はなかった。
「そういう人の方が私は好きです」
その言葉には棘がなかった。
「あの手合わせは——私にとってすごく楽しかったです」
エルゼリスが少し目を見開いた。
「あの日以来、父との稽古を思い出していました。本気でぶつかれる相手がいなかったので」
「……」
「だから——あなたが申し込んでくれて良かったと思っています」
エルゼリスはしばらく何も言えなかった。
謝りに行って礼を言われた。そういうことが起きた。それをどう受け取ればいいか少しの間分からなかった。
「またいつかやりましょう」
綾目が付け加えた。
◇
話が落ち着いて少し間があった。
エルゼリスが何気なく言った。
「……もうすぐ夏休みですね」
「はい」
「私は実家に帰ろうか……どうしようか考えています」
言いながら少しだけ視線が落ちた。父から届いたメールの一文が頭をよぎった。「夏休みは帰ってくるのか」——未だに返信していない。
「比良坂さんはどうするんですか」
綾目は少しの間を置いてから答えた。
「私は——帰る所がないので」
淡々とした声だった。自分でそう言い慣れているように聞こえた。
「勉学や訓練をして過ごそうと思っています」
エルゼリスはその言葉を聞いた。
「帰る所がない」。
短い言葉だったがその中に何が入っているか、エルゼリスには想像できた。両親を亡くし一人で生きてきた少女が淡々と言う。声に悲壮感はなかった。だから余計に重く感じた。
(実家に——誘ってみようか)
エルゼリスの頭にその考えが浮かんだ。
(綾目さんとなら帰省も……悪くないかもしれない)
実家には父と母と末の妹フィアがいる。一人で帰るのは正直気が重かった。孤高を貫いてきた自分が帰ると家族の反応も測れない。そこに——綾目がいたら。
(誘ってみようか)
しかし。
(……そんな急には誘えない)
まだ友達になったばかりだ。一緒に昼食を食べるようになって二週間も経っていない。実家に誘うなどあまりにも突然すぎる。迷惑かもしれない。断られたら。
(……また今度でいい)
エルゼリスはその考えを引き出しの奥にしまった。
「今度」が来るかどうかは分からなかった。ただ——こうして考えていること自体が以前のエルゼリスにはなかったことだった。
◇
ソフィアが訓練場の方へ向かったのは特に深い理由がなかった。
休日は手持ち無沙汰になりやすい。感情のリハビリとして「自分が何を望んでいるかを考えること」を課されているが、今日は特に望んでいるものが思い当たらなかった。綾目が訓練場に行くかもしれないという考えが頭の端にあった——と後から気づいた。
渡り廊下の窓越しに訓練場が見えた。
ソフィアはそこに二人を見つけた。
綾目とエルゼリス・ファルケンブルクが壁際に並んで座っていた。
話しているのが見えた。二人の表情はこちらからは細かくは読めない。ただ——雰囲気が伝わってきた。和やかな雰囲気だった。会話が弾んでいるようだった。
(……邪魔をするのも悪いだろう)
ソフィアはその場で立ち止まった。声をかけるかどうか一瞬考えた。
会話中の二人に割り込むのは適切ではない。そう判断した。
自室に戻ることにして踵を返した。
廊下を歩きながらソフィアは気づいた。
胸の奥に何かあった。
(……?)
痛いというほどではない。チクリとする小さな違和感だった。
(この感覚は何だろう)
立ち止まって確認した。熱はない。頭痛もない。息苦しくもない。身体的に何かが悪いわけではないようだった。
なのに——胸の奥が妙だった。
(体調不良だろうか)
ソフィアはその感覚を「体調不良」に分類しようとした。しかしそこで引っかかった。これまで経験した体調不良の感覚とどこか違う。身体が重いわけでもない。倦怠感があるわけでもない。
ただ——チクリとする小さな痛み。
(後で医務室に行った方がいいだろうか)
そう思ったがすぐに打ち消した。これで医務室に行くのは大げさかもしれない。
ソフィアは廊下を歩き続けた。
その違和感に名前をつけることができないまま。
窓の外に夏の光が降り注いでいた。訓練場の方角が眩しかった。




