第十六話 隼と竜
編入から最初の金曜日の朝、綾目はデスクに腰かけてマギスレートの画面を見ていた。
ホーム画面の中央に菱形のアイコンが浮いている。無機質で角張っていて、愛着のかけらもない形だ。
(そういえばまだ設定していなかった)
ソフィアの黒猫が頭に浮かんだ。「気に入っています」というあの平坦な声とともに。使い魔に愛着を持っている様子があの一言から伝わってきた。
(このままでも別に困らない)
それは本当だ。菱形でもアシスタントとしての機能に何の差もない。
でも。
(せっかくだから設定してみようか)
何か別のことに挑戦してみようという気持ちがどこかにある。以前の自分にはそういう気持ちがあまりなかった。この一週間で何かが少しだけ変わっていた。
(何がいいか誰かに相談してみよう。ソフィアさんが詳しそうだ)
画面を閉じて綾目は席を立った。
◇
一方、同じ朝。エルゼリス・ファルケンブルクは自室でマギスレートを開いていた。
画面には「友達の作り方——人間関係の基本から応用まで」。昨夜も読んだ。一昨日も読んだ。付箋が増えていた。
(第三章……共通の話題を探す。相手の話をよく聞く。自分から積極的に声をかける)
頭では入っている。理屈も分かった。
(……分かっているんだ。頭では)
問題は頭と体が全く別々に動くことだった。廊下で綾目とすれ違うたびに足が止まる。声をかけようとすると喉が詰まる。手が冷える。
(それに——)
手合わせのことがちらついた。
あの日、エルゼリスが申し込んだ理由。「コネで入った者を叩き潰して帝国アカデミーに送り返してやる」——その本音は今でも胸の奥に残っている澱のようなものだ。あんな敵意で申し込んでおいて、今更友達になりたいなどと。もし綾目が知ったら。そう考えると体がさらに動かなくなる。
(……何をやっているんだ、私は)
画面の中で灰色の小竜がちょこんと首を傾けた。
「今日こそは声をかけますか」と表示される。
エルゼリスは使い魔から目を逸らしてマギスレートを閉じた。
◇
昼休みに食堂へ向かうと、いつものメンバーが揃っていなかった。
ソフィアは今日も用事で来られないと連絡があった。ミアは一般科の知り合いたちとランチの約束があるらしく、「ごめんね!」と朝のうちに声をかけてきた。ヴァルカは別のグループに引き留められていた——慕われているのか、なかなか解放されない様子だった。
綾目は一人でトレーを取り、食堂の中を見渡した。
空いている席はある。一人でも何も困らない。それ自体は変わらない。
ふと視線が止まった。
食堂の端の方に一人で食事をしている少女がいた。灰色のセミロング。こめかみの小ぶりな角。正しい姿勢で静かに箸を動かしている。
エルゼリス・ファルケンブルクだった。
その周囲に他の生徒は座っていなかった。席は空いているのに。エルゼリス本人が意識的に放っているのか、それとも無意識なのか分からないが、「近づくな」と書かれた透明な空気がその周辺に漂っていた。
(あの人と仲良くなれればいいな)
以前そう思ったことを思い出した。
(そういえば——使い魔の話も聞きたかった。学業はトップクラスだと聞いている。設定の仕方も知っているだろう)
ソフィアに相談しようと思っていた。でも目の前にいる。
合理的な判断として綾目はトレーを持って歩いた。
◇
「相席、いいですか」
エルゼリスが顔を上げた。
そこに綾目が立っていた。
エルゼリスの内心で何かが一瞬止まった。止まって、それから凄まじい速度で動き出した。
(え。え? なんで——綾目さんが。私の席に? なんで)
外見上は何も変わらない。エルゼリスはいつも通りの表情を保った。それが習慣というものだった。
「……どうぞ」
素っ気ない声になった。内心と正反対の声が出た。
綾目が向かいの席に腰を下ろす。トレーを置く。いただきますを短く言って食事を始めた。
(——チャンスだ)
エルゼリスは頭の中でそう叫んだ。
(本に書いてあった。自分から声をかけること。共通の話題を探すこと。今がそのタイミングだ。共通の話題——何か、共通の——)
何も出てこなかった。
(剣の話……いや、それしかないのか、私には)
エルゼリスはフォークを持ったまま固まっていた。第三章を全部読んだはずだった。付箋も貼った。「★重要」と書き込んだ。
全部どこかに消えていた。
沈黙が続いた。二人とも黙って食事をしていた。エルゼリスは心の中で本のページをめくろうとしながら、真っ白な画面しか見つけられずにいた。
◇
そこへ綾目の方が口を開いた。
「ファルケンブルクさん。少し聞いてもいいですか」
「……なんですか」
「マギスレートの使い魔をまだ設定していなくて」
綾目がマギスレートを取り出した。ホーム画面に菱形の無機質なアイコンが浮いている。
「詳しそうだと思って。設定した方がいいでしょうか」
エルゼリスの頭の中で何かが「カチッ」と噛み合う音がした気がした。
(……使い魔。これを話題にすれば——!)
「——はい」
声が少し変わった。素っ気なさがほんのわずかに和らいだ。
「設定した方が使い勝手は上がります。AIアシスタントが性格に合わせたレスポンスを返してくれるので、デフォルトより応答の精度が上がります」
「精度が上がるとは」
「使い魔を通じてマギスレートに情報を入力したり、AIが使用者のパターンを学習したりすることで、より的確な補助が受けられます。戦術分析の補助からスケジュール管理、情報整理まで」
話し始めると少し止まらなくなった。このチャンスを逃したくなかった。とにかく会話を続けなければ——その一心で言葉が出てきた。そして——綾目がちゃんと聞いていた。ただ相槌を打つのではなく内容を受け取って考えている顔で。
それがエルゼリスには少し嬉しかった。
「では教室に戻ったら設定方法を教えます」
言ってから自分が「教えます」と言ったことに気づいた。
(……今、私から申し出た)
心臓が少し速くなった。
◇
教室に戻るとまだほかの生徒は少なかった。二人はそれぞれの席につく。エルゼリスがマギスレートを開きながら説明を続けようとして——ふと自分のものを見せた方が早いと思った。
「私のを見ますか」
「はい」
エルゼリスは自分のマギスレートの画面を綾目に向けた。
ホーム画面のアイコンがちょこんと首を傾けた。灰色の鱗を持つ手のひらサイズの小竜だ。翼が小さくはためいている。
「……綺麗な竜ですね」
綾目が言った。
エルゼリスは「ありがとうございます」と返したが、頬が少し熱くなるのを感じた。
(綺麗と言われた)
自分で選んだ使い魔をそう言われた。
「……あなたの髪と同じ色ですね」
次の綾目の一言にエルゼリスの指が止まった。
「……気づきましたか」
「はい。灰色が——よく似ています」
少し間があった。エルゼリスはどう返せばいいか分からなかった。自分の容姿を反映した使い魔を選んだことを見抜かれた。そんな繊細なことを綾目が気づくとは思っていなかった。
「竜人族だからでしょうか」
綾目が続けた。
「……ファルケンブルクさんらしいですね」
エルゼリスはその言葉を受け取った。
(私らしい……と)
批判でもない。おかしいとも言わない。ただ「らしい」と言う。竜人族としての自分をそのままで受け取ってくれた。
それが——エルゼリスにはどう受け取っていいか分からなかった。恥ずかしいような、嬉しいような、胸の奥がそわそわする感覚だった。
◇
「では設定してみましょうか」
エルゼリスが手順を説明した。綾目がマギスレートを操作する。
「……何にすればいいかイメージが湧かないんです」
「特にこれというものがないんですか?」
「はい。動物は好きですが、特定の種類に愛着があるわけでもなく」
「では自動生成にしますか」
「自動生成?」
「自動生成にする場合はここで魔力を通します。使う人の気質に合った使い魔を生成してくれます」
「気質に合った」
「はい。ただ——」
エルゼリスは一拍置いた。
「人によっては異形の化け物のような姿になることもあります」
綾目が指を止めた。
「……化け物」
「あくまで稀な話ですが。気質が複雑だったり、特殊な能力を持っていたりする場合に」
(変なものが出たらどうしよう)
綾目にしては珍しく少し間があった。
エルゼリスは綾目の顔を見た。いつも無表情に近い顔がごくわずかに——何かと言うよりは「どうかな」という顔をしていた。
「でも——あなたなら大丈夫でしょう」
エルゼリスはそう言った。
根拠はなかった。ただ直感として。
綾目が小さく頷いた。それからマギスレートに手を当てて魔力を通した。
画面に光が収束した。形を成していく。
出てきたのは——翼を持つ小さな鳥だった。
精悍な体つき。鋭い目。引き締まった翼が一度だけ開いてから閉じた。色は濃いブラウン。小さいが威圧感のある眼光だ。
「……隼ですか」
エルゼリスがその使い魔を見た。
しばらく黙って見ていた。
手合わせのことを思い出した。縮地の踏み込み。抜刀の一閃。あの速さと鋭さ。攻防の中で受けた判断の速さ。
「速さと鋭さ」
エルゼリスは静かに言った。
「……貴女らしいですね」
戦闘の話を直接するつもりはなかった。でも手合わせで見た綾目を思い出せば、「隼」という言葉に自然に辿り着いた。
綾目は画面の中の隼を見た。
(隼……)
(エルゼリスさんが私らしいと言った)
隼——その姿がしっくりきた。
◇
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた頃、他の生徒たちが教室に戻り始めた。二人の間の静かな時間が終わりに近づいていた。
エルゼリスはマギスレートを閉じた。
(言わなければ)
頭の中でそう思った。
(本に書いてあった。自分から誘うこと。機会を作ること。ここで言わなければまたしばらく踏み出せない)
でも——手が動かなかった。
「叩き潰してやろう」というあの申し込みのことがまた頭をよぎった。もし知られたら。嫌われたら。そう思うと胸の奥でためらいが膨らんだ。
(でも——)
綾目は今日、自分から声をかけてきた。席に来て話を聞いた。「らしいですね」と言った。嫌いな相手にそんなことをするだろうか。
(今じゃないとまた逃げる)
エルゼリスは口を開いた。
「比良坂さん」
「はい」
「……また、その」
一瞬詰まった。
「昼食をご一緒してもいいですか」
言い終えた瞬間、心臓が嫌な速さで打ち始めた。
綾目がこちらを見た。いつも通りの静かな目だった。その目が少しだけ和らいだ気がした——気がしただけかもしれないが。
「はい。ぜひ」
それだけだった。
あっさりとした返事だった。でもエルゼリスにはそれが十分だった。
(言えた)
体の中で何かが一つほどけた感じがした。
(本に書いてあったことを実践できた)
(友達に——なれるだろうか)
廊下から生徒たちの声が聞こえてくる。午後の授業が始まる前の騒がしい時間だ。
(なりたい)
エルゼリスはそっとマギスレートを机の引き出しにしまった。
◇
綾目はノートを開きながら少し前のことを思い返していた。
(エルゼリスさんは……不器用な人だ)
それははっきりと分かった。話しかけようとして詰まる。聞かれると饒舌になる。使い魔の話をしている時の顔はいつもより少し生き生きしていた。
(正直、最初に立ち合いを申し込まれた時は少し困った)
編入直後に宣戦布告を受けるとは思っていなかった。
(でも——いい人だと思う)
その感想が自分の中から出てきたことに綾目は少し驚いた。誰かに「好ましい」と感じることは今まであまりなかった。
(また一人関わる人が増えた)
窓の外に夏の空が広がっていた。七月の光が白く眩しかった。




