第十五話 同じ目線の友
7月2日の訓練場。
ヴァルカ・カルデアは観客席の中段に座ったまま、動けずにいた。
赤い緩いウェーブのかかったロングヘアが肩から背に流れている。魔族特有の角が頭部に生え、瞳にも種族の色が宿っていた。明るく快活な印象を与える整った顔立ち。元八魔将「業炎の魔女」と称されたエンブラ・カルデアを祖母に持つ、魔族の血筋だ。孤児院「カルデア」で多くの子供たちの「姉」として育ち、今は騎士学校の特別選抜科に在籍している。
目の前で起きている出来事を、頭が上手く処理しきれない。
中央には二人。黒髪の少女と灰色の髪の少女。木刀と木剣が交差するたびに、乾いた音が訓練場へ響き渡る。どちらも一歩も引かない。
(……すごい)
その言葉しか出てこなかった。
魔力D−の編入生だと聞いていた。コネで入ってきたのだろうと、正直甘く見ていた。だが——今目の前にある光景は、そんな先入観を音を立てて打ち砕いていく。一年生で最強クラスの剣技を持つエルゼリスと、互角に渡り合っているのだ。
(あの人……)
束ねられた黒髪が揺れる。
(どんな人なんだろう)
単純な疑問が、頭の中で静かに広がっていく。
そして——引き分けが決まった瞬間、ヴァルカの胸の奥に、別の思いがじわりと浮かび上がった。
(あの人と、友達になれないかな)
◇
それから数日が経った。
「友達になりたい」と思うことと、実際に踏み出すことは、まるで別の問題だった。
ヴァルカはその事実を痛感していた。
昼食の席で声をかけようと立ち上がっては、やめた。廊下ですれ違って何か言おうとしても、言葉が見つからない。授業が終わった後に近づこうとしたら、いつの間にかソフィアが隣にいてタイミングを逃してしまった。
(いつもなら、こういうのは得意なのに)
そうなのだ。普段のヴァルカに、人と話すことへの苦手意識などない。明るく声をかけ、相手の状況を察して手を差し伸べる。それが彼女の自然な振る舞いだった。
なのに——「友達になりたい」と踏み出そうとすると、足がすくむ。何かが違う。その「何か」が分からない。
(いつも通りにやればいいじゃないか)
そう自分に言い聞かせる間にも、廊下ですれ違ったクラスメイトが「ヴァルカ、またお昼一緒にいい?」と声をかけてくる。「もちろん!」と笑って返した。
慕われていることは分かる。頼られていることも。
だが、その頼られ方が「孤児院の姉」としてのそれとほとんど同じであることに、ヴァルカ自身は気づいていなかった。
(なんでだろうなぁ……)
漠然とした、うまく言葉にできない引っかかりが胸の奥にある。
みんな慕ってくれるし、頼ってくれる。
(でも——本当の友達って感じがしない)
理由は分からない。そもそも何が足りないのかすら、うまく掴めなかった。ただ漠然と「何か」が欠けていた。
◇
翌日の昼休み。食堂に入ったヴァルカは、ふとある席に目を止めた。
綾目とソフィア、そしてミア・レインフォードの三人が並んで昼食をとっていた。
ミアが話しかけ、綾目が短く相槌を打つ。ソフィアはほとんど言葉を発しないが、時おり一言だけ挟む。特別賑やかなわけではなく、どちらかといえば静かな食卓だった。
それでも——ヴァルカには、その光景が酷く眩しく見えた。
(……いいな)
対等に話せる関係。同じ目線で向き合える人たち。
なぜそんな言葉が浮かんだのか、自分でも分からなかった。ただ、純粋に「いいな」と思った。
トレーを持ったまま立ち尽くしていたヴァルカは、ふと視線を感じて横を向いた。
少し離れた位置に、エルゼリス・ファルケンブルクが立っていた。
彼女も同じように、三人の席を見つめている。その表情はいつもの孤高なものとは少し違い——言葉にするなら「羨望」だろうか。
二人の目が合った。
エルゼリスはすぐに視線を逸らし、自分のトレーを持って別の席へ向かった。何も言わなかったし、何も起きなかった。
ただ、それだけでヴァルカには伝わってくるものがあった。
(あの人も、同じかもしれない)
それ以上は深く考えなかった。だが、その共感めいた感触だけが、胸の奥に静かに残った。
◇
翌日。
今日こそは、と決意を固めてきた。
ヴァルカはトレーを持ち、三人が座る席へとまっすぐに向かった。歩き出してしまえば、案外難しいことではなかった。
「私も、いいかな?」
声に出してしまえば、緊張の半分は吹き飛んだ。
「どうぞどうぞ!」ミアが明るく応じる。「同じクラスのヴァルカさんですよね。ぜひ!」
綾目は「……どうぞ」と短く返し、ソフィアも小さく頷いた。それだけだったが、拒まれている気配はなかった。
ヴァルカは安堵とともに椅子を引き、腰を下ろす。
(よかった)
深呼吸をして、自然な笑顔を作る。いや、作らなくても自然に笑えていた。この三人に受け入れられたことが、素直に嬉しかった。
しばらくはミアとの会話が弾んだ。魔法の話、授業のこと、教師の噂話。ミアは話題が豊富で聞き上手でもある。
ヴァルカは心地よいテンポを感じながら、ふと綾目に目を向けた。
黙々と食べている。会話の邪魔をするわけでもなく、ただ静かに耳を傾けているようだった。
(何か——私にできることはないかな)
ヴァルカはごく自然に、いつもの癖で口を開いていた。
「綾目さん、魔力D−なんでしょ? それって色々大変じゃない? 何か困ってることない? 私でよければ力になるけど」
言ってから、ヴァルカは少し身を乗り出した。本当に、純粋に、彼女の助けになりたかった。
◇
綾目は食事の手を止め、顔を上げた。
「いえ、特に困っていません。大丈夫です」
淡々とした声だった。
ヴァルカは——そのまま固まった。
(あれ……?)
提案を断られたことよりも、いつもと違う「反応」に戸惑った。
いつもの自分なら、こういう時は相手が少し安心して「ありがとう」と微笑んでくれる。頼ることに慣れていくはずなのだ。
しかし、綾目の態度は全く違った。「大丈夫です」——それだけで完結している。困っていないから必要ない、という明確な自己完結の意思がそこにあった。
(なんで……)
スプーンを持ったまま、ヴァルカは内心で狼狽していた。拒絶されたわけではない。ただ、自分のいつもの「やり方」が通用しなかった。
(私のやり方は、間違ってないはずなのに)
そう思いつつも、その「間違っていない」という根拠がどこにあるのか、ヴァルカは今初めて答えに窮していた。
会話は続いていた。ミアが何かを話し、ソフィアが短く応じる。ヴァルカもどうにか笑って話を合わせた。
そんな中、綾目だけが少しの間、沈黙していた。
——やがて、綾目が静かに口を開いた。
◇
「ヴァルカさん」
呼ばれ、ヴァルカは顔を上げる。
「……少し、聞いてもいいですか」
「なに?」
綾目は少し間を置いた。いつも通りの静かな表情だったが、何かを深く見透かそうとしているのが伝わってくる。
「ヴァルカさんは、周りに人が多そうですね」
「うん、まあ……そうかな」
「慕われているんでしょう?」
「……うん」
「その人たちに、自分の困ったことを相談したことはありますか」
ヴァルカは、言葉に詰まった。
「……相談?」
「はい。自分が弱ったときとか、不安なときに、誰かに頼ったことがあるか、ということです」
言われてみて、記憶を辿る。
——思い当たらなかった。
困り事を誰かに打ち明けたことがあっただろうか。「大丈夫?」と聞かれることはあっても、いつも「大丈夫だよ」と笑って返してきた。弱音を吐いたことも、不安だと言ったこともない。
「……ない、かな」
自分の口から出た言葉に、自ら驚いた。そんな当たり前のことに、今まで気づきもしなかった。
「そうですか」
綾目はもう一度間を置いてから、静かに核心を突いた。
「同じ目線に立てる友達が、欲しいんですね?」
ヴァルカの思考が、ぴたりと止まった。
虚を突かれた感覚。反論しようとしたはずの言葉が、喉の奥に張り付いて出てこない。
「……え?」
「違いますか?」
「…………」
違う、と言おうとした。だが、どうしても言えなかった。
(同じ目線に立てる友達……)
(私が——欲しかったのは……)
頭の中で、絡まっていた糸が音もなく解けていく。
孤児院の子供たちの顔が浮かんだ。妹のように可愛がってきた、自分を「お姉ちゃん」と慕う子供たち。
騎士学校でも同じだった。いつの間にか「頼れるヴァルカ」という立ち位置に収まり、誰かの面倒ばかりを見てきた。
でも——誰かに、自分と同じ目線で向き合ってもらったことが、一度でもあっただろうか。
(……ない)
その事実に、初めて直面した。
「……そっか」
ヴァルカは、ぽつりとおこぼした。
「そうかも。そうだったのかも」
声の響きが違った。皆を元気付けるいつもの明朗な声ではなく、もっと弱々しい、等身大の素の声。
「私、ずっと——みんなの『お姉ちゃん』だったから」
同じ目線の友達なんて、いなかったのかもしれない。
言葉にして初めて、その意味がじんわりと体に沁み込んできた。
泣き出したいわけではない。ただ、肩の奥でずっと張り詰めていた何かが、ふっと解けていくような安堵感があった。
◇
短い沈黙が降りた。
それを破ったのは、綾目だった。
「私も、友達は必要ないと思っていました」
ヴァルカは弾かれたように顔を上げる。
「一人のほうが煩わしさも無くて楽だと。ずっとそう思っていたので」
「……うん」
「でも」
綾目は珍しく言いよどみ、それから淡々と続けた。
「まだ数日ですけど。こうしてみんなでお昼を食べて、話して……こういうのは、楽しいですね」
飾らない、素直な言葉だった。
合理主義を体現するような綾目が、「楽しい」と口にした。その意味の大きさが、ヴァルカの胸を打つ。
(綾目さんも——今、変わろうとしているのか)
そう思うと、ひどく温かい気持ちになった。
「……私も、そうなれるかな」
「なれると思います」
綾目は断言した。何か明確な根拠があるわけではない。ただ、そう思ったから口にしたのだと分かる真っ直ぐな瞳だった。
その飾らない肯定が、ヴァルカにはたまらなく嬉しかった。
◇
「じゃあ、これからは私たちと一緒に食べましょうよ!」
ミアが明るい声を上げ、椅子を少し寄せてヴァルカへにこりと微笑みかけた。「ね?」
ソフィアは何も言わなかったが、拒む気配はなく、ただ静かに受け入れる佇まいを見せている。
綾目も「どうぞ」と短く頷いた。
ヴァルカは三人の顔を順番に見渡す。
(……そっか)
胸の奥から、温かいものが込み上げてきた。いつもの完璧な「姉」としての笑顔ではない——もっと不恰好で、それでも心からの本物の笑顔が、自然とこぼれ落ちる。
「うん。……ありがとう」
生まれて初めて、こんなにも素直に感謝の言葉を口にできた気がした。
◇
食堂の喧騒は続いている。
四人での昼食は、先ほどよりも少しだけ賑やかになった。ミアがヴァルカを会話に引き込み、あれこれと話題を振る。ソフィアが時折ボソッと一言を挟む。綾目は聞き役に回ることが多かったが、話を振られれば短く答えていた。
綾目は空になった食器をトレーに戻しながら、ふと思う。
(一人のままでも、特に寂しいとか困るとか、そういう感情はなかった)
それは今も変わらない。一人のほうが合理的だという判断も、決して間違いではないはずだ。
(でも——こうして周りに人がいるのも、悪くない)
本当に、ただそれだけのこと。純粋にそう思えた。
◇
放課後。
エルゼリスは自室の椅子に深く腰掛け、マギスレートを膝の上に置いていた。
窓の外はすでに夕暮れに染まっている。だが、食堂で目にしたあの光景が、どうしても頭から離れなかった。
綾目、ソフィア、ミア、そしてヴァルカ。四人が並んで笑い合う、あの昼食の風景。
(私も……入りたかった)
でも、どうすればいいのか分からない。あの輪の中に自分が加わる場面を想像すると、途端に手足の動かし方すら分からなくなってしまう。それに——自分はあの手合わせを「叩き潰してやろう」という敵意で申し込んだのだ。その本音を相手が知ったら嫌われるのではないか。そう考えると、ますます動けなくなる。
(どうすれば……)
深いため息をつき、マギスレートを開く。
ホーム画面には、使い魔のアイコンが表示されていた。エルゼリスの髪色と同じ、薄みがかった灰色の鱗を持つ、手のひらサイズの小さな竜。マギスレートのAIアシスタントだ。
エルゼリスはチャット欄を開き、おもむろに話しかけた。
「友達を作るには、どうしたらいいと思う?」
少しの間を置いて、機械的な返答が届く。
『まず相手に興味を示すことが重要です。共通の話題を探したり、相手の話をよく聞いたりすることが、関係構築の基本とされています』
なるほど、と真面目にメモをとる。
『また、自分から声をかけることも大切です。受け身でいるより、積極的に接触する方が友人関係は早く深まる傾向があります』
『さらに、一緒に食事をするなど、日常的な時間を共有することも効果的です』
(一緒に食事……。あの席に、自分から声をかけるということか)
エルゼリスは画面を睨みつけた。理屈は分かる。頭では理解できるのだが、いざ実践となると体が強張る。友人関係というのは、なぜこれほどまでに難解なのだろうか。
「もっと、体系的に学べる方法はないの?」
『書籍やガイドラインも参考になります。たとえば、こちらはいかがでしょうか』
画面に小さなリンクが表示された。
『友達の作り方——人間関係の基本から応用まで』
エルゼリスは、そのタイトルをしばらく無言で見つめた。
(……こんな本が、存在するのか)
購入すべきか、数秒間真剣に悩む。
(誰かに見られたら、恥ずかしいな)
だが、ここは個室だ。誰も見ていない。
決意を固め、エルゼリスは購入ボタンをタップした。
ダウンロードが完了すると、使い魔の竜アイコンがちょこんと尻尾を振った。ただのプログラムの動作にすぎないのに、なぜか励まされているような気がした。
(……せめて、学ぶことから始めてみよう)
エルゼリスは密かに息を吐き、電子書籍の表紙を開いた。




