第2話「触れていい、と言われる前に」
教会区の使者は、三人だった。
先頭に立っていたのは、白い法衣を着た若い男だ。
年は二十代半ばだろうか。胸には、務めを表す太陽の紋章が縫い取られている。後ろには、槍を持った見習い兵がふたり。
「この店の主人は、あなたですか?」
「はい。蓮といいます」
「務めの教会、第三区の事務官、セドリックです」
セドリックは店内を一瞥した。暖炉、擦り切れたソファ、壁に掛かった木札。その視線が、新しい看板で止まる。
「『疲れた人が、疲れたと言える場所』。……ずいぶんと、大胆な文言ですね」
「祖母の願いを、そのまま書いただけです」
「この国の標語はご存じでしょう。務めは光、休みは影。人々に休めと囁く店は、影を広げる。今朝、警護隊の副隊長がここから出てくるところを見たという報告がありました」
蓮は、返事をしなかった。カティアのことを、ここで話すつもりはなかった。
「三日の猶予を差し上げます。看板を下ろし、店を畳みなさい。応じなければ、教会の名において、営業停止を申し渡します」
事務的な声だった。けれど蓮の目には、その声の奥にあるものが見えていた。
セドリックの体を覆う靄は、濁った白銀だった。目の下には隠しきれない隈があり、法衣の袖口から覗く指先は、かすかに震えている。
「あの、セドリックさん」
「何です」
「お茶を一杯、いかがですか。立ったままでも構いません」
セドリックは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐに表情を消した。
「結構です。三日後に、また来ます」
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
蓮は、しばらくその場に立っていた。
肩の上でモフが「ぷう」と鳴く。
「……あの人、いつから寝てないんだろう」
教会に怒る気持ちは、不思議と湧いてこなかった。
あるのは、ただ、放っておけないという感覚だけだった。それが自分の悪い癖だと、蓮は知っていたけれど。
それからの二日間は、静かだった。
静かすぎた、と言ったほうがいい。
蓮は朝から店を開けて、暖炉に火を入れ、お茶を湯気立てて待った。
けれど、扉を叩く人はいない。通りを行く人々は看板を横目で見て、そのまま足早に通り過ぎていく。
教会の使者が来たという噂は、たぶん、もう広がっているのだろう。
帳簿を開くと、赤い数字は、昨日よりも増えているように見えた。
「ぷう」
「わかってる。わかってるよ」
蓮は帳簿を閉じて、ため息をついた。前の世界では、予約が二か月先まで埋まっていた。いまは、一人の客も来ない。極端すぎて、笑えてくる。
(でも、これでいいのかもしれない)
そんな考えが浮かんで、蓮は自分で驚いた。
誰も来ない。誰にも求められない。ただ座って、火を見ている。
それは、前の世界の自分には、一度も許されなかった時間だった。
暖炉の前のソファに沈み込み、膝の上のモフの背を撫でていると、まぶたが重くなってきた。
夕方、蓮がうたた寝から目を覚ましたとき、扉の前に人影があった。
荷車の取っ手を握った、四十前後の女性だった。
「……あんた、レンさんだったね」
あの日、蓮が腕を支えた女性だ。名前はロッテというらしい。荷車の上には、野菜がいっぱいに積まれている。
「先日は、ありがとうございました。あれから体の調子はどうですか?」
「それがね、不思議なんだよ。あの日から、よく眠れてる」
ロッテは、少し照れたように目をそらした。
「これ、お礼。売れ残りだけど」
差し出されたのは、籠いっぱいの根菜だった。蓮は慌てて首を振りかけたが、ロッテの手が、小さく震えていることに気づいた。
「……お茶、飲んでいかれますか?話を聞くだけの時間も、あるので」
「あたしなんかが、いいのかい?」
「ここは、そういう場所ですから」
ロッテは、しばらく迷っていた。
それから、ゆっくりと荷車を店先に止めた。
話聞きの三十分は、あっという間に過ぎた。
夫を亡くしたこと、娘を一人で育てていること、朝四時から夜遅くまで荷を運んでいること。蓮はほとんど口を挟まず、ただ頷いて聞いた。
最後に、ロッテは目尻を拭って、笑った。
「こんなに喋ったの、何年ぶりだろうね。誰も、聞いてくれなかったから」
帰り際、彼女は壁の木札を一枚取り、「次は五日後」と書いた。
その夜、蓮は根菜のスープを作った。久しぶりに、食べ物の味がわかった。
三日目の朝、カティアが来た。
約束どおりの日だった。
けれど、最初に扉を叩く音を聞いた瞬間、蓮は驚いた。いつもの硬い靴音ではない。ためらうような、小さな音だった。
「……来た」
「お待ちしていました」
扉の向こうに立っていたのは、警護隊の制服を着たカティアだった。
背筋はやはりまっすぐだが、顔つきが違う。目の下の影は、初めて会った夜よりもさらに薄い。
「この三日、よく眠れた」
「それはよかったです」
「ただ、部下に『最近、顔色がいいですね』と言われた。……困った」
「困りましたか」
「どう答えればいいか、わからなかった」
蓮は、思わず笑った。カティアは眉を寄せたが、その口元が、ほんのかすかにゆるんだ。
暖炉の前でお茶を飲みながら、彼女は声を落とした。
「レン。警告しておく。教会が、この店を潰すつもりだ」
「ええ、昨日までに使者が」
「知っているのか。ならば話が早い。教会は、気に入らない店を『影落ちの巣』と呼んで閉鎖させる。警護隊にも、監視の命令が出た」
「カティアさんにも?」
「私が、担当に回された」
蓮は黙って、彼女の顔を見た。
カティアの表情は、いつもどおり動かない。
けれど、握った拳が、膝の上でわずかに震えていた。
「……私は、迷っている。命令に従うのが務めだ。
だが、この店を潰したくないと思っている自分がいる。その二つが、体の中でぶつかって、気持ちが悪い」
「それは、気持ち悪いですね」
「笑うな」
「笑ってないです」
「顔が笑っている」
「ちょっとだけです」
カティアは小さく息を吐いた。
それから、少し視線を落として、言いにくそうに口を開いた。
「今日は、前回より、もう少し、ちゃんとした施術を受けたい。……身体の、全部を」
蓮は、居住まいを正した。
「ありがとうございます。無理は、していませんか?」
「していない。自分で決めたことだ」
「じゃあ、先に確認させてください」
蓮は、ゆっくりと説明した。触れる範囲は、背中、肩、腕、脚、足先。首筋と頭も、希望があれば。触れない場所は、胸と、脚の付け根の内側、それより上の下腹部。それは、彼女が望んでも、蓮のほうから断る。
「……なぜだ。私が頼んでも?」
「あなたを大切にしたいからです。ここは、癒しの場所で、それ以外の関係は持たない。それが、僕の決めた店の掟です」
カティアはしばらく黙っていた。それから、静かに頷いた。
「わかった。……信用する」
二階の個室は、昼の光が薄い布を透かして、ほのかに明るかった。
蓮は廊下で待った。やがて、衣擦れの音がやんで、小さな声が届く。
「入って、いい」
寝台の上のカティアは、大きな布に全身をくるまれて、うつ伏せになっていた。素肌の肩と背中が、布の端からのぞいている。枕元の木札は、表を向けたままだ。
「触れますね」
「……ああ」
蓮は、前回より時間をかけた。足先から始めて、ふくらはぎ、膝の裏、太もも。ゆっくりと掌を沈め、呼吸に合わせて、押さずに温度だけを置いていく。
鎧の中で何年も締めつけられていた脚は、驚くほど硬く、そして冷たかった。
「冷えていますね」
「いつもだ。冬は、ほとんど感覚がない」
「今日は、感じてもらえるように」
掌の下で、冷たかった肌が、少しずつ温まっていく。カティアの口から、細い息が漏れた。
「……そこは」
「痛いですか」
「いや。……くすぐったい、のとも違う。変な感じだ」
「それは、体が思い出している感覚です。大丈夫、続けても?」
「……続けてくれ」
腰から背中へ。背骨の両脇に親指を添えて、ゆっくりと上へ滑らせる。肩甲骨の下で、凝り固まっていた筋が、掌の熱にほぐれていく。
そのたびに、カティアの背中が、波のように揺れた。
「っ、は……」
声が、さっきよりも甘くなっていた。
彼女は枕に顔を埋めて、慌てて声を殺そうとする。
蓮は、掌の動きを緩めた。
「抑えなくて、いいですよ」
「だが、これは……こんな声、私は」
「誰も聞いていません。聞いているのは、僕とモフだけです」
「ぷう」
枕元で、モフが律儀に相槌を打つ。カティアの肩が、ふっと揺れた。笑ったのだと、蓮にはわかった。
「……変な精霊だ」
「そうですね」
「だが、悪くない」
首筋に掌を添え、耳の後ろから肩口まで、指の腹でゆっくりと流す。カティアの喉が、ひくりと上下した。布の下で、背中がしなやかに反って、かすかな吐息がこぼれる。長いあいだ「痛み」としか思わなかった感覚が、少しずつ、まったく別のものに変わっていく。
「……あたたかい。だけじゃ、ない」
「はい」
「気持ちいい、のか。これが」
「はい。それが、気持ちいい、です」
カティアは、小さく息を呑んだ。それから、堪えていたものが決壊するように、肩を震わせた。
「私は、ずっと、こういうものを感じてはいけないと思っていた。務めの最中に、自分の体のことなど考えるのは、怠惰だと」
「はい」
「でも、違うんだな。これは、悪いことじゃない」
「悪いことじゃないですよ。体が、あなたに『ここにいるよ』って、言ってるだけです」
涙が、枕に落ちた。今度は、声をあげて泣いていた。五年分の何かが、堰を切ったように流れ出す。
蓮は、掌を動かすのをやめ、ただ彼女の背中にそっと手を置いた。何も言わずに、泣き終わるのを待った。
しばらくして、カティアは鼻をすすり、枕から顔を上げた。
「……みっともない姿を、見せた」
「いいえ。とても、きれいでした」
「……お前は、そういうことを、平気で言うんだな」
「本当のことなので」
カティアは、耳まで赤くしてまた枕に顔を伏せた。蓮は、笑いをこらえながら、最後の仕上げに、足先をそっと温め直した。
施術を終えたあとも、カティアはしばらく動かなかった。
大きな布に包まれたまま、天井を見上げている。窓の光が、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
「レン」
「はい」
「お前の手が、冷たい」
蓮は、思わず自分の手を見た。気づかなかった。いつからだろう。
「私は、先ほど、お前の手に触れた。あのとき、氷のようだと思った」
「少し、冷え性なんです」
「嘘だな」
カティアは、蓮の手首をそっと掴んだ。力は弱いのに、振りほどけなかった。
「私に、ここまで体を温めてくれた。その代わりに、お前は自分を削っているのではないか」
蓮は、返事ができなかった。
前の世界と同じだった。誰かを温めて、自分の手が冷たくなっていく。その繰り返しの先に何があるか、自分は知っている。
「……大丈夫です」
「大丈夫、という顔ではない」
「本当に」
「レン」
カティアは、まっすぐに蓮の目を見た。
「頑張りすぎる者を、私は五年間、鏡で見てきた。お前の目は、私の目と同じだ」
胸の奥を、静かに突かれた気がした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがてカティアは、蓮の手を離して、ゆっくり体を起こした。
「次の来店のとき、お前のほうを先に休ませる」
「え?」
「私に、できる範囲で。お茶を淹れる、肩を揉む、何でもいい。借りは作らない主義だと、言ったはずだ」
「でも、お客様にそんなことは」
「客である前に、私は、お前に救われた者だ。それでは、いけないか」
蓮は、答えに困った。
けれど、胸の奥に、ずっと凍っていたものが、ほんの少し溶けた気がした。
「……考えておきます」
「必ず、考えろ」
カティアは、少しだけ口の端を上げた。
それは、笑顔と呼ぶには、まだぎこちなかったけれど、蓮が見た中で、いちばんやわらかい表情だった。
午後、カティアが制服に着替えて階下に降りたとき、玄関の外に、足音が集まっていた。
数は、五、六人。硬い靴底が、石畳を叩く音。
扉が、乱暴に叩かれた。
「務めの教会です。約束の三日が過ぎました。看板を、下ろしていただきたい」
セドリックの声だった。蓮は、カティアと目を合わせた。
「私が出る」
「いえ。僕が」
「お前は、さっき倒れかけただろう」
「でも、店の主人は、僕です」
二人は、短いあいだ睨み合った。それから、カティアが先に折れて、蓮の後ろに半歩下がった。
蓮が扉を開けると、セドリックと、槍を持った兵が四人、立っていた。
そして、その少し後ろに、見知らぬ中年の男が立っている。黒い法衣、落ちくぼんだ目。静かに、こちらを見ていた。
「看板は、下ろしません」
蓮は、はっきりと言った。
「ここは、疲れた人が休む場所です。誰かの務めを、奪う場所ではありません」
「蓮殿」
セドリックが、苦しげに眉を寄せた。
「あなたは、わかっていない。この店が、どれほど人々の心を乱すか」
「乱しているのは、本当に、この店でしょうか」
蓮は、静かに言葉を続けた。
「セドリックさん。あなた、最後にぐっすり眠ったのは、いつですか」
セドリックの顔から、すっと血の気が引いた。
「……何を」
「靄が、見えるんです。あなたの体を、ずっと覆っている。もう、立っているのも、つらいはずです」
「黙りなさい」
「黙りません。人が倒れる前に、誰かが言わなければ」
「黙れ!」
叫んだ声が、途中で、不自然に途切れた。
セドリックの膝が、がくりと折れた。持っていた書類が、手から滑り落ちる。蓮は、考えるより先に、手を伸ばしていた。
倒れかけた体を、しっかりと抱きとめる。
触れた瞬間、蓮の掌から熱が走った。
黒に近い灰色の靄が、セドリックの全身を覆っている。限界を、とうに超えていた。
「ぷう!」
肩の上で、モフが鳴いた。その小さな体が、いつもより激しく、震えている。
後ろの法衣の男が、初めて口を開いた。
「……ほう」
低い声だった。静かで、重く、そして、どこか疲れ切った声。
「その手は、面白いな」
男の目が、蓮の掌をじっと見つめていた。
蓮は、背筋が冷たくなるのを感じた。
この男は、何者だろう。
けれど、いまはそれどころではない。腕の中のセドリックの呼吸が、浅く、弱くなっている。
「カティアさん、お願いします。中へ運びます。二階の個室を」
「承知した」
カティアが、迷いなくセドリックの体を抱え上げた。教会の兵たちが、戸惑った顔で槍を下ろす。
黒い法衣の男は、何も言わず、ただ、その光景を見ていた。
(第2話 完)




