第1話「疲れが、色になって見えた」
目を開けると、知らない天井があった。
黒ずんだ梁が斜めに走り、屋根の隙間から細い光が一筋落ちている。埃と、湿った木の匂い。背中の下で、固いソファがきしんだ。
(終電、逃したんだっけ……)
ぼんやりとそう思ってから、蓮はゆっくり体を起こした。
おかしい。体が、軽すぎる。
指先の痺れも、頭の奥に居座っていた鈍い痛みもない。三年間ずっと背負っていた重い鞄を、ふいに下ろしたような感覚だった。
ソファの脇の壁に、曇った鏡がかかっていた。
のぞき込むと、見知らぬ青年が映っている。黒髪に、少し垂れた目。そこまでは自分とよく似ているのに、頬は若く細く、瞳は淡い琥珀色をしていた。
「……誰だ、これ、、、」
そのとき、胸元で何かがもぞりと動いた。
驚いて身を引くと、白い綿毛の塊が、ころんと床に転がり落ちた。手のひらに乗るほどの大きさで、豆粒のような黒い目がふたつ、じっとこちらを見上げている。
「ぷう」
「……生き物、なのか?」
「ぷう」
返事のつもりらしい。綿毛はぽてぽてと床を転がり、蓮の足にぶつかって止まった。抱き上げると、思いのほか温かい。小さな体から、とくとくと鼓動が伝わってくる。
蓮は、ふっと息を吐いた。
人の体温を受け取ったのは、いつぶりだろう。毎日何十人もの肌に触れてきたのに、自分が誰かに温められた記憶は、驚くほど遠かった。
「ありがとう。……君、名前はあるの?」
「ぷう」
「そっか。じゃあ、しばらく『モフ』って呼んでもいい?」
綿毛は、嬉しそうに全身をふるふると震わせた。
状況を確かめるために、蓮は家の中を歩いて回ることにした。
三階建ての古い木造家屋だった。階段は踏むたびに悲鳴をあげ、手すりはところどころ色が違う。
一階は大きな暖炉のある広間で、擦り切れたソファがひとつ、ぽつんと置かれている。
二階には、薄い布で仕切られた小部屋がふたつ。
三階には、窓際にベッドがひとつあるだけの、小さな静かな部屋があった。
どこを見ても、直した跡があった。
誰かがこの家を、手間をかけて、長く大切に使ってきたのだろう。
(お金は、なかったんだな)
けれど、荒れてはいなかった。埃は積もっているのに、床の隅々まで、かつて毎日磨かれていた艶が残っている。
階段を降りて広間に戻ると、暖炉の脇の机が目に留まった。引き出しをそっと開けると、封のされていない手紙が一通だけ入っていた。
宛名には「孫へ」とある。
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店を継いでくれて、ありがとう。
お金にならない店だと、わかっています。
それでも、休める場所を残したかったのです。
疲れた人が「疲れた」と言える場所を、どうか消さないでください。
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筆跡は震えていた。きっと、病床で書いたのだろう。
読み終えても、蓮はしばらく動けなかった。
この体の持ち主は、祖母の店を継いだばかりの青年だったらしい。
そして、その魂は、もうここにいない。誰に教えられたわけでもないのに、それだけは不思議とはっきりわかった。
蓮の中に、ひとつの感情が静かに広がった。
――疲れた人が、疲れたと言える場所。
それは、前の世界で、自分がいつも作りたかった場所そのものだった。予約の枠も、ランキングも、指名数もない。ただ疲れた人が来て、疲れたと言える場所。
「……わかりました」
蓮は手紙を胸に当てた。
「あなたの店、僕が預かります。ちゃんと、続けてみせます」
肩の上で、モフが小さく「ぷう」と鳴いた。
玄関の扉を開けると、夕方の空気が頬を撫でた。
王都セラフィアの下町は、騒がしいのに、どこか息苦しい街だった。
荷車を引く女性が通り過ぎていく。帳簿を抱えて走る若い女性、鎧をきしませて巡回する女性、店先で声を張り上げる女性。気づけば、行き交う人の七割ほどが女性だった。そして誰もが、足を止めない。立ち話をする人も、空を見上げる人もいない。皆が、何かに追われるように早足だった。
(みんな、あの頃の僕みたいだ)
そう思ったとき、蓮の視界が、ふっと揺れた。
道ゆく人の体に、薄い靄がまとわりついている。
黄褐色、灰色、ところどころに濁った白銀。靄は呼吸に合わせて、ゆらゆらと揺れていた。
(疲れが……見えてる?)
前の世界では、気配としてしか感じ取れなかったものだった。肩の張りや呼吸の浅さから「たぶんこの人は疲れている」と推し量るしかなかった。
それが今は、誰の目にも明らかな色になって、目の前に広がっている。
そして、どの色も、暗くくすんでいた。
通りの向こうから、荷車を引いた女性が近づいてくる。背中にまとった靄は、鉛のような灰色だった。足取りがおぼつかない。
その女性が、角を曲がったところで、よろめいた。
「危ない!」
考えるより先に、足が動いていた。
蓮は駆け寄り、傾いた荷車の取っ手を支える。そのまま、倒れかけた女性の腕を掴んだ。
触れた瞬間だった。
掌が、ふわりと熱を持った。
灰色の靄が、触れた場所から、金色にほどけていく。まるで、固まった絵の具が水に溶けていくように。
「え……?」
女性が、目を丸くして蓮を見た。
同時に、蓮の胸に、ずしりと重いものが流れ込んできた。何日も眠っていない人の、あの底なしの重さ。
朝から晩まで荷を運んで、それでも明日の荷が待っている人の、鈍い絶望。膝が、かくんと折れかける。
「ぷう!」
肩の上で、モフが鳴いた。
蓮の胸から光の粒が抜け出し、モフの小さな体に吸い込まれていく。体を押しつぶしそうだった重さが、すっと軽くなった。
「あんた、今、何を」
「わかりません。ただ……少し、楽になりましたか?」
女性は、自分の肩をぐるりと回した。
それから、信じられないという顔で、自分の両手を見つめた。
「……軽い。何年ぶりだろう、こんなに息ができるの」
「それは、よかった」
「あんた、何者だい」
「え、えっと……近くで店をやってる、蓮といいます。疲れた人が休める場所、のつもりで」
女性は少し黙ってから、荷車の取っ手を握り直した。顔にはまだ戸惑いが残っていたが、目の端が、ほんの少し柔らかくなっていた。
「……考えとくよ。ありがとね」
そう言って、彼女は荷車を引いて去っていった。その背中は、さっきよりずっと、まっすぐ伸びていた。
蓮は、自分の掌を見つめた。熱が、まだじんわりと残っている。
(これが、この世界での僕の力なのか)
けれど、その力には代償がある。あの重さを、自分は確かに受け取った。もしモフがいなかったら、あの場で倒れていただろう。
「ありがとな、モフ」
「ぷう」
モフは得意げに、蓮の肩の上で丸くなった。
店に戻る頃には空は群青に変わっていた。
蓮は、まず看板を作り直すことにした。
玄関先にぶら下がっていた古い看板は、半分腐って、文字も読めない。外してみると、裏に小さく、祖母の筆跡で「宿り木」と彫られていた。
蓮は新しい板を探し、物置にあった端材を削って整える。台所で薬草を煮出すと、濃い緑の絵の具ができた。
何と書こうか、少し迷った。
けれど、筆を取ると、自然に言葉が出てきた。
『灯の宿り木 ― 疲れた人が、疲れたと言える場所』
乾かしてから玄関に吊るしたとき、通りの向こうで、誰かの足が止まる気配がした。
振り返ると、街灯の下に、背の高い女性が立っていた。
銀灰色の短い髪。腰には長剣。胸には王都警護隊の紋章。背筋は剣のようにまっすぐで、表情はほとんど動かない。美しい人だと、蓮は思った。
けれど、その美しさは、触れれば砕けそうな、薄い氷のような危うさをはらんでいた。
そして、蓮の目には、彼女の全身を覆う鉛色の靄が、はっきりと見えていた。
昼間の荷車の女性よりも、ずっと重く、ずっと深い。足元の地面に、沈み込んでいきそうなほどの色だった。
彼女は看板を見上げたまま、動かない。
やがて、唇が小さく動いた。
「……疲れた、と言える場所」
自分の声に驚いたように、彼女はすぐに唇を引き結んだ。
蓮は、静かに扉を開けた。急かさない声を意識して、そっと呼びかける。
「よかったら、少し座っていきませんか?何も、しなくていいので」
「私は、痛みなど感じない。休む必要はない」
「はい」
「……ただ、通りかかっただけだ」
「はい」
蓮は、それ以上何も言わなかった。看板の横に立ち、彼女の返事を待つ。夜風が吹いて、新しい看板がかすかに揺れた。
肩の上のモフが、小さく「ぷう」と鳴く。
長い沈黙のあと、女騎士は短く息を吐いた。
「……少しだけ、なら」
彼女の名は、カティア・ローエン。王都警護隊の副隊長だという。
暖炉に火を入れ、蓮はお茶を淹れた。台所に残っていた乾燥ハーブを煮出しただけの、素朴なものだ。
カップを差し出すと、カティアは両手で受け取り、しばらく湯気を見つめていた。
「……薬草の匂いがする」
「眠りやすくなるハーブみたいです。祖母の残したものですが」
「そうか」
カティアは、一口だけ飲んだ。ソファに座っても、背筋は崩れない。膝の上の手は、まるで剣の柄を握っているように、固く閉じられている。
蓮は何も聞かなかった。向かいに腰を下ろして、ただ暖炉の火を見ていた。薪がぱちりと爆ぜる。窓の外では、風が看板をかすかに鳴らしている。
不思議なことに、その沈黙は、気まずくなかった。
むしろ、凍りついていた何かが、少しずつ緩んでいくような時間だった。
やがて、カティアのほうから口を開いた。
「五年、休んでいない」
「……そうですか」
「部下が怪我をした日からだ。私が見回りを一晩休んだ、その夜だった」
「はい」
「私が休めば、誰かが死ぬかもしれない」
声は淡々としていた。感情を削ぎ落とした、報告書を読むような口調だった。
けれど、膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられている。
蓮は、それ以上の言葉を足さなかった。ただ頷いて、彼女が話し終えるまで待った。
眠れないこと。眠ると、夢の中で部下の名前を呼んでいること。それでも「平気だ」と言い続けてきたこと。誰にも、弱音を吐いてはならないと思っていたこと。話しているうちに、彼女の声から、少しずつ角が取れていった。
「……すまない。こんな話を」
「いいえ。話してくれて、ありがとうございます」
カティアは、自分の手を見下ろした。
「なぜだろうな。初めて会った男に、これほど話すとは」
「疲れた人が、疲れたと言える場所ですから」
蓮は、少し照れくさそうに笑った。それから、居住まいを正して、彼女をまっすぐ見た。
「カティアさん。もしよければ、体のほうも休ませてみませんか?」
蓮は、前の世界で何千回も口にしてきた説明を、丁寧になぞった。
「触れる範囲は、先にあなたが決めてください。着替えは二階で、僕は外で待っています。薄い施術着と大きな布を使うので、肌が出るのは、僕の手が触れる場所だけです。嫌だと思ったら、この札を裏返してください。その瞬間に、僕は手を離します。理由は、言わなくていいです」
奥の棚から取り出した木札を、カティアの前に差し出す。
彼女は、それをしばらく見つめていた。
「……なぜ、そこまで確認する」
「触れられることは、本当は、少し怖いことだからです。怖くない状態でしか、人は休めませんから」
カティアは黙っていた。暖炉の火が、彼女の横顔に影を揺らす。
「私は、剣を握る以外で、人に触れられたことがない」
「はい」
「だから、怖いのかどうかも、わからない」
「それなら、ゆっくり確かめましょう。途中で、やめてもいいんです」
長い沈黙のあと、彼女は札を受け取った。
「……頼む」
二階の個室は、薄い布で仕切られた、小さな部屋だった。窓から月明かりが差して、布の端を青白く照らしている。蓮は施術着と大きな布を用意し、部屋の外の廊下で背を向けて待った。
衣擦れの音が、しばらく続いた。鎧の留め具を外す、硬い音。それから、布が肌を滑る、柔らかい音。
やがて、静寂が落ちた。
「……いい」
小さな声がして、蓮は布をくぐった。
カティアは、寝台にうつ伏せで横たわっていた。
大きな布が背中から腰までを覆い、剥き出しになった肩の線が、月明かりの下で硬く張っている。
長年の鍛錬で引き締まった体は、美しいのに、どこも痛々しいほど強張っていた。
傍らには、木札が置かれている。
「ありがとうございます。じゃあ、触れますね」
蓮は両手をこすり合わせて温め、肩甲骨のあいだに、そっと掌を置いた。
カティアの背中が、びくりと跳ねた。
掌から熱が広がり、鉛色の靄が、指先からほどけていく。同時に、蓮の中へ重いものが流れ込んできた。
部下の名前。夜の見回り。眠れない朝。誰にも言えなかった五年間の、静かな叫び。
(こんなものを、ずっと一人で)
胸の奥が痛んだ。それでも、手は離さなかった。
枕元で、モフが「ぷう」と鳴いて、蓮の中の重さを少しずつ吸い取っていく。
掌を、ゆっくりと背骨に沿って滑らせた。急がない。押さない。ただ温度を渡すように、呼吸に合わせて体重を預ける。吸うときに沈み、吐くときに緩める。何度も、何度も。
「……っ」
小さく息を呑む音がした。
「痛いですか」
「違う。……痛くは、ない」
声が、かすれていた。
「ずっと、痛くないと思っていた。気づかなかっただけで、ずっと、痛かったんだ」
「はい」
「こんなに、固くなっていたのか。私の体は」
「五年分ですから。ゆっくり、ほどいていきましょう」
肩から腕へ、腕から指先へ。布を少しずつずらすたび、蓮は必ず「ここは大丈夫ですか」と尋ねた。
カティアは短く「ああ」と答える。
握りしめていた拳が、掌の温度に触れて、ひとつずつ、指を開いていった。剣だこのある硬い掌を、蓮は両手で包んで、親指でゆっくりとなぞる。
腰から太ももへ、ふくらはぎから足先へ。古い傷跡が、剣の稽古でできた痣の名残が、掌の下で順番に温まっていく。
そのたびに、鉛色の靄が薄れて、代わりに淡い黄色が、肌の下からにじみ出してきた。
再び背中に戻る頃には、カティアの呼吸は、深く、長くなっていた。
強張りがほどけた肌は、驚くほど柔らかく、触れた場所から熱が伝わってくる。蓮の掌の下で、背中が呼吸に合わせて、波のように上下していた。
「……変だ」
「どう変ですか?」
「体が、勝手に……息が、漏れる」
小さな吐息が、枕に落ちた。彼女は慌てたように唇を噛み、肩がかすかに震える。
「抑えなくていいです。それは、体がちゃんと休めている証拠ですから」
「恥ずかしい、、、」
「恥ずかしくないですよ。気持ちいいって、体がいちばん素直に出せる言葉ですから」
蓮は、首筋にそっと掌を添えた。耳の後ろから肩口まで、指の腹でゆっくりと流していく。彼女の喉から、堪えきれない甘い息がこぼれた。布の下で背中が揺れて、握りしめていた指が、ゆるゆると解けていく。
「……あたたかい」
声が、子どものように幼くなっていた。
「こんなふうに、誰かに触れてもらったことが、なかった」
「今日からは、あります」
カティアの頬を、一筋の涙がつたった。拭うこともせず、彼女は、自分の体の中に戻ってきた感覚を確かめるように、深く息を吸った。長いあいだ閉じていた扉が、ようやく開いたような、静かな呼吸だった。
蓮は、掌をそっと離し、布を整えて、耳元で囁いた。
「今日はここで、役目をお休みください」
返事はなかった。代わりに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
蓮は、息を殺したまま、静かにその場を離れた。
廊下に出た途端、壁に背中を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。
代償は、思っていたよりも重かった。モフが吸い取ってくれたはずなのに、体の芯に、鉛が沈んだように重い。けれど、胸の奥には、確かな温かさがあった。
(ああ。こういう気持ちだったな)
誰かの呼吸が、安らいでいく音。その音を聞くために、自分はこの仕事を選んだのだと、蓮は久しぶりに思い出していた。
(第1話 完)




