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『No1セラピスト、異世界で「癒し」を売る ~燃え尽きた聖女も女王もお客様です~』  作者: るむ


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第0話(プロローグ)「No.1の、いちばん遠い場所」


午前六時五十分。

スマホのアラームが鳴る前に、桐谷蓮は目を開けた。


眠った感覚はない。昨夜ベッドに倒れ込んだのは三時過ぎで、睡眠は三時間半。それでも体は、予約のある日の朝を覚えている。


枕元のスマホで予約管理アプリを開く。

今日の枠は、朝九時から深夜零時まで、ぎっしりと埋まっていた。


「……今月も、ランキング一位か」


画面には「指名数 No.1」の文字が光っている。

三年連続だった。新規の問い合わせは月に三百件を超え、予約はいつも二か月先まで埋まっている。


稼ぎは、同年代の会社員の何倍にもなる。

けれど、その金を使う時間が、蓮にはなかった。


洗面所で顔を洗い、鏡をのぞく。

目の下に、うっすらと影がある。コンシーラーを指に取り、叩き込むように隠した。


「大丈夫。笑えば、わかんないから」


鏡の中の自分に、そう言い聞かせる。

人の疲れには誰より敏感なのに、自分の疲れには、いつも見ないふりをしてきた。


栄養ドリンクを一本あおり、蓮は家を出た。


午前九時。都内のホテルの一室。


最初のお客様は、三十八歳の広告代理店の部長、ミサキさんだった。

月に二回、もう一年の付き合いになる。


「おはようございます、蓮さん。朝からごめんなさいね。今日、午後に大きなプレゼンがあって」


「ミサキさんの朝は、僕にとってもご褒美です」


そう言って笑うと、彼女の肩がわずかに緩んだ。

ソファに並んで座り、まずは話を聞く。仕事の愚痴、部下との軋轢、母親からの電話。三十分、蓮はただ頷き、相槌を打ち、彼女の言葉が尽きるのを待った。


「今日、触れる範囲はいつも通りで大丈夫ですか。嫌になったら、いつでも言ってください。合図ひとつで、すぐに止めますから」


「……はい。お願いします」


彼女はシャワーを浴び、バスローブ姿でベッドにうつ伏せになった。大きなバスタオルを背中にかけ、蓮は静かに両手を温める。


「触れますね」


掌が、肩甲骨のあいだに触れた。

ミサキさんの背中が、びくりと波打つ。

分厚い鎧のような強張りが、掌の下に広がっていた。呼吸に合わせて、ゆっくりと体重を預ける。

ゆっくり、ゆっくり。急がず、押さず、ただ温度を渡すように。


「……あ」


小さな声が、枕に落ちた。


「ずっと、力が入ってたんですね」


「入ってた、のかな。……自分でも、気づいてなくて」


背中から腰へ、腰から脚へ。オイルを滑らせる掌が内腿のあたりを通ると、彼女の息が甘く震えた。

蓮は動きを変えず、決して急がない。彼女が自分の体の感覚を思い出していくのを、ただ見守る。


「誰かに触れてもらうのって、こんなに、あったかいんですね」


「はい。今日は、ここで役目をお休みください」


いつもの言葉を囁くと、彼女の目尻から、静かに涙が流れた。

終わったあと、ミサキさんはバスローブのまま、泣き笑いで言った。


「蓮さん、私ね、誰にも触れられない夜が、何年も続いてたの。女としての自分、とっくに終わったと思ってた」


「終わってないですよ。ただ、ずっと後回しにされてただけです」


彼女は何度も頭を下げ、部屋を出ていった。背筋が、来たときより少し伸びていた。

蓮は一人になった部屋で、ほんの一瞬、壁に額をつけて目を閉じた。


(次、十一時半。急がないと)


昼十二時、駅近くのコインパーキングに停めた車の中で、蓮はコンビニのおにぎりを口に運んでいた。

二つ目の客は十時半から二時間。移動に二十分。

昼食に取れたのは、たった十分だった。

スマホが震える。店のスタッフからのメッセージだった。


『蓮さん、ごめんなさい!今日の夜、十九時の枠にキャンセル待ちの方から入りたいと連絡が。お願いできませんか?』


十九時は、本来なら夕食を取る時間のはずだった。

指が止まる。断りたいと、一瞬思った。

けれど画面の向こうには、きっと蓮を待っている誰かがいる。


『大丈夫です。お受けします』


送信ボタンを押したあと、おにぎりの味が、まったくしなくなった。


(僕が断ったら、その人は今夜、また眠れないままなんだろうな)


そう思うと、断れなかった。断れない自分が、だんだん嫌いになっていく気がした。


午後三時。

二十九歳の看護師、ユイさんは、蓮の部屋のドアを開けるなり、顔を覆って泣き出した。


「ごめんなさい、今日夜勤明けで、頭がぐちゃぐちゃで」


「泣いていいですよ。ここは、泣く場所なので」


彼女が落ち着くまで、蓮は黙って隣に座っていた。

看護師の仕事は、人の命と、人の怒りと、人の不安を毎日受け止める仕事だ。誰かを癒す人ほど、癒される場所を持たない。蓮はそれを、誰よりも知っていた。


「私、患者さんの前で、ずっと笑ってるんです。でも、家に帰ると、笑い方がわからなくなって」


ベッドの上で、バスタオルに包まれた彼女の背中を、蓮は丁寧に温めた。脚の付け根から足先まで、ゆっくりと掌を沈める。彼女の呼吸が深くなり、胸の奥で長いあいだ固まっていた何かが、少しずつほどけていくのがわかる。


「……きもち、いい」


吐息と一緒に、そう漏れた。

言ったあとで、彼女は慌てて口を押さえた。


「ごめんなさい、私」


「謝らなくていいんです。気持ちいいって、人が持ってる、いちばん素直な感覚ですから」


蓮の掌の下で、彼女の体からすべての力が抜けていく。呼吸が、波のようにゆるやかになる。

やがて静かな寝息が聞こえてきた。

蓮はタオルをそっと整え、部屋の灯りを落とした。

時計を見ると、次の予約まで、あと十五分しかなかった。


午後七時。午後九時。午後十時半。

蓮は一人ひとりに向き合った。同じ顔のお客様は、ひとりもいなかった。

笑う人、泣く人、黙り込む人、少女のように甘える人。そのたびに、蓮は自分の中にある「何か」をほんの少しずつ差し出していた。


誰かの涙を受け止めるたびに、自分の中から、水がひとすくい減っていく。それが何なのか、蓮にはわからなかった。ただ、減った分を補う場所は、どこにもなかった。


午後十一時を過ぎる頃から、視界の端が、ときどき白くなった。階段を上がるときに、足元がふわりと浮く。それでも、蓮の笑顔は崩れなかった。

最後のお客様は、深夜零時の予約だった。


四十代の女性、アヤコさん。夫を亡くして二年。

会社の役員になり、家では母を介護している。ホテルの部屋に入ってきたとき、彼女はまるで、今にも折れそうな枝のように見えた。


「ごめんなさい。こんな時間に」


「いえ。夜でないと、泣けない人もいますから」


蓮は、彼女の手を両手で包んだ。冷たい手だった。


「触れますね。つらくなったら、いつでも止めます」


「……はい」


ベッドの上、薄暗い灯りの下で、蓮は時間をかけて彼女の体をほどいていった。首筋。肩。背中。腰。彼女の体が、蓮の掌の温度に少しずつ馴染んでいく。

胸の奥で凍っていたものが、溶けていくのが、掌を通して伝わってきた。


「……あなたは、あったかいのね」


吐息まじりの声が、闇に溶ける。


「ずっと、誰かに触れられるのが怖かった。でも、今日は、怖くない」


彼女の肩が小さく震え、そのまま深い息に変わった。長い時間のあと、彼女はゆっくり身を起こし、まるで別人のような柔らかな表情で蓮を見た。


「蓮さんのおかげで、久しぶりに眠れそう」


ありがとうと言って笑ったその背中は、来たときよりずっと軽やかだった。

蓮は深く頭を下げた。顔を上げたとき、時計は午前一時を指していた。


ホテルを出ると、夜風が驚くほど冷たかった。

駅に向かって歩く。

足が、自分のものではないように重い。

やっとの思いで改札に着くと、電光掲示板は、終電がすでに出たことを告げていた。


「……あー、やっちゃった」


蓮は笑った。笑うしかなかった。

ホームのベンチに腰を下ろし、背もたれに頭を預ける。コンクリートの冷たさが、背中から染み込んでくる。

スマホを開くと、明日の予約が、また朝から詰まっていた。


(明日も、頑張らないと)


そう思ってから、ふと気がついた。

今日一日、蓮は何十回も人に触れた。人の体温を、涙を、吐息を受け止めてきた。

それなのに、自分の肩に誰かが触れたのは、いつが最後だっただろう。蓮は自分の掌を見つめた。


あれほど多くの人を温めてきたはずの手が、驚くほど冷たかった。


(おかしいな。僕の手、こんなに冷たかったっけ)


指先が、じんと痺れ始める。

ホームの照明が、少しずつ遠のいていく。

音が、水の底に沈むように小さくなっていく。

視界の端から、色がひとつずつ、抜け落ちていった。

誰かの声が聞こえた気がした。「蓮さん、ありがとう」と、何人もの声が重なって。

その声は、確かにやさしかった。

けれど、そのなかに、「蓮さん、お疲れさま」と言う声は、ひとつもなかった。


(ああ、僕も、休めばよかったのかな)


そう思ったのが、最後だった。


(第0話 完)


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