第3話「眠れない司祭と、影落ちの噂」
セドリックの体は、驚くほど軽かった。
カティアに抱えられて二階の個室へ運ばれる間、彼は一度も目を開けなかった。寝台に横たえると、法衣の襟元から覗く首筋が、紙のように白い。
「脈は」
「弱いが、乱れてはいない。極度の疲労だ」
カティアは簡潔に答え、枕元に水を置いた。
警護隊で何度も倒れた兵を見てきた人の、迷いのない手つきだった。
蓮は寝台の脇に膝をつき、セドリックの手首にそっと触れた。掌がふわりと熱を持つ。濁った白銀の靄が、黒に近い灰色の底で渦を巻いていた。
(この人は、ずっと自分を使い切ってきたんだ)
「ぷう」
モフが蓮の肩から降りて、セドリックの胸元にちょこんと乗る。小さな体がふるりと震え、靄の端をついばむように吸い込み始めた。
「モフ、無理しなくていい」
「ぷう!」
「……わかった。でも、苦しくなったら言って」
階下では、教会の兵たちが落ち着かない様子で待っているはずだった。
そして、あの黒い法衣の男もいる。蓮は一度だけ階段のほうを振り返り、それから目の前の人に意識を戻した。
「セドリックさん。聞こえますか。ここは僕の店です。何もしませんから、少し眠ってください」
返事はない。ただ、浅かった呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。
階下に降りると、広間は妙な静けさに包まれていた。
兵たちは入口近くで居心地悪そうに立ち、カティアが暖炉の脇で腕を組んでいる。
そして黒い法衣の男は、いつの間にかソファに腰を下ろしていた。誰に勧められたわけでもないのに、その姿は、この場の主のように落ち着いていた。
「勝手にかけさせてもらった。立っているのが、少々つらくてね」
男は静かに言った。
「ガレスと申す。務めの教会の司祭だ」
蓮は、軽く頭を下げた。
「蓮です。セドリックさんは、いま眠っています。しばらく安静にしていただければ」
「そうか」
ガレスは短く答え、蓮の掌に視線を落とした。
「その手で、触れたのか。あの子の体に」
「はい。倒れかけていたので」
「痛みは」
「え?」
「触れた者の疲れが、お前の体に流れ込む。違うか?」
蓮は言葉を失った。
隣でカティアが、わずかに身構える。
ガレスは片手を上げて、敵意がないことを示した。
「責めているのではない。昔、似た術を使う者を見たことがある。それだけだ」
「……その人は、どうなりましたか?」
「二十年前の話だ」
ガレスはそこで言葉を切った。答えは、なかった。
ただ、落ちくぼんだ目の奥に、蓮には読み取れない色が沈んでいた。黒灰色の靄が、彼の肩から静かに立ち昇っている。
(この人も、限界に近い)
けれど、それを口にしても、いまは届かない気がした。蓮は黙って、ガレスの視線を受け止めた。
「看板の件だが」
ガレスが、ゆっくりと切り出した。
「七日、猶予をやろう。その間に、お前の店が『影を広げる場所』ではないと、証明してみせろ。できなければ、閉めてもらう」
「七日で、ですか」
「務めを乱す店かどうか。それは、人々が決めること。私は、そう教わってきた」
ガレスは立ち上がった。兵たちが慌てて道を空ける。扉の前で、彼は一度だけ振り返った。
「セドリックは、明日の朝、迎えに来る。それまで、預けておく」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
カティアが、長く息を吐いた。
「……あれが、司祭ガレスか。教会でも、屈指の厳格な男だと聞いている」
「厳しい人というより」
蓮は、言いかけて口をつぐんだ。
(あの人は、休み方を、忘れてしまった人だ)
その夜、店の広間に、見慣れない顔が現れた。
赤茶色の髪をひとつに結び、丸眼鏡をかけた女性だった。肩から下げた鞄には、そろばんに似た小さな魔道具がぶら下がっている。年は三十前後、目つきは鋭く、店の中を値踏みするように見回していた。
「ここの主人は、あんた?」
「はい。蓮といいます。お客様でしょうか?」
「客じゃないわ」
女性は鞄から紙束を取り出し、机の上にぱしんと置いた。
「家賃、三か月分の滞納。薬草屋のツケ、半年分。修繕費の請求書も二枚。この店の大家は私の叔父でね。
様子を見てこいと言われたの。エルナ・フィンクよ」
蓮は、紙束を見て、小さく息を呑んだ。数字が、帳簿よりもずっと厳しい。
「……すみません。来月分は、必ず」
「必ず、ね。収入の見込みは?」
「あります。たぶん」
「たぶん」
エルナは、眼鏡の奥で目を細めた。
「あのね。善意で店を続けるのは勝手だけど、お金は善意じゃ回らないのよ。さっき外で聞いたわ、教会に七日で証明しろって言われたそうじゃない。で、何を証明するつもり?」
「この店が、人を困らせる場所じゃないことを」
「具体的には?」
蓮は、答えに詰まった。
エルナは、ふんと鼻を鳴らした。そのまま椅子に腰を下ろし、鞄から帳面を取り出して、さらさらと何かを書き始める。
「三つ、条件がある」
「条件?」
「一つ。料金表を作ること。無料と善意だけじゃ、教会に『怪しい店』と言われて終わりよ。二つ。客の同意と断る権利を、紙に書いて玄関に貼ること。誰が見ても『安全な店』とわかるように」
「三つ目は?」
「三つ。私を、帳簿係として雇うこと。タダ働きは許さないから、給金は払ってもらうわよ」
蓮は、ぽかんとして、エルナの顔を見た。
「ええと、僕は、お金がなくて」
「だから、私が稼がせるの」
エルナは、そっけなく言った。
けれど、帳面に走らせる手は、驚くほど速かった。蓮の目には、彼女の体を覆う赤錆色の靄が、薄く揺れて見えた。
(この人も、誰にも頼れずに、ずっと自分で背負ってきた人だ)
「……お願いします」
「契約成立ね。明日の朝から来るから、掃除しておいて」
エルナは立ち上がり、玄関に向かう。そこで足を止め、背中を向けたまま、ぽつりと言った。
「叔父には、『この店はまだ潰れない』って報告しておくわ」
「エルナさん」
「勘違いしないで。貸した金を回収するためよ」
扉が閉まった。モフが、足元で「ぷう」と笑うように鳴いた。
翌朝、セドリックは、ゆっくりと目を開けた。
天井の梁を見つめて、しばらく瞬きをして、それから慌てたように跳ね起きる。
「ここは」
「僕の店の二階です。丸一日、眠っていました」
寝台の脇で待っていた蓮は、湯気の立つお茶を差し出した。セドリックは受け取らず、唇を噛んで俯く。
「……迷惑を、かけました」
「いいえ」
「あなたの店を潰しに来たのは、私です。それなのに」
「倒れた人を助けるのに、理由は要りませんよ」
蓮は、淡々と答えた。セドリックは、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「眠ったのは、何年ぶりでしょうか。夢も見なかった」
「それはよかった」
「怖いんです」
セドリックの声が、かすかに震えた。
「眠るのが。眠っている間に、何かを取りこぼしてしまいそうで。教会に入ってから、ずっとそうでした。
休めば、誰かが困る。誰かが傷つく。そう教えられてきて、私も、そう信じていた」
「はい」
「でも、眠って、目が覚めたら、何も起きていなかった」
セドリックは、自分の掌を見つめた。
「世界は、私が休んでも、続いていた」
蓮は、静かに頷いた。この言葉を、前の世界の誰かに、ずっと言ってやりたかった。そして、いつか自分にも。
「教会に戻りますか?」
「戻らなければ、なりません。ですが、」
セドリックは顔を上げ、まっすぐ蓮を見た。
「報告書には、事実だけを書きます。この店が、倒れた私を介抱したと。……それが、教会に対する私の務めです」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、私のほうです」
セドリックは深く頭を下げた。そして、帰り際、壁の木札を一枚、無言で手に取った。炭で書かれた文字は、とても小さかった。
『七日後』
その日の昼、エルナは約束どおり店に来た。
昨日の鋭さはそのままに、手には新しい帳簿と、大きな紙を抱えている。
「料金表、できたわよ。見て」
広げられた紙には、整った文字でメニューが並んでいた。話聞き。掌のぬくもり。足湯とハーブ茶。眠りの間。それぞれに、価格。
「安すぎない?」
「でも、高いと、来られない人がいます」
「分かってる。だから、後払いの欄も作った。出世払いは、利子なしよ。ただし、帳簿には全部書くからね」
エルナは、紙の最後を指さした。
そこには、大きな文字で三つの掟が書かれている。
『一、触れる前に、必ず同意を得ること。
二、客はいつでも、理由なく、やめられること。
三、誰が来たか、何を話したかは、外に漏らさないこと。』
「同意は、口頭でも、木札でもいい。木札を裏返せば、その場で施術は中止。これを、全員に必ず説明するの」
「いい決まりですね」
「当たり前よ。私が書いたんだから」
エルナは、少しだけ得意げに眼鏡を押し上げた。それから、やや声を落として、付け足した。
「それともう一つ。施術師と客の、恋愛や、そういう関係は、禁止。店の掟として」
蓮は、一瞬だけ目を瞬かせた。
「……それは、僕から言おうと思っていました」
「あら。意外と、まともな男ね」
「前の仕事で、散々、考えたので」
「前の仕事?」
「あ、いえ。こっちの話です」
エルナは怪訝そうに眉を上げたが、深くは追及しなかった。紙を玄関の柱に貼り終えると、彼女は腕を組んで、満足げに眺めた。
そのとき、扉の外から、おずおずと声がした。
「あの……ここ、疲れた人でも、入っていいんですか」
振り返ると、十代後半の少女が、籠を抱えて立っていた。
少女は、リーゼと名乗った。
下町の織物工房で、見習いとして働いているという。年は十七。まだ幼さの残る顔なのに、目の下には、大人のような濃い隈が刻まれていた。靄の色は、薄い黄褐色から灰色に移りかけている。
「親方には、休むなって言われてて。でも、最近、糸を見ても何も感じなくて」
「それは、つらいですね」
「つらい、のかな。自分でも、よくわからなくて」
リーゼは、籠を抱えたまま俯いた。蓮は、ゆっくりと彼女の前にしゃがんだ。
「無理に、わからなくていいですよ。今日は、足湯だけ、してみませんか。お茶も、つけます」
「それなら……たぶん、払えます」
「後払いでも、大丈夫です」
エルナが背後で、咳払いをした。
「……利子は、つけないんですよね?」
「つけないわよ。帳簿には書くけど」
リーゼは、ほっとしたように、小さく笑った。
暖炉の前に置かれた桶に、ハーブを溶かした湯が張られた。リーゼが靴を脱ぎ、そっと足を沈める。湯気がふわりと立ち昇り、薬草の香りが広がった。
「……あったかい」
「そうでしょう」
「こんなの、初めてです。誰かに、何かしてもらうの」
リーゼの目に、じんわりと涙が浮かんだ。蓮は、足元に膝をついて、彼女のふくらはぎをそっと包む。ゆっくりと、湯の温度を移すように。
「触れても、いいですか?」
「……はい」
灰色にかすんでいた靄が、足元からほどけて、薄い黄色に変わっていく。リーゼは、湯に足をひたしたまま、静かに目を閉じた。
「親方は、悪い人じゃないんです。私を、ちゃんと育ててくれてる」
「はい」
「でも、私、本当は、休みたかったんだと思います。
休んでもいいって、誰かに言ってほしかった」
「休んでいいんですよ」
蓮は、穏やかに言った。
「あなたは、もう十分に、頑張っています」
リーゼは、声を出さずに泣いた。その肩を、蓮は静かに見守った。エルナは、少し離れた場所で、背を向けたまま、帳簿に何かを書き込んでいる。
けれど、その眼鏡の奥が、ほんの少し潤んでいるのを、蓮は見逃さなかった。
帰り際、リーゼは壁の木札に、震える字で書いた。
『あした』
「早いですね」
「だって、また、来たいので」
少女は、はにかんで、店を出ていった。その背中には、来たときよりも、ずっと軽い足取りがあった。
その夜、蓮は、玄関の柱に貼られた紙を、ひとり眺めていた。
三つの掟。料金表。壁に並んだ木札。
ロッテ、カティア、セドリック、リーゼ。わずか数日で、札は四枚に増えていた。
「眠らないの?」
背後から、エルナの声がした。帰ったと思っていたが、帳簿の整理をしていたらしい。
「もう少しだけ」
「あんた、昨日からほとんど寝てないでしょ」
「え、わかるんですか?」
「目の下が、真っ黒よ」
エルナは、腕を組んだまま、じっと蓮を見た。
「他人の疲れは見えるくせに、自分の分は見えないのね」
「……よく言われます」
「言われるなら、直しなさい」
素っ気ない言い方だった。けれど、その声は、少しだけやわらかかった。蓮は、小さく笑って、頷いた。
「はい。……努力します」
「努力じゃなくて、実行」
「はい」
エルナが帰ったあと、蓮は暖炉の火を落とし、二階へ上がった。寝台に横たわり、天井の梁を見上げる。
胸元で、モフが丸くなる。
七日後には、教会の判断が下る。もし店が閉じられれば、この札も、あの涙も、すべて消えてしまう。
けれど、怖さの隣には、静かな確信があった。
(ここは、残さなきゃいけない場所だ)
窓の外で、風が看板を揺らしている。その音を聞きながら、蓮は久しぶりに、自然と目を閉じた。
眠りに落ちる直前、遠くから、足音が聞こえた気がした。
鎧をきしませる、規則正しい足音。そして、その後ろに、もうひとつ、ひどく静かな足音。
けれど、蓮の意識は、もう夢の中に沈んでいた。
(第3話 完)




