第十章 最初に死んだ子供
玲子内親王から送られた音声メッセージが、本当に玲子本人の意思で録音されたものなのか、それとも過去の音声をつなぎ合わせ、現在の自白に見せかけたものなのか、その結論が出たのは、遥人たちが三浦の病室を離れてから二時間後のことだった。
音声は、少なくとも五つの断片から作られていた。
声紋そのものはすべて玲子と一致していたが、呼吸の間隔、背後の反響音、録音機器の周波数が部分ごとに異なり、「御厨先生を殺したのは私です」という一文でさえ、一度に話されたものではなかった。
「『御厨先生』という部分だけが、比較的新しい録音です。『殺したのは私です』は二十二年以上前、『あなたが追っている』はおよそ三年前、『冬真』という名前は半年以内に録音された可能性が高い。犯人は玲子内親王殿下の音声を長い期間にわたって集め、必要な言葉をつなぎ合わせています」
青岳記念病院の会議室で、音声解析の報告書を読み上げた坂井は、紙を机へ置くと、困惑を隠せない顔で長谷部を見た。
「つまり、玲子内親王殿下が御厨教授を殺したと自白した事実はない?」
「少なくとも、この音声だけでは自白として扱えません」
長谷部は、再生端末の画面を指で軽く叩いた。
「しかし、犯人は玲子内親王殿下の私的な会話を、二十二年前から最近まで継続的に記録できる立場にいたことになります。皇宮内での会話、療養中の発言、御厨教授との接触、どこから集めたかはわかりませんが、偶然手に入れた音声をつないだだけでは、これほど都合のよい文章は作れないでしょう」
「玲子叔母が、自分で過去の声を保管していた可能性はありませんか」
遥人が尋ねると、榊原はすぐに否定しなかった。
「玲子内親王殿下は、若い頃から私的な日記や音声記録を残しておられたと聞いています。ただし、その記録は公務関係の資料とは分けて保管され、皇宮内でも限られた者しか触れられません。誰かが継続的に盗み出していたのであれば、内部の協力者なしでは不可能です」
「あるいは、叔母本人が御厨教授か別の人物へ渡していた」
「その可能性もあります。音声が編集されているからといって、玲子内親王殿下が事件と無関係であることにはなりません」
長谷部はそこで話を切り替え、机の上に置かれていた厚い茶封筒を遥人の前へ滑らせた。
「あなたが言ったとおり、二十二年前の出生記録だけでなく、死亡記録からも調べ直しました。玲泉療養所、青岳記念病院、皇宮診療所、市役所、火葬場、それぞれに残っている記録を照合したところ、誰かが意図的に隠したとしか考えられない矛盾が見つかっています」
封筒の中には、黄ばんだ書類の複写が数枚入っていた。
最初の一枚は死亡診断書だった。
氏名欄には名前がなく、「男児」とだけ記されている。出生日時は十月十七日午前九時四十六分、死亡日時は同日午前十時五十二分。出生場所は、玲泉療養所の旧称である瑞泉離宮。医師の署名は冬木玄蔵だった。
母親の氏名欄は黒く塗り潰されている。
しかし、その横に小さく、母体識別記号Cと記されていた。
「この子供が、医療記録にあった三番目の母親から生まれた子ですか」
「そう考えるのが自然です。出産場所の略号もS・Rで一致しています。特記事項には、右肩甲骨の下に楕円形の母斑があったと書かれており、封筒のフィルムに記録された二人目の乳児の特徴と一致します」
遥人は書類を見直した。
「首に三本の傷があった子供ではないのですか」
「違います。映像の男や真壁の証言によって、我々は瑞泉離宮で生まれた子供と、首に三本の傷を持つ子供を同一だと思いかけました。しかし、原記録では別です。瑞泉離宮で生まれ、午前十時五十二分に死亡した男児には右肩の母斑があり、首の傷は記録されていない」
「では、首に傷のある乳児は、別の母親から生まれた」
「そのはずです」
三人の母親。
三つの身体的特徴。
三人の乳児。
だが、三人のうち一人は、父が旧図書館へ到着する七時間以上前に死亡していた。
「父上が三人の泣き声を聞いたという証言は、やはり作られたものだったのですね」
「孝仁親王殿下が嘘をついているのでなければ、少なくとも一つは録音された泣き声だった可能性が高いでしょう。死亡した乳児の遺体が旧図書館へ運ばれ、暗闇の中で録音を流せば、三人が生きているように思わせることはできます」
遥人は、玲子のメッセージを思い出した。
――最初に死んだ子供を探しなさい。
それは隠された三人目の生存者を探せという意味ではなかった。
最初から死んでいた子供が、なぜ生きた乳児の一人として旧図書館へ運び込まれたのか、その理由を追えという意味だったのだ。
「遺体は火葬されたのですか」
「されていません」
長谷部は、次の書類を示した。
死亡診断書が作成された二十三分後、午前十一時十五分に火葬許可申請が提出されている。申請者の氏名は冬木玄蔵。火葬予定時刻は翌日の午前九時。ところが、指定された火葬場には遺体を受け取った記録がなく、許可証も使用されないまま失効していた。
「病院から遺体が運び出された記録は?」
「あります。午後零時五十八分、青岳記念病院の搬送車が瑞泉離宮へ入り、午後一時十七分に木箱を載せて出ています。行き先は旧図書館。運転手の記録は偽名でしたが、同乗者の欄には御厨宗一郎の名が残っていました」
「午後一時二十八分に御厨教授が旧図書館へ来たという桑原さんの記録と一致する」
「ええ。御厨教授は、死亡した乳児の遺体を旧図書館へ運んだ可能性が高い」
午後一時二十八分。
それまで、御厨教授が過去の秘密を知った時刻だと思っていた。
しかし実際には、彼自身が死んだ子供を運び込み、計画の中へ入った時刻だった。
「御厨教授は被害者であるだけでなく、二十二年前の入れ替えに加担していたのですね」
「少なくとも、遺体の搬送には関わっています。本人がどこまで事情を知っていたのか、脅されていたのか、自分の意思で協力したのかは、まだ判断できません」
「だから桑原さんの手帳には、午後一時二十八分に来館した御厨助手がひどく動揺していたと書かれていた。死んだ乳児を運んだ直後だったから」
遥人は、御厨教授のことを考えた。
真相を明らかにしようとして殺された研究者。
周囲の人間を危険へ巻き込みながらも、二十二年間隠されてきた事実を世に出そうとした人物。
しかし、その正義の出発点には、自分自身が過去に犯した行為があった。
御厨教授が追っていたのは、国家の不正だけではなく、自分の罪だったのかもしれない。
「最初に死んだ子供には、名前がなかったのですか」
遥人が尋ねると、長谷部は答えず、茶封筒の一番下から、さらに薄い紙を取り出した。
それは死亡診断書の控えではなく、出生届の下書きだった。
正式に提出されたものではなく、病院側が家族の確認を得る前に作った書類らしい。父親欄には孝仁親王、母親欄は黒塗り。子供の氏名欄には、一度書かれた文字が修正液で消され、その上から「未定」と書かれていた。
光へ透かすと、消された名が薄く浮かび上がる。
冬真。
「久世冬真」
遥人が呟いた。
「真壁さんの車から見つかった偽物の識別札に書かれていた名前ですね」
長谷部は、遥人の反応を確かめるように見ていた。
「佳澄妃殿下が、生まれてくる子へつけたいと話していた名前。つまり、この死亡した乳児は、少なくとも書類を作った時点では、佳澄妃殿下が産んだ子供として扱われていた可能性があります」
「母上が実際に産んだ子供は、午前十時五十二分に亡くなっていた」
「その可能性が高い。ただし、母親の氏名欄は消されているため、まだ断定はできません」
「玲子叔母が『冬真を探すなら、最初に死んだ子供を探せ』と言ったのは、冬真という名の生存者を探せという意味ではなく、冬真という名前を与えられるはずだった死者を探せという意味だったのですね」
「そう考えれば、地下駐車場の映像に映った男は、存在しない三人目を作り出すための偽装です。犯人は、死んだ子供の名前と、別の乳児の身体的特徴、それに三浦君の顔を組み合わせ、一人の生きた男を作った」
久世冬真。
三浦と同じ顔。
左首の三本の傷。
それぞれは別々の人物に属するものだった。
犯人は三つの事実をつなぎ合わせ、存在しない一人の人物を作り、遥人たちに追わせていた。
「鏡と同じです」
遥人は言った。
「顔、傷、名前を正しい位置へ重ねれば、そこに一人の人間がいるように見える。しかし角度を変えれば、それぞれが別の層に描かれているとわかる。私たちは、犯人が作った鏡の中の人物を、三人目だと思い込んでいた」
「そうなりますね」
長谷部は頷いた。
「だが、これで三人目が存在しなかったと決まったわけではありません。死んだ冬真、皇宮へ戻された彰仁、三浦家へ預けられた直哉。この三人で数は合います。しかし医療記録には、三人の母親と三つの身体的特徴が残っている。死んだ冬真に右肩の母斑があり、映像の男が模した首の三本傷を持つ乳児が別にいたなら、残る一人の特徴は左足の穿刺痕です」
「私と三浦のどちらに、どの特徴があるか確認すれば、二人がどの記録に対応するかわかる」
遥人が言うと、榊原の表情が固くなった。
「身体的特徴だけで出生を断定することはできません。記録そのものが改竄されている可能性がありますし、同じ場所へ意図的に傷をつけることもできます」
「それでも、確認する価値はあります」
「殿下ご自身の身体について、警察へ情報を提供するには手続きが必要です」
「左足の踵を見るだけでしょう。皇嗣の踵が国家機密だとは聞いていません」
「そのような冗談で済む話ではありません。身体的特徴から出生や血縁を調べるとなれば、いずれDNA検査を求められます。結果は皇位継承へ直接影響する可能性があり、殿下お一人の判断で進めることは――」
「また、私のために知らせないほうがよいと決めるのですか」
遥人の声が思ったより強くなった。
榊原は黙り込んだ。
遥人も、自分が榊原を責めるために父と同じ言葉を持ち出したことへ気づき、すぐに続けた。
「すみません。あなたが私を守ろうとしていることはわかっています。ただ、私の身体にあるものを、私だけが知らないままにされることには耐えられません」
「私も、隠すべきだと申し上げているのではありません。結果が出たあと、殿下が一人で受け止めることにならないよう、順序を整えるべきだと言っているのです」
「では、順序を整えてください。私は調べます」
榊原は長く息を吐いたあと、反対する言葉を飲み込むように頷いた。
その時、会議室の扉が開き、病院の医師とともに孝仁親王が入ってきた。
父は一睡もしていないような顔をしていた。
「彰仁、佳澄から話を聞いた」
その一言だけで、遥人は母が二十二年前のことを知っていたのだと理解した。
「母上は、冬真が亡くなったことを知っていたのですか」
「知っていた。ただし、自分が産んだ子だとは思っていなかった」
父は、机の上にある死亡診断書を見た。
「佳澄は十月十七日の一週間前、瑞泉離宮で男児を出産した。子供は生まれた直後には元気だったが、翌日から呼吸が弱くなり、冬木医師から、長くは生きられないと告げられたそうだ。その後、佳澄は薬で眠らされ、目を覚ました時には、子供は別の療養施設へ移したと説明された」
「一週間前?」
長谷部が聞き返した。
「死亡診断書の出生日時は、十月十七日午前九時四十六分です」
「偽りだ。佳澄が出産したのは十月十日。だから桑原の手帳に、二人の子供は同じ日に生まれたのではなく、一人は三日前、一人は四日後と書かれていたのだろう。基準とされた十月十四日から見れば、十月十日は四日前、十月十七日は三日後になる」
三浦直哉の誕生日は十月十四日。
佳澄妃が冬真を産んだのは、その四日前。
そして十月十七日に生まれた別の子供がいる。
「公表された私の誕生日は十月十七日です。しかし、母上の子供は十月十日に生まれていた。ならば、十月十七日に本当に生まれた子供は誰なのですか」
父は答える前に、遥人の顔を見た。
そこには、父親として真実を話したい気持ちと、皇族として口にすべきでないという習慣が、まだ争っていた。
「佳澄によれば、十月十七日の朝、瑞泉離宮へ玲子が運び込まれた。腹部から出血し、意識を失っていたが、その日の午前九時四十六分に、緊急手術で男児を出産したと聞かされたそうだ」
死亡診断書に記された出生時刻。
十月十七日午前九時四十六分。
それは死んだ冬真の出生時刻ではなく、玲子内親王が産んだ子供の出生時刻だった可能性がある。
「では、この死亡診断書は、母上の子供の死と、玲子叔母の子供の出生を、一枚の書類へ重ねたものなのですか」
「おそらく。午前十時五十二分に亡くなったのは佳澄の子で、午前九時四十六分に生まれたのは玲子の子。冬木は二人の記録を組み合わせ、一人の乳児が生まれて一時間後に死亡したように見せかけた」
死んだ子供と、生まれた子供。
二人の人生が、一枚の死亡診断書の中で一人にされていた。
そのため、佳澄妃が産んだ冬真は正式に死亡した記録を持たず、玲子内親王が産んだ子供は、出生した瞬間に死んだことにされた。
「玲子叔母の子供は、生きていたのですか」
「佳澄が聞いた限りでは、生きていた。しかし、誰が父親なのか、なぜ出産そのものを隠す必要があったのか、玲子は話さなかったそうだ」
遥人は、三人の母親を頭の中へ置いた。
佳澄妃。
水城美弥子。
玲子内親王。
佳澄の子は十月十日に生まれ、十月十七日午前十時五十二分に死亡した。
三浦は十月十四日に生まれている。
玲子の子は十月十七日午前九時四十六分に生まれた。
日付は、桑原の手帳と一致する。
一人は四日前。
一人は三日後。
基準となる十月十四日に生まれたのは三浦。
「つまり、旧図書館に運ばれたのは、死亡した冬真、十月十四日に生まれた三浦、そして十月十七日に生まれた玲子叔母の子供だった可能性があります」
「そうなる」
父が答えた。
「では、私は誰なのですか」
遥人が問いかけると、父は目を逸らさなかった。
「その三人のうち、皇宮へ連れ帰った一人だ。それ以上は、今の私には言えない」
「誰からも選ばれなかったから皇嗣になった、という叔母の言葉は、どういう意味なのでしょう」
長谷部が死亡診断書を見ながら言った。
「佳澄妃殿下の子である冬真は、すでに死亡していた。水城美弥子は、自分が産んだと信じる子供を選び、三浦家へ連れていった。玲子内親王殿下、あるいは別の人物は、玲子殿下の子を皇宮から遠ざけようとした。その選択のあと、旧図書館に残された一人を孝仁親王殿下が皇宮へ連れ帰った」
「父上が私を選んだのでは?」
「孝仁親王殿下は、あなたが誰かを知らず、足元に置かれていたから抱き上げた。血筋や母親を理由に選んだのではない。犯人、あるいは玲子内親王殿下は、それを『誰からも選ばれなかった』と表現したのかもしれません」
選ばれなかった。
その言葉を、遥人は見捨てられたという意味で受け取っていた。
だが、選ばれなかったからこそ、誰かの計画どおりの人間にならずに済んだとも考えられる。
佳澄の子として選ばれたのでもない。
美弥子の子として選ばれたのでもない。
玲子の子として隠されたのでもない。
身元のわからないまま、父の足元へ残され、皇宮へ連れ帰られた。
それが彰仁親王だった。
会議室の電話が鳴った。
長谷部が受話器を取り、数度短く応答したあと、顔を上げた。
「桑原澄江の容体が安定し、短時間なら話せるそうです。ただし、本人が最初に会いたいと求めているのは、警察でも彰仁親王殿下でもありません」
「誰ですか」
「佳澄妃殿下です」
父の表情が変わった。
「桑原さんは、佳澄に何を話すつもりなのだ」
「本人は、こう言っているそうです」
長谷部は、受話器の向こうから伝えられた言葉を、そのまま繰り返した。
「『あなたが抱いた子供は、旧図書館から来た子ではない』」
遥人は、意味を理解するまで数秒かかった。
父は、旧図書館から一人の乳児を皇宮へ連れ帰り、佳澄妃へ渡したと証言している。
しかし桑原の言葉が事実なら、佳澄妃が母として抱いた子供は、途中でさらに入れ替えられていた。
旧図書館での選択が、最後ではなかった。
父が皇宮へ戻るまでの車内か、搬入口か、療養室で、もう一度、子供が替えられている。
彰仁親王という名を与えられたのは、旧図書館にいた三人のうちの誰でもない可能性が生まれた。




