4−5 追跡
成田空港の出発ロビーは、夏休みということもあり、多くの人で賑わっていた。旅行者に紛れながら、憶俊となんとかチェックインを済ますことが出来た。まず台湾へ、その後バチカンに行く。追跡を逃れるために憶俊が考えたルートだった。
成田までは憶俊のいう通り、何もなく順調にこれた。あんな事があったから不安だったけど、憶俊がずっと手を握ってくれていた。
当面の資金を新たに作ったプリペイドクレジットカードにチャージしていた。すでに持っているカード類は使うと追跡される恐れがある。スマホも電源を切ったままだ。台湾で新たに国際スマホを契約する予定だった。
フライトボードが目まぐるしく動く。台湾行きの飛行機出発まで、後二時間ぐらい。
ロビー内を行き交う人、人、人……。
後悔はしていない。憶俊と一緒なのだから。
「憶俊、デッキに出てきていい? 外が見たくて」
この目に、自分の国を焼き付けておきたかった。もう見ることのできなくなる風景を。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、ごめんね。
私、この国を捨てるね。
お墓参りにいけなくなっちゃうけど、許してくれる?
そっちに行ったら、いっぱい謝るから。
西の空に向かって手を合わせた。涙を止めることができない。
お父さんが亡くなった時、喪失感から泣くこともできなかった。
孤独で、世界にひとりぼっちだった。でも、今は違う。
憶俊がいる。一人じゃない。もう泣いてもいい。
「憶俊、ありがとう。もう大丈夫……行こうか」
目尻の涙を拭うと、彼は私を強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「美里さん、悲しい?」
「ううん、大丈夫。憶俊がいるから、私、泣くことができているの。一人の時は涙も出なかったから。だから……」
彼の胸に顔を押し付けて、声を上げて泣いた。そして泣き止むまでの間、優しく髪を撫でてくれていた。
(大丈夫。これで最後)
「ありがとう、もう大丈夫……」
「美里さん……」
憶俊が、いつもの真っ直ぐな目で私を見てくる。
大丈夫、憶俊と一緒なら、世界のどこに行っても泣ける。泣き止むまで待っててくれる人がそばにいるから。
憶俊がポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待ってて。最後にやることが」
と言って、デッキの端に行って、なにやらスマホを操作していた。
あれ? 追跡の恐れがあるからって、電源を切ってSIMカードも抜いていたんじゃなかったっけ? 今スマホを操作しちゃって大丈夫なのかな?
でも、憶俊のことだから、大丈夫なんだろう。なんと言っても、彼はスパイなのだから。何か追跡されないような方法があるのだろう。
そんなことを考えながら、デッキの端の憶俊をぼんやりと眺めていた。その間を、小さい子供を連れた家族連れや、幸せそうなカップルが通り過ぎていった。
空港のアナウンスがとても遠くに聞こえた。
いつのまにか、デッキの出入り口は大勢の人が行き交うようになっていた。手を繋いで、その人たちを避けるようにデッキから降りて出国ロビーに向かう。
「まだ時間がありますね。ギリギリに行ったほうが良いです。あと、これも外さないと」
憶俊が自分の顔を指差していった。
「あ、そうだね。パスポートと顔違うしね……」
「すこし、あそこで時間を取って……あそこなら、監視カメラはないです」
憶俊が指さした先にはシャワールームの表示があった。
◇◇◇◇◇
目まぐるしく変わる案内表示と、人の波。出国手続きのゲートには、長い行列ができていた。出張に行くビジネスマン風、帰国する外国人、家族連れもいる。探知機のところで止められて、ポケットの中を出させられている人もいる。
私たちは体ひとつで来たので荷物は手元のバッグ一つ。憶俊と手を繋いで手荷物検査の行列に向かう。かなりの列だが、ゲート自体は複数開いているので、すぐに通過できるだろう。憶俊の指に絡めて握る手の温もりが優しい。
これから未知の世界に旅立つ。だが、不安は一切無かった。だって私の愛する人、憶俊が一緒なのだから、怖いものなんてなにもない。むしろ憶俊を失うことのほうが恐怖だった。
ふっと憶俊の顔を見上げる。すると優しい眼差しで見返してきてくれる。
「美里さん、心配ですか?」
心の奥底に僅かに残る影を振り払うように、首を左右に振る。
「ううん、憶俊が一緒だから心配なことなんてなにもないよ」
あなたがいなくなっちゃうことだけが心配……。
「憶俊、台湾に着いたらなにか美味しいもの食べようか? たしか映画の舞台になったところがあったよね?」
「九份ですね。ジブリの『千と千尋の神隠し』の」
「そうそう、そこに行けるかな?」
「ちょっと時間的に難しいと思いますけど、行けたら行きたいですね」
「憶俊、楽しみだね。まるで……」
まるで新婚旅行みたい……。
その言葉を飲み込んで行列の最後尾に並んだ。ふと隣に立つ旅行者に違和感を覚える。
ビジネスマン?……それにしては妙な威圧感がある。顔を見ると、メガネを掛けたその奥の目はまっすぐに前を睨みつけるようで、耳は潰れていた。
手ぶら? 両手になにも持っておらず、片方の手はポケットの中だ。
耳にイヤホンのようなものを差している。片耳だけ。
出国ゲートに並んでいるのに、パスポートも手に持っていない。手にスマホを持っているが、それを注視しているというわけでもない。ただ、じっと「何か」を待っているような。
自分自身のパスポートを手に持っている。そして、憶俊は偽造された日本のパスポートを手に握りしめている。もちろん名前は日本人名だ。その手にじわりと汗がにじみ出てくる感触を覚えた。
……何かおかしい。
憶俊の腕を強く掴んでいた。憶俊と、その男の間に自分の身体を押し込めるように。
その時、隣の男の手からスマホが落ちた。その乾いた音が妙に耳に響く。危険を知らせる警報のようだった。そのスマホは床を滑るようにして、憶俊の足元に転がってくる。その光景がスローモーションのように見えた。スマホの画面にはデジタル時計で09:51を示しているのが目に飛び込んでくる。
……だめ!
全身の皮膚が逆立つような感覚を覚えた。
憶俊がそれを拾い上げて、男に渡そうとした時、男はスマホではなく憶俊の腕を掴んだ。
「李憶俊だな?」
その瞬間、憶俊を掴んでいる男に体当たりをしていた。
「憶俊!」
しかし男はびくともしなかった。その男の体を両手で必死に掴んだ!
「逃げて!」
だが、いつのまにか私と憶俊は背広を着た男たちに囲まれていた。
逃げられない……。
憶俊が、そばの男に掴み掛かり、投げ飛ばしたかと思ったら、私の体を抱きかかえて、ジリジリと下がりながら叫んだ。
「下がれ! 近づくな! こいつを殺すぞ!」
男たちの一人が「銃を取られた……」と苦々しく言っているのが聞こえた。
首に何か冷たいものが当たる感触があった。これは銃?
男たちが、一斉に銃口をこちらに向ける。
その一人に見覚えがあった。ショッピングモールで話しかけてきた男だ。
……国家情報局!
憶俊が、私を背後から強く抱きすくめ、ジリジリと下がっていく。
「李憶俊! もう逃げられないぞ! 諦めて投降しろ!」
いくつもの銃口が、こちらに向けられている。いち、に……。
もうおしまいだ。逃げられない。
でも、あなたと死ねるなら。憶俊に撃たれるなら。
あなたのいない世界なんて興味ない。あなたと一緒に居たい。
憶俊の腕を握った。自分の手が驚くほど冷たくなっているのがわかる。
怖い……足がガクガクと震えて止まらない。平気なはずなのに、覚悟を決めたはずなのに。
あなたと一緒なら、怖くないはずなのに。
怖い……怖くてたまらない……。
思わず目を瞑って悲鳴を必死で堪えていた。「助けて」そんな言葉が口からもれないように、力いっぱい歯を食いしばる。ちょっとでも緩めたら声が漏れてしまいそうだった。
「……美里さん」
憶俊の口元が、耳のそばに近づいてきた。恐怖に痙攣する体に、不思議な落ち着きを与えてくれる言葉だった。
「……」
え?
次の瞬間、体が突き飛ばされ床に倒れていた。何が起こったのか分からなかった。
冷たい床に突っ伏して、ただ視界の隅で憶俊の姿を追っていた。
憶俊が、なにかを叫びながらゆっくりと銃口を私に向ける。
なにを言っているのかわからなかった。大きな口を開けて必死で叫んでいる。ただその目は、いつものやさしい憶俊だった。
ふっと憶俊が微笑んだように見えた。あの空港のデッキで見たような、あるいは腕の中で目覚めた時にやさしく髪を撫でてくれる時の、慈しみに満ちた優しい微笑み……
次の瞬間、誰かが私の体に覆い被さってきた。そして憶俊の体が大きく揺らぎ、まるでダンスでもしているかのように左右にくるくると回った。手に持った銃を離すことはせず、銃口を男たちに向けたその時、ぐらりと頭が大きく傾き、スローモーションのように憶俊の体が床に崩れ落ちていった。まるで糸の切れた人形のように。
男たちが憶俊と私に駆け寄ってくる。
何かを叫んでいるようだが、私には何も聞こえなかった。
男たちに腕を背中に回されて、床に押さえつけられて、それでも目だけは憶俊の姿を追っていた。大勢の男たちの影になって、隙間から手と足先だけが見える。
映画のワンシーンを見ているかのように床に押し付けられながらその光景を見ていた。音もない、色もない。
声も涙も出なかった。
あるのは静寂とモノクロの世界……。
<つづく>




