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81(エイティーワン)  作者: 雨後乃筍
3章 臨界点

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3−9 失敗

 一息吐こうと、コーヒーを取りに立ち上がりかけた時、またしても分室の電話が鳴った。


あずまさん、自ら隊からです。逃げられました。女の家はもぬけの空です」


 小倉おぐらの言葉に絶句した。


「なんだって!? もぬけの空だと?」


「はい、ただ荷物をまとめたような形跡はないです。自ら隊が張り込んでいたようですが、戻ってくる形跡はないようです。周辺も捜索したようですが見つかっていません。おそらく……」


「こっちの動きが読まれたのか……?」


「わかりませんが……我々もさっき動いたばかりですからね」


「もしかして、中国軍の工作員が!?」


「可能性は十分にあります。ただ部屋が荒らされた形跡はない様ですので、アッチもまだなんじゃないですか?」


(まだ捕まってないなら……)


小倉おぐら! 緊急だ! 牛久から考えられる交通拠点に警戒監視体制を! あと拠点の監視カメラ映像を集めてくれ! Nシステムもだ!」


 作戦が失敗に終わって、利用価値のなくなった兵器を中国はどうするのか。国家機密の塊のような兵器を。それを嫌というほど知っていた。


 証拠隠滅。


 脳裏に、李憶俊リ・イージュンと、女、田中美里たなかみさとの顔が浮かんでいた。ショッピングモールで、幸せそうにワインを選んでいた田中美里たなかみさとの顔が。


 そして、留学生A、恋人Bと父親Cの末路……。


 自分がヤツなら、どういうルートを選択する? 牛久から移動するルート……作戦が失敗した時に取る行動……李憶俊リ・イージュン田中美里たなかみさと……。


 失敗した以上、中国軍は李憶俊リ・イージュンを生かしておかないだろう。そして田中美里たなかみさとも……。


 上着を掴んで駆け出す。


小倉おぐら! ここを頼む! 情報が入ったら送ってくれ!」


あずまさん、どこへ?」


 問いかけには答えず廊下を走り抜け、外に待機していた国家情報局捜査官用の車に飛び乗った。


 エンジンをスタートさせると、僅かな振動とともに車はスロープから走り去る。


 するとコンソールに設置された専用電話が鳴った。


あずまさん、どこへ向かっているんです?」


「成田だ!」


「成田? 空港ですか?」


「牛久からなら一時間以内で行ける、二人はそこに向かっている可能性が高い!」


「工作員なら中国のフロント企業に逃げ込むんじゃないですか? いま捜査員をそっちに配置していますが」


「わからん。だがここ数ヶ月二人を見ていて、そんな気がするんだ」


「元刑事の勘ってやつですか?」


 決して腐すわけでもなく、小倉おぐらが真面目な顔をして問いかけてきた。あずまが警察からの転入組だと知っている。


「違う、二人の絆だ。そう思わせるものが二人にはある!」


「ヤツは工作員ですよ?」


「外れたら、笑ってくれ! とにかく俺は成田に向かう」


「俺も行きましょうか?」


「いや、交通経路の監視カメラを追ってくれ。もし二人のどちらかを見つけたら教えてくれ! 別行動している可能性が高い」


「わかりました。念のため成田の分室に連絡を取っておきます」


「すまない、助かる」


 高速に乗り、アクセルを踏み込んでいた。


(頼む! 間にあってくれ! いや! 間にあわせる! もう後悔しないために!)


 高速で外環に乗ったころ、再度、小倉おぐらからコールが入った。


あずまさん、見つけました」


「早いな! 確かか?」


「はい、間違いないです。二人で我孫子駅にいるところが確認できました」


「二人で我孫子駅だと? なんでわざわざ人目につくような駅を二人で? 車を使うか別行動の方が見つかりにくいのに?」


「理由まではわかりません。それはあずまさんが捕まえてから聞いてください」


(こいつ……言うな)


「二人ともそこから成田線に乗りました」


「よし、捜査員を数名成田に配置してくれ。下手をすると二人とも消される」


「もう手配済みです。あと各停車駅の監視カメラも押さえてあります。途中下車したらわかりますよ」


「流石だな。あと捜査員は全員銃の携帯を忘れるな」


 よし、掴んだぞ! あとは無事に保護するだけだ!


 車のハンドルを強く握り直す。しかし、直ぐにスピードダウンせざるを得なかった。


「くそっ!」


 ハンドルに拳を強く叩きつけた。目の前に車の赤いテールランプが延々と連なっている。


「……こんな時に渋滞なんて」

 そう言えば、小倉おぐらが、各所で騒ぎが起きていると言っていたな。これもヤツらの撹乱の一つか。


「パトカーにしとけばよかった……」


 一人、車内で呟く。もちろん渋滞ではパトカーでも無理なことは分かっている。行き場のない苛立ちを抑えきれず、何度もハンドルに拳を叩きつけた。


 すると、またしても、コンソールの専用電話が無機質な音を立てて鳴った。


「はい、あずまです」


小倉おぐらから聞いたぞ、今どこだ?」


 上司の所沢ところざわだった。


「高速道路です。外環で渋滞にハマりました……」


「ちょうどいい、引き返せ」


 何を言われているのかわからなかった。


「……すいません。音声が不明瞭です。もう一度お願いします」


「……引き返せ。余計な深追いはするな」


 あまりのことに、次の言葉が出てこなかった。


「なぜ……手を引けってことですか? ここまで来ておいて……」


「どうやら向こうの組織もあの二人を追っているようだ。ぶつかるぞ?」


「しかし……」


「こちらの監視が弱まれば、向こうの組織が動きやすくなる。動いてくれればヤツらの組織への捜査の理由になる」


「……それは、二人を餌にするということですか? 見殺しにしろと?」


「……もともと工作員だ……もう死んでいるようなものだ。逃亡した工作員がどうなるか知っているだろう?」


「……そうです! このまま行けば、向こうに取られます。最悪は消されます」


「向こうの中で完結してくれる分には影響はない。逆にウチとぶつかったと分かれば、こっちの動きを向こうにさらけ出すことになる。メディアが騒ぐかもしれん」


 確かに、国家情報局が公的な組織だとしても、街中で騒ぎを起こせばバッシングは避けられない。しかし……


 眼の前が歪むような感覚を覚えた。怒りなのか、無常観なのかわからない。

 脳裏に、過去の記憶がフラッシュバックする。暗殺されたであろう留学生A、自殺した交際相手のBとその父親C。一家離散、一つの家庭の崩壊。


 あのとき味わった屈辱、無力感、そして自分がこの道に足を踏み入れたときの決意。


 田中美里たなかみさと李憶俊リ・イージュンを、ここ数ヶ月にわたってマークしていた。最初は李憶俊リ・イージュンを中国の工作員として追跡し、田中美里たなかみさとはその手にまんまと引っかかってしまった哀れな女性として見ていた。

 しかし、数ヶ月二人をマークしている内に自分でも理解できない感情が芽生えていた。


 駅で李憶俊リ・イージュンを待つ楽しそうな顔をした田中美里たなかみさと

 夜の公園で、無茶苦茶なダンスをする二人。

 牛久の祭りで子どものように無邪気にはしゃぐ二人。

 ショッピングモールで、幸せそうにワインを吟味する田中美里たなかみさと


 まるで年の離れた弟夫婦の幸せなシーンを見ているような感覚。


 二人の間に子供ができて、甥か姪ができるのを楽しみにしている伯父のような気持ち。


 これが李憶俊リ・イージュンの作戦であることはわかりきっていた。


 しかし、二人を見ていると、それ以上の何かを感じていた。普通の恋愛をしている男女。幸せそうな二人。もっと見ていたい。見守っていたい。


「……まだ生きています」

 自分の爆発しそうな感情を押し殺して、呟いた。


「なんだ? よく聞こえないぞ」


「まだ二人は生きています! 二人で生きようとしています!」


「……あずま、お前はなんだ?」


「……」


「お前、自分が国家情報局の職員であることを忘れたのか?」


「……」


「それは一般人の感覚だ。だが俺達には邪魔な感覚だ。俺達は時に非情にならなければならないシーンがある。それを思い出せ」


 拳を握りハンドルに叩きつけてクラクションが短く鳴った。後続のトラックからけたたましい応酬を受ける。知らず知らずにアクセルを緩めていた。

「……行かせてください」


「……無駄だと言っただろう。あの時と同じだ」


「……だからです! だからこそ! 俺は……俺は……あの時のことを後悔しています! あの時……もっと動けていたら、せめて婚約者のBを救えたかもしれない……」


「……それは、何の役にも立たない後悔だ。あの時の状況では、どうやっても救えなかった」


「……逃がしはしません! 日本の刑罰を受けてもらいます。だから……」


 長い沈黙が専用電話から流れた。車線の一番左に車を寄せ、葛藤していた。このまま成田に向かえば命令違反だ。しかし、命令に違反してでも、あの二人を捕まえなければならない。


 意を決して専用電話のスイッチを切ろうと手を伸ばした時、受話器の奥から所沢ところざわの声が響いてきた。


あずま……おまえ有給余っていたな?」


 所沢ところざわからの予想外の声が耳に入ってきた。


「え?」


「今日は有給を取れ。あとで承認しておく。ちゃんと有給届を出せよ?」


「……部長、それはいったい?」


「忘れたのか? 国家情報局職員規則、第三条。職員は常に国家情報局の職員であることを自覚し、国民のために誠意を尽くすこと。そのためには業務時間外での国家情報局の装備の使用も許可される。もちろん上司の命令の上だがな」


「……」


「部下の休暇中の行動まで制限できん。ただ休暇中と言えども、いまは緊迫状態だ。いつ何が起こっても良いように装備を携帯しておけ」


「ありがとうございます!」


「礼はいい。それより成田に行くんなら、分室の連中に顔出しておけよ?菓子折りでも持ってな。俺から言っておく」


「はい!」


「あとな、高速は次で降りろ。あと数十メートルで出口がある。あとは小倉おぐらにでもナビさせろ。その車にはGPSが付いているからな」


 ハンドルを側道に向けて、再度アクセルを強く踏み込む。インターの出口表示が緑色に輝いていた。


 <つづく>


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