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81(エイティーワン)  作者: 雨後乃筍
3章 臨界点

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3−7 逃走

 部屋のチャイムが何度も鳴り響いていた。


 そして激しく戸を叩く音。ドンドンという鈍い音が、チャイムに代わって部屋の中に響いてくる。


 ドアの外から「田中たなかさん、ちょっといいですか?」と呼びかける声が聞こえてくる。


 やがて、それにも反応がないと分かると、ガチャガチャと鍵をいじる音が聞こえ、バンッとドアが開き、何人もの男が土足で部屋になだれ込んできた。男たちの土足の足が、部屋の中を蹂躙していく。バタバタと動き回る黒い足。


 その様子を憶俊イージュンのスマホ越しに眺める。部屋を出る時に設置したネットワークカメラの映像だった。


「日本の警察。美里みさとさんの部屋まで来たね」


 ついさっきまでいた部屋が、警察に荒らされていくのを呆然と見ていた。


 まさに間一髪だった。


 憶俊イージュンのアドバイスで、持ち物は動きやすいように最小限。私も憶俊イージュンも中ぐらいの手持ちカバン一つだけ。携帯も追跡される恐れがあるから電源をOFFにして、SIMカードも抜いている。駅前のカラオケボックスで合流して、タクシーで成田に向かう予定だった。


「もう部屋に戻れないね……」

 なんとも言えない寂しさを覚えて、呟く。


「ごめん、僕のせいで」


「ううん、憶俊イージュンのせいじゃないよ。これは自分で決めたこと。それに……」


 こんな状況なのに、笑いが漏れた。


美里みさとさん、どうしたの?」


憶俊イージュンと初めてキスしたのも、カラオケボックスだったね……」


 そう言うと、憶俊イージュンに抱きついてキスをした。


憶俊イージュンと一緒だったらどこでもいい」


 クレジットカードは使えないかもしれないから、下ろせるだけの現金を用意した。とりあえず普通口座から百万の現金。ATMの出金制限があるから、これが目一杯。税関で引っかかるんじゃっていったけど、日本のパスポートがあれば、まず疑われないらしい。


「残りは、安全が確認できたら」


今はインターネットバンキングを使えば、世界中から送金が可能になっている。また、滞在先でキャッシュレスに変換する方法もあると言う。


「ビットコインが安全ですけど、今は色々な決済方法があるから」


つまりは、滞在先での利用可能なキャッシュレス決済を使うのが、追跡されにくいと言う話だった。


「そろそろ移動しましょう。ここからタクシーで2万円ぐらいですね。念の為、途中で乗り換えます」


「途中で乗り換えるの?」


「はい、念の為。どこに向かうかは隠せないですが、わかりやすい痕跡を残す必要もないですからね」


憶俊イージュンがスマホの電源を切って、私の手を取って立ち上がった。


 タクシーアプリが使えないから、表通りを走っているタクシーを捕まえて、成田空港の近くの駅名を伝え「高速を使って下さい」と短く告げた。シートベルトのカチャッという音を聞いて、やっとひと息つける。


 あれから憶俊イージュンは、どこかに出かけたと思ったら、自分の日本のパスポートと現金を持って帰ってきた。パスポート名は何の変哲もない日本人名になっている。ちかくのコインロッカーにしまっておいたらしい。


 妙に感心してしまった。こんなものまで用意するなんて……やっぱり憶俊イージュンってスパイなんだね。


 それからはバタバタだった。


 憶俊イージュンの指示で、1日分の着替え、現金、パスポートを持った。クレジットカードは原則使えないから、現地でプリペイドクレジットカードを購入するとのことだった。それであれば追跡されないらしい。


 航空券は、どこから用意したのか憶俊イージュンが持っていた。


 これで成田まで行けるので、まずは一安心。緊張の糸が切れたみたいに、タクシーの窓から外を眺めていた。見慣れた牛久の街並み、遠くに大仏様のシルエットが見える。ここで何年生活してきたのだろう? 十年はたっていないが、それでも長年慣れ親しんだ街だった。


 もうここには戻れないんだね。


 例えようもない寂しさを覚えたが、すぐに打ち消した。これは憶俊イージュンと生きていくために必要な行為。牛久阿見ICから高速に乗ってしまえば、あとはノンストップで成田空港まで行ける……。


 ……タクシーが小さく揺れて、その振動で目を覚ました。ついウトウトしてしまっていたらしい。今どの辺だろう?

 スマホを取り出して位置を確認しようと思ったが、追跡防止の為に電源を切っていた事を思い出した。


 助手席に付けられたモニターからはサプリのCMが流れている。横の時計表示を見ると、寝ていた時間は二十分程度だろうか。


 まだ高速に乗っていない? ウチから高速まで二十分もかからないはずだけど……。


 窓から外を眺める。


 妙に閑散としている風景……工場と畑と住宅がポツポツ……こんな道通ったっけ?


「運転手さん? 高速乗らないんですか?」


「あーなんか渋滞しているみたいですね。途中まで下道で行きますね」


「そうなんですね……」


 急いで成田まで行きたいがしょうがない。


 再び窓の外に目をやり、憶俊イージュンの手を握ろうとした。


 だが、憶俊イージュンの手はシートの上にはなく、助手席の背もたれを掴んで、険しい顔を前方に向けていた。いつのまにかシートベルトを外している。


 そして、信号でスピードを落とした時に、憶俊イージュンが運転席を激しく蹴飛ばした。


 すると運転手は振り返り銃のようなものを憶俊イージュンに向けてくる。その手を掴んで捻り上げ、ミシッと鈍い音が聞こえて、運転手のうめき声が響いてきた。

 コントロールを失ったタクシーがガードレールをこすり、ものすごい音を立てて止まる。


 憶俊イージュンは、運転手の腕を掴んで、銃のようなものを奪い取ると、運転手に向けて発砲した。


 思わず目を瞑った。


 ただ、銃声は聞こえなかった。代わりにジジジジッという電気のスパーク音が聞こえてきた。


 みると運転手は痙攣しながら運転席に横たわっていた。


憶俊イージュン、これは?」


「テーザー銃、大丈夫、気絶しているだけ」


「この人はいったい……?」


「僕の組織の人間、僕の体の発信機を追ってきたんだと思う」


「え? 追ってきたの?」


「まだ逃げることがバレたわけではないと思うけど……監視みたいなもの。でも、それも時間の問題」


「え? そんな……どうしよう……」


「人目の少ない場所はダメ。これがバレたらまた狙われる。電車で移動します。そろそろ始発が動き出します。人目があれば簡単に手出しできない。できるだけ早く人目のある場所に行きましょう」


「人目が多いって、逆に危なくないの?」


「大丈夫。僕の組織は目立つことはできない。むしろ人目につかない場所のほうが危ない。木を隠すなら森の中です」


「でも警察とか……」


「今は、警察より組織の方が危険です。それに警察の目の届くところであれば、彼らが組織の防波堤になってくれます、それに……」


 憶俊イージュンはニコッと笑った。


「日本の警察だったら、逃げる手段はいくらでもありますよ」


 そう言うと憶俊イージュンは、カバンの中から何かを取り出した。ストッキングのような薄い袋状の布を取り出した。


「これは?」


「変装する、こうして……」


 おもむろに憶俊イージュンが、その袋状の布を頭からかぶると、全く別人の顔が現れた。


「凄い、本当の顔みたい」


「これ、呼吸もできるし目も見える。顔だけ別人になる。ただ、頭の形と、横から見るとバレちゃうからこうして……」


 憶俊イージュンはパーカーのフードを被った。すると全く違和感がなくなった。


「だから、私にパーカー着て来いって言ったのね!」


 憶俊イージュンと手を取り、一緒にタクシーから降りた。


「近くで喋ったりするとバレてしまいます。できるだけ注目を集めない方がいいです。そのためには、人が周りにいた方が都合がいいんです」

……確かに、喋ってりしなければ、全く違和感がない。


「ねえ、現地で合流したほうがよくない? だって憶俊イージュンだけだったら簡単に逃げられるでしょう? だったら私は普通の日本人だし、問題ないだろうし」


「それはダメ。美里みさとさんが組織に捕まるかもしれない。二人で別行動をする方が不自然で目立ちます。大丈夫、僕が美里みさとさんを守ります! 命を掛けて!」


憶俊イージュン、そんな事言わないで、二人一緒に逃げるの! 私だけなんてダメ!」


「そうですね。二人一緒!」


憶俊イージュンに手を握られると、不思議な安心感があった。こんな緊迫した状況なのに。


「さあ、行きましょう。まずは我孫子駅へ」


朝日が早くも熱を持った光で街を照らしていたが、住宅街は静まり返っていた。


 <つづく>


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