3−2 予兆
水面の揺らぎをかき消すように、遠野はブハッと水から顔を上げて、時計を見た。
13時40分。
「そろそろ上がるか」
遅いランチタイムを利用して約三十分、発電所併設のプールで泳ぐのが遠野の日課だった。健康的だし、気分転換になる。前は習慣的に飲酒をしていたが、泳ぐようになってから寝付きが良くなり、酒量も減っていた。
発電所には、発生したエネルギーを利用した温水プールが併設してある。
今日は世界で初めて原子力が兵器として使用された日だ。原子力発電所では、慣例的に朝、黙祷を捧げる。世界で最も悲惨な使われ方をした原子力が、今は人々に明るさと平和を届けてくれる。
温水プールは地域の住民も利用可能だが、交通の便があまり良くないのか、特に平日の昼時は数える程度しか利用者がいない。おかげで、プールのコースをほぼ独占し、のびのびと自分のペースで泳げるのがありがたかった。ゴミゴミしたプールで、人に気を遣って泳ぐのでは却ってストレスがたまる。
プールから上がり、カフェテリアで日替わり定食を頼んだ。今日の日替わりはサバの干物定食だった。海が近いせいか、このカフェテリアの魚料理は美味い。特に軽く運動した後の飯は格別だ。
食事を終えて制御センターに戻り、今日の予定を確認する。
報告書をまとめて、明日以降の人員の確認、メンテナンスの予定。
今日も定時上がりできそうだ。しばらく事務仕事に没頭していたが、何か違和感を覚えた。
空気が乱れている?
モニターに目をやると、いつものようにオールグリーンが点灯している。
異常はない。外観を撮影している監視カメラも穏やかな風景を映している。
空気の乱れを不思議に思いながら席に座ると、オペレーターの一人が話しかけてきた。山岸という十年目のベテランだ。確か最近子供ができたとか。
彼も定時に上がれるようにしないとな。
「主任、よろしいですか?」
「山岸さん、もちろんです」
「コンソールパネルが動かなくて」
「動かない? 故障ですか?」
「そうだと思うのですが、他のオペレーターのも動かなくて、主任のはどうですか?」
手元のタッチパネルを操作して、詳細な数値を確認する。各数値の推移も安定していて急激な変化もない。
「どこもおかしいところはないようですが?」
「操作画面に入ってみてください」
操作画面は、実際に人間の意思で原子力発電所の機能を操作できる画面だ。通常は自動運転なので使うことは滅多にない。操作画面に入ると、何も表示されず、黒い画面が広がっているだけだった。
操作パネルが表示されるはずだが……。
「おかしいですね」
操作ができないからといって、今すぐ何か問題が起こるということではない。だが……。
「二系統の内、片側を再起動してみましょう」
制御システムは、すべて二重化されており、片側の再起動はメンテナンスなどで日常的に行なっている。何か異常があれば再起動で復旧することもよくある話だ。
再起動後、再び操作画面を開くと、今度は色とりどりのアイコンが表示された。
よかった。一時的なシステムフリーズか何かか。こんなことでも、事故記録を作らないとな。やれやれまた事務仕事が増えた。
「主任、またです」
山岸の声で、再度モニターを見ると、今開いていた制御画面が暗転していた。
なにが起こった?
今度は別のオペレーターから声をかけられた。
「主任、気象庁から連絡が入っています」
「気象庁?」
「茨城原子力発電所の周辺の海面温度が上がっているとのことです、何か異常が発生したのかという問い合わせです」
海面温度だって?
発電所では、発電に利用した蒸気を冷却するために、大量の海水を取り込み、約七度に上昇した温排水を海に放出している。ごく微量の放射性物質が含まれるが、環境への影響はないレベルだ。
温排水のインジケーターを見た。
グリーン。
念のため、詳細温度も確認する。
取り込み温度二十五度、温排水温度三十一度、昨日からプラス・マイナス二度。これも問題ない。
「何かの間違いでは?」
「気象庁が送ってきたサーモグラフィの画像出します」
モニターに映し出された巨大な画像を見て、あっけに取られた。
なんだ!? これは?
赤とオレンジの歪な形の渦が表示されて、その中心にあるのは茨城原子力発電所!?
スケールを見ると、一番濃い赤は五十度以上を指している。
「これは…温排水が五十度以上ということですか?」
誰ともなく問いかけるが、誰も返事をしない。
「温度を下げましょう。運転を一時止めてください」
「操作不能です。コンソールが動きません」
そうだった。再起動もすでに実施済みだ。
後、何か手が?
「レストアしましょう! 最後のバックアップまで」
山岸が声をあげた。
レストア。
バックアップからシステムを戻す方法だ。現場のデータは失われてしまうが、正常運転時点まで戻すことができる。
「しかし、何も変更していないですよね?」
「何が原因かわかりませんが、片側のシステムファイルだけ戻す分にはノーダメージですよ」
確かに山岸の言うことも、もっともだ。
システムファイルは毎日イメージスナップショットのハッシュ値をとり、もしハッシュ値が異なる場合はシステムイメージをバックアップする。
「最新のシステムイメージは、いつのですか?」
「月初のメンテナンス日です」
メンテナンス記録を確認する。毎月一日のメンテナンス日なら、記録通りだ。
「わかりました。片側をレストアしてみましょう。オンラインバックアップなので、一時間ぐらいでレストアできますね」
山岸が慌ただしくコンソールを操作した。
「終わりました。システムファイル、月初時点です」
「操作パネルは?」
「…戻りました! 通常通りです」
再度壁面モニターのインジケーターを見た。オールグリーン。
「良かった、では稼働率を下げてください」
やれやれ、報告書をもう一枚追加か……。事故報告書のテンプレートを呼び出した。
事故のカテゴリ……制御システムの操作不能……インジケーターの異常なし……事故のカテゴリフローを辿った。
その先にあるのは「レベル1:クリティカル。至急報告 TELxxxーxxxーxxx」とあった。
緊急事態? こんなことで?
時計を見ると、午後六時に差し掛かるところだ。やれやれ、定時上がりは諦めるか。
うんざりした気持ちで電話を取り上げたところで、山岸の叫びにも似た声が響いた。
「主任! 見てください!」
山岸が示した壁面パネルには、いつものようにオールグリーンのインジケーターが並んでいた……いや? 一部アンバー表示?
だが、アンバー表示はすぐグリーンに戻った。
今、確かに一部アンバー表示だった。一体どこが?
「山岸さん、何があったのですか?」
「い、今インジケーターの半分以上がアンバーに……」
なんだって?
もう一度、壁面パネルのインジケーターを見た。
オールグリーン。
今度は別のオペレーターが叫んだ。
「主任! またダメです。操作パネル、またブラックアウトしました。操作できません!」
<つづく>




