2−10 記憶
「いいか、美里。見ててごらん」
私が小学生の頃、週末よくお父さんの仕事道具で遊んでくれた。お父さんが、銅線の先端をスイッチに繋げて、スイッチをカチカチと操作した。すると反対側の電球が、点滅した。
「お父さん、すごい。電気がついたよ」
「美里、これは単なる光じゃないんだ。人の言葉を伝えることができるんだよ」
「人の言葉? どうやって?」
「これはモールス信号と言ってね」
お父さんは、タブレットを差し出してきた。
「これに、今からお父さんが送る光の通りに入力してごらん? 長い光と短い光で区別するんだ。よく見て、間違えないようにね」
お父さんが、何回か操作をして、電球を点滅させていた。それを間違えないようにタブレットに入力していく。
「どうだ、なんて表示された?」
「えーとね。『こんにちは』って出てる!」
「そうだ、お父さんは今、『こんにちは』って送ったんだ。モールス信号でね!」
「すごい! 面白い!」
「今度は美里がやってみるか?」
「うん!」
タブレットに日本語を入力し、表示された通りにスイッチを操作した。
「『だいすき』だな?」
「すごい! お父さん、なんでタブレット使わないでわかるの?」
「お父さんは、モールス信号を覚えているからね。ケーブルはただのケーブルだが、そこを流れるのは『人の気持ち』だ。それを間違いなく相手に伝わるようにするのが、お父さんの仕事なんだよ」
「お父さんって、すごい仕事しているんだね」
「ははは、じゃ、もう一回お父さんから美里へのメッセージだ」
お父さんのスイッチ操作で点滅した電球の光を、間違えないようにタブレットに入力する。
『おとうさんもだ』
お父さんがぎゅっと抱きしめてきた。それに答えるようにしがみついた。お父さんの体に染み付いた油の匂いが、大きな安心感を与えてくれていた。
◇◇◇◇◇
「おかえり、美里ちゃん。お腹空いただろ?」
おばあちゃんの声が、耳に優しく響いていた。中学生の私は部活に明け暮れて、帰りはいつも夜七時すぎになっていた。そんな私に、おばあちゃんはいつも同じ言葉を掛けてくれた。
幼い頃に母親をなくし、お父さんとおばあちゃんの三人でずっと過ごしてきた。おばあちゃんは、私にとって母親以上の存在だったのだと思う。
おばあちゃんの料理は、いつも優しい味がした。キンピラ、肉じゃが、煮魚、野菜たっぷりのスープ。くたくたに疲れていても、お腹を満たしてくれて、嫌なことも何もかも吹き飛ばしてくれる、そんな魔法のご飯だった。
特に、いつも作ってくれるスープが大好きだった。あご出汁で作った、キャベツ、玉ねぎ、ニンジンが、ふわふわになるまで煮込まれて、美味しい甘い香りのするスープ。
ちょっとのスパイスで、寒い夜でもポカポカになる。暑い日でも、乾いた体に染み渡るようなスープ。
「美里ちゃん、これ飲んで一休みしたら?」
夜遅くまで試験勉強をしている私の机に、スープを持ってきてくれたおばあちゃん。どんなに遅くなっても、起きててくれていた。
「遅くなるから先に寝てて」と言っても、
「おばあちゃんが一緒に居られるのは短いからね。時間を無駄にしたくないんだよ」
「おばあちゃん、そんなこと言わないで。ずっと一緒にいて」
「おばあちゃんもずっと一緒にいたいねぇ。いつか美里ちゃんが、素敵なお婿さんを見つけて、見ることができたら、こんな幸せなことはないよ」
「おばあちゃん、必ず素敵な人を連れてくるから! おばあちゃんが認めてくれるような! だからそれまで一緒にいて」
ちょっと寂しそうな顔で微笑んでいた。
「そうだね。美里ちゃんのお婿さんを見るまでは、死ねないねぇ。綺麗な花嫁姿を見るまではねぇ」
「約束だよ! 結婚式に来てね! 私、早く結婚するから! 絶対に絶対だよ! だから……」
心が締め付けられそうな感覚を覚えて、視界が滲んできた。
「ああ、約束するよ、美里ちゃん」
おばあちゃんは、目を細めて優しく微笑んでいた。そして優しく頭を撫でてくれていた。
◇◇◇◇◇
「おい、お前の親父きたぞ?」
クラスの男子がニヤニヤしながら話しかけてきた。
昨日の晩御飯のことだった。
「美里、明日は土曜参観日だったな? どの時間に行ったらいい?」
「恥ずかしいから! 来ないで!」
思春期特有の恥ずかしさから、ついキツく言ってしまっていた。それにも拘らず、油の染み付いた作業着のまま、申し訳なさそうに、でも嬉しそうに、教室の入り口で小さく手を振っていた。男子の言葉を無視して、前を向いていた。気づいていないフリをしてしまっていた。
本当は嬉しい気持ちを悟られないように。
お父さんが、忙しいのは知っている。その仕事の合間に来てくれていたのをわかっていたのに。
その夜も、今日の話題に触れられる前に自分の部屋に閉じこもってしまった。何か言いたげなお父さんの顔が頭に残っていた。本当は、お父さんに来てもらって嬉しかった。来てくれてありがとうって言いたいのに。
どうしても、そんな簡単なことが言えなかった。
◇◇◇◇◇
お父さんとおばあちゃんと暮らしていて、不満はなかった。でも、おばあちゃんが、フトした瞬間に見せる、寂しそうな顔。お父さんが、夜、部屋の隅に座って、ずっと俯いている姿を見た時、声を掛けることができなかった。夜トイレに起きた時、二人がリビングで、何かを話しているのを見てしまった時も、気づかれないように、そっと自分のベッドに戻っていた。
きっと、二人とも、私に寂しい思いをさせないように、かなり無理をしていたんだと思う。だから寂しいという気持ちに蓋をして振る舞っていたのかもしれない。
中学生になり、高校生になり、だんだんと二人の深い愛情がわかるようになってきて、だから私もそれに応えるように明るく振る舞っていた。寂しさを感じていないように。
でも、本当は寂しかった。不安だった。母親がいない寂しさではない。
おばあちゃんが、いつかいなくなってしまうことの寂しさだった。あの日、おばあちゃんが「お婿さんが見れたらいいねぇ」と言っていた言葉が、ずっと心に残っていた。
お父さんが、いつかいなくなってしまうことへの不安。いつも忙しくて、帰ってくるのは夜遅くになっていた。週末は私のために時間を使っていた。自分のための時間なんて一分たりともなかった。
日常という幸せが、いつか壊れてしまうことが、怖くて不安で耐えられなかった。
◇◇◇◇◇
はっと夢から覚めた。目から涙が流れていた。隣では憶俊が静かな寝息を立てている。
おばあちゃんが死んだ時も、お父さんが死んだ時も、泣けなかったのに。
ぽっかりと心に空いた穴が、心を凍り付かせてしまっていた。私がしっかりしなきゃと自分を奮い立たせていた。
ピンと張った糸がずっとずっと続いていた。いつかぷつんと切れてしまうまで。
それを溶かしてくれたのが、憶俊だった。今は泣ける。凍っていた心が溶けて流れる『安心の涙』が、とめどもなく流れ出していた。
再び、憶俊の腕に顔を埋める。起きたわけでもないのに、彼の手が、優しく髪を撫でる。
再び深い眠りに落ちて行った。『安心の涙』とともに。
<つづく>




