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81(エイティーワン)  作者: 雨後乃筍
2章 見えない脅威

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2−9 崩壊

美里みさとさん、お帰りなさい。駅まで迎えに行ったのに」

 家に帰ると、憶俊イージュンが出迎えてくれた。台所からは美味しそうな匂いが漂ってくる。


「ごめんね、駅前で買い物してて」

 リカーショップで買ったワインを見せた。


(いいですか、今日私に会ったことは絶対に言わないでください。誰にもです。この国は隣国のスパイで溢れています。どこから漏れるのかわかったものじゃない)

(これが漏れた場合、李憶俊リ・イージュンだけではなくあなたも消される可能性がある)

(ヤツを信用しないでください。いつでも離れられるように)


「ねえ、憶俊イージュン、朝の件、もう大丈夫?」


「うん、心配かけてごめん。美里みさとさんを見たら安心した。元気がでたよ」


憶俊イージュン……」


 憶俊イージュンに抱きついて、キスをした。


美里みさとさん?」


憶俊イージュン……。今日嫌なことがあったの。憶俊イージュンで私を満たして。忘れさせて」


 文字通り憶俊イージュンを押し倒していた。憶俊イージュンの作ってくれた夕食には見向きもせず。

 憶俊イージュンは、明らかに戸惑っていたけれど、そんな状態でも優しく包み込んでくれた。


 憶俊イージュンに抱かれながら、今日のあの男の言葉が耳から離れなかった。

 憶俊イージュンの舌と手が、全身を優しく巡る。


(こんなにしてくれているのに、私のことを騙す兵器?)

 頭の片隅で、冷たい理性が抵抗する。それを打ち消すように、声をあげた。


憶俊イージュン……愛している、もっと」

 憶俊イージュンがやさしく体を包み、ゆっくりと動いてくれている。


(こんなに愛してくれるのに、これが全て芝居?)

 優しいキスも、憶俊イージュンの甘い囁きも、全部計算されたものだったら……。

 目を瞑って、憶俊イージュンにしがみついた。


憶俊イージュン……いい、もっとして。もっと、ずっと」

 憶俊イージュンの動きとともに、体の奥底に快感が走り、抑えきれない声が出る。

 生まれた理性の声をかき消して! 狂ってしまうほどメチャメチャにして!


(左の耳……)


 もう声を抑えることはしなかった。叫び声にも似た嬌声が響き、目からは涙が溢れていた。


憶俊イージュン……愛している。忘れたい! 忘れさせて! もっと! 憶俊イージュン! 憶俊イージュン!)

 何度絶頂を迎えたかわからなかった。真っ白になり、もう何も考えられなくて。


 意識が、体が、溶けていく。


 ……。


◇◇◇◇◇


 夜中、憶俊イージュンの腕の中で目を覚ました。


(左の耳たぶの後ろ)


 隣では憶俊イージュンが静かな寝息を立てている。よく眠っている。


 気づかれないように、そっと体の位置を変えて、憶俊イージュンの耳の後ろを見た。

 うっすらと、だが確実に、小さい四桁の数字が並んでいた。


 0081


 ……そんな。


 きっと何かの偶然。いや、あの男が騙そうとしている。これは何か別の数字。


 でも、なんの?


美里みさとさん、大丈夫? どこか悪い?」

 目を覚ました憶俊イージュンが、いつもの少年のような眼差しで私を見てくる。


 ああ、ダメだ。この瞳の前で隠し事なんてできない。


「……ねえ、憶俊イージュン、今日帰り道でね。変な人に声かけられたの」


「変な人?」


憶俊イージュンの事。スパイだって」


 急に憶俊イージュンの動きが止まった。


 いつもの、やさしい憶俊イージュンではなく、何か別人になったような雰囲気。


 怖い……。


 今までに抱いたことのなかった感情。その異常な雰囲気に飲まれて、次の言葉が出なかった。


 フッと、魔法が解けたように振り向いた憶俊イージュンは、前髪をそっと指先で撫でて言った。

美里みさとさん、聞いてほしいことがある」


 ……。


 憶俊イージュンが語ってくれた内容は、私には理解し難いものだった。

 憶俊イージュンは中国の軍隊に所属しており、近々発生する軍事侵攻の突破口を作るのが任務だという。

 日本の重要インフラに機能不全をおこさせる仕掛けをするのだとか。


 にわかに信じられない。


 このやさしい憶俊イージュンが、日本に軍事侵攻を目論む軍人でスパイ!?


「ごめん、美里みさとさんの立場を利用させてもらった」


「私の立場?」


美里みさとさんの車にあったケーブルに細工をした。あれが発電所のケーブルに使われることを見越して」

 あの時感じた違和感は気のせいじゃなかった。でも……。


「でも、あのケーブルは新品だったよ? 私が袋の封を切ったんだから間違いない」


「袋にも細工した。新品に見えるように」


 愕然とした。信じられない、そんなことが……。


「なんで、なんで、そんなことを……」


「軍のマインドコントロール。自分では逆らえない」


「それが目的で私に近づいたの?」


 しばらく沈黙していた憶俊イージュンが口を開いた。


「最初はそう。発電所のメンテナンスをしている美里みさとさんに近づくのが目的だった、でも……」


「でも……今は違う!」


「僕、美里みさとさんのことが本当に好き。僕のことを人間として愛してくれた。僕の子供が欲しいって。美里みさとさんと離れることが怖い、怖くて堪らない」


 私だって。こんなに人を好きになったことなんてない! 憶俊イージュンのいない世界なんて考えられない!


「もうすぐ僕の国と日本の戦争になる。そうなったらおしまい。みんな死ぬ」


 そんな、どうしたらいいの……。


 日本が戦争に…憶俊イージュンまで失う……。


憶俊イージュン……どうして」


「スパイを生かしておいてもいいことない。どちらの国にとっても」


 憶俊イージュンは国の使い捨てってこと? そんな、そんなことがあっていいわけがない!


 国……この国は私に何をしてくれた? でも憶俊イージュンは私にとって唯一の……どっち……。


「助かる方法はないの?」


「ないですね」


「逃げられないの?」


 憶俊イージュンは首を横に振った。


「無理、僕の体に発信機がついている。日本のどこに行っても追跡される」


 そんな……発信機だって?


「でも……でも……あなたは中国にとって貴重な戦力なんでしょ? 何十年も掛けて作り上げた……そんなに簡単に手放さないと思うけど」


 憶俊イージュンは、またしても首を横に振った。


「作戦が失敗に終わったら、同じスパイは使えなくなる。消すしかないよ」


「そ、そうだ! 日本に助けを求めたら? 日本に中国の情報を渡す代わりに助けてもらうの!」


 憶俊イージュンは、淡々と告げてくる。


「もし日本の警察に捕まったりすれば、抹殺されますね、証拠隠滅で」


「抹殺って……?」


「死ぬってことです」


 憶俊イージュンが死ぬ!?


「取るには手術しかない、でもそんな手術は日本の医者ではやってくれない。病院の履歴はすぐにわかってしまう。僕と同じような工作員があちこちにいます」


「そんな……じゃあ本当にもう助かる道はないの?」


「ないですね。残念ですが」


「……私も一緒に死ぬ!」


「え?」


憶俊イージュンのいない世界なんて考えられない。もう一人は嫌なの。お願い! 一人にしないで!」


美里みさとさん……僕は日本に取っては敵国の兵士。そして中国から見たら失敗した危険人物だよ? でも美里みさとさんはただの日本人。どちらにとっても危険性はない。だから死ぬ必要はないよ」


「国のためとかじゃない! 憶俊イージュンのためなの! 自分のためなの!」


言いながら、ある考えが浮かんだ。


憶俊イージュン……憶俊イージュンの作戦って、まだ終わっていないよね?」


「え?」


憶俊イージュンの仕掛けたものは、まだ有効なんでしょう?」


「はい、まだ……」


「じゃあさ、まだ作戦は終わっていないじゃない! 失敗していない!」


美里みさとさん?」


「まだ作戦は継続中なのよ。そして憶俊イージュンは作戦中であれば日本国内を移動することもあるよね? 国内旅行だって、海外旅行だって……恋人同士だから……」


「……はい、ありえますけど……でも」


「日本のどこに居ても特定されるんでしょ? 日本なの? 日本だけなの?」


 憶俊イージュンが怪訝そうな顔で見てくる。憶俊イージュンと離れ離れなんてやだ!


「他の国は? 他のアジアの国とかEUとかは?」


 憶俊イージュンは考えるように言った。


「……国交のない国なら、もしかしたら」


 憶俊イージュンの手を握りしめた。


「私、前に作ったパスポートがあるの! だから海外旅行に行こう! 日本の警察も中国も手の届かないところ」


美里みさとさん、でも……。二度と日本に戻って来れなくなりますよ? 捨てるんですか? 美里みさとさんにとっては生まれ育った国を捨てることになってしまいます」


 憶俊イージュンの手を握った自分の手に目を落とした。


憶俊イージュン、私はひとりぼっちなの。親戚もいない、家族もいない、大切なものなんて何もない。あなたを除いては……」


 <つづく>


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