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81(エイティーワン)  作者: 雨後乃筍
2章 見えない脅威

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2−7 李張偉

 李張偉リ・ジャンウェイにとっては、留学はただの口実だったのかもしれない。


 李張偉リ・ジャンウェイがまだ幼い頃に、母親は彼を置いて家出をしたらしい。男と逃げたと聞かされてきた。また父親も、程なくして失踪したらしい。


 もともと叔母と父親が仲が良かったわけではないらしい。その上、母親とも正式に結婚していたわけではなく、張偉ジャンウェイが生まれたと聞かされた。叔母たちは「娼婦」と母親のことを呼んでいるのを聞いたことがある。


 それでも、張偉ジャンウェイは叔母夫婦にかわいがられて育てられた。叔母夫婦には子供がいなかったため、『将来の稼ぎ手』としての意味合いが強かったのかもしれない。


 しかし、それも叔母夫婦に子供ができるまでの間だけだった。


 張偉ジャンウェイが五歳になる頃に叔母夫婦に女の子が生まれてからは、張偉ジャンウェイに対する叔母夫婦の対応は一変していた。


 女の子には紅花ホンファという名前がつけられた。


 それまで張偉ジャンウェイにあてがわれていた部屋は、赤ん坊の部屋になり、張偉ジャンウェイの生活場所は土間になった。寝るのも食事をするのも土間だ。


 叔母家族と一緒に行動することは許されず、叔母家族が出かける際にも張偉ジャンウェイは一人家に残された。


 それは張偉ジャンウェイが学校に通うようになっても変わらなかった。かろうじて学校に通うことはできたが、家に帰れば家族の食事、洗濯などの家事をやらされて、睡眠時間も大幅に削られていった。


 それでも学校での成績は良かった。家に帰りたくなかった張偉ジャンウェイは、逃げ場所を見つけるために勉強した。勉強をしている間は家のことを忘れることができるからだった。その甲斐もあって、幾度か成績優秀者として学校で表彰された。その時だけは叔母夫婦が学校にやってきて、自分の子育て論を披露していた。


 高校は成績優秀者のため、学費はほぼゼロに近かったのが、より叔母夫婦を上機嫌にしていた。それでも家庭での待遇が良くなるわけでもなく、張偉ジャンウェイは家事に追われ、土間のテーブルで地べたに座り生活をしていた。


 ある時、叔母が子犬を連れて帰ってきた。紅花ホンファにねだられて買ってきたらしい。


 毛毛マオマオと名付けられたその子犬の世話も張偉ジャンウェイの役目になった。張偉ジャンウェイ毛毛マオマオは同じ土間で生活をし、寝るときも一緒に寝ていた。たまに気まぐれに叔母や紅花ホンファが、子犬をいじりにきたが、毛毛マオマオが懐くわけもなく、しだいに張偉ジャンウェイ毛毛マオマオは、共に家族の厄介者という扱いになっていった。


 ある時事件が起こった。紅花ホンファが受験に失敗したのだった。張偉ジャンウェイは変わらずトップの成績を維持していたが、蝶よ花よと、わがままに育てられた紅花ホンファには、集中力がなく、学校の成績も中の下ぐらいだった。当然と言えば当然の結果であったが、彼女の怒りと嫉妬は張偉ジャンウェイに向けられた。


 食事もまともに与えてもらえず、野菜の切れ端を毛毛マオマオと分け合って食べたこともあった。


 それでも張偉ジャンウェイにとっては唯一の家族と呼べる毛毛マオマオが居たから耐えることができた。辛いことも空腹も我慢できた。


 高校を首席で卒業した張偉ジャンウェイは、成績優秀者は学費免除の大学に進学していた。将来の夢などなかったが、とにかく家を出たかった。毛毛マオマオといっしょに生活できる場所を探すことが当面の目標であり、希望であった。


 ある時、学校から帰った張偉ジャンウェイは、家の中の異変に気づいた。いつも尻尾をフリながら出迎えてくれる毛毛マオマオが出てこないのだ。


毛毛マオマオ!」


 毛毛マオマオの名前を呼びながら家中を探し回ると、土間の隅で丸くなっている姿を発見した。明らかに元気がない。


毛毛マオマオ、どうした?」


 呼びかけに、毛毛マオマオは弱々しく尻尾を振っている。自分の洋服を掛けてやり、隣で一緒に横たわった。そしてずっと頭を撫でてあげていた。


 用意したご飯も食べず、時折弱々しく鳴き声を上げる。どうしたんだろう? なにか病気だろうか?

 

 だが、獣医につれていけるような余裕はなかった。一晩中体を擦ってあげていたが、毛毛マオマオの呼吸は激しくなり、心臓の鼓動も早くなっていった。

 

 そして、明け方、その小さな体は手の中で動かなくなっていった。何度も名前を呼びながら体を撫でたが、再び動き出すことはなかった。


 涙は出なかった。ただ、例えようもない虚無感、喪失感、そして孤独感だけだった。学校に行く気も起きず、動かなくなった毛毛マオマオを何度も何度も撫でていた。


 ふと、土間の隅に目をやると、毛毛マオマオの嘔吐した跡が目に入った。

 その嘔吐物の中には、ぐちゃぐちゃになった肉の脂身と、ニンニクの破片が混じっていた。


 ニンニクは犬にとっては毒物だ。だが毛毛マオマオにニンニクを与えたとしても食べるわけがない。毛毛マオマオ張偉ジャンウェイの用意した食べ物しか食べないはずだ。


 大体、ニンニクがこんなところに落ちているわけがない。食材はすべて冷蔵庫に入っているし、もしそこらへんにあったら、叔母が烈火のごとく怒り狂う。


 動かなくなった毛毛マオマオを撫でながら呆然としていると、奥から紅花ホンファが顔をのぞかせた。


「どうしたの? 犬、死んだの?」


 おどおどして、明らかに挙動がおかしい。張偉ジャンウェイが目を向けると顔を背けるように横を向いた。


「……毛毛マオマオに、なにをした?」


 張偉ジャンウェイが問い詰めると、動揺したように白状した。


「わ、私が悪いんじゃないよ、その犬が悪いんだ!」


「……毛毛マオマオになにをしたんだ!?」


 張偉ジャンウェイは、腹の底から湧き出てくる赤い炎を必死で抑えながら問いかけた。


 紅花ホンファが吐き捨てるように言い放ってきた。


「……だって、その犬はちっともかわいくないじゃない。今日犬の好きな友達が来てたからさ、見せようと思ったら吠えるんだよ! だから……」


 紅花ホンファの言葉に張偉ジャンウェイの視界が狭まるような感覚を覚える。


「……だから?」


「……ちょっと美味しいものでもあげれば静かになるかと思ってさ。そこのゴミ箱からご飯の残りをあげたんだよ。だって美味しかったし」


 手がガクガクと震えてくる。これは怒りなのか、悲しみなのか……。


「……ご飯の残り?」


 叔母家族が何を食べたか知らなかった。昨日はなにか食事を買ってきて食べたようだったが、張偉ジャンウェイ毛毛マオマオは、いつものように朝の残りを食べたのだった。


「……その犬、喜んで食べてたよ、あんたがあげたこともないようなご馳走だからね。一生食べれないような……」


「……昨日のご飯ってのはなんだ!? なにを食べさせた!?」


「……ステーキだよ、その残りの脂身と……」


「……まさかニンニクか?」


「……ニンニク? ああ、たしか入ってたね」


 もう一度、動かなくなった毛毛マオマオに目をやる。さっきの嘔吐物の汚れは肉の油とニンニクだったのか……。


 苦しかっただろう……ごめん……守ってあげられなくて……。


 毛毛マオマオ、ずっとそばに居てくれた、唯一の家族。この家の中で、唯一の安らぎ。毛毛マオマオがいたから、耐えられた。毛毛マオマオがいたから、辛くなかった……。


「……だから、私は悪くないよ! むしろ感謝してほしいぐらい! 勝手に犬が食べて勝手に死んだんだから! 大体吠えてばっかりで全然可愛くない……」


 紅花ホンファに掴みかかっていた。怒りで目の前が真っ赤に染まっていた。


「……犬にはニンニクは猛毒なんだぞ! そんなことも知らないのか!」


「な、なにするのよ! 知らないよ、そんなこと! 私の犬じゃないし!」


「おまえが買ってきたんだろう! 命を……毛毛マオマオを……なんだと思っているんだ!」


 思わず紅花ホンファを力任せに突き飛ばしていた。壁に打ち付けられた紅花ホンファは、そのまま床に倒れ込んで、怒りの目を張偉ジャンウェイに向けた。


「……あんた、自分が何したか分かっているの? ママに言ってやるから! そうしたら、もうこの家にいられないよ?」


 紅花ホンファの言葉が重くのしかかり、下を向くしか無かった。幼い頃から虐げられていた記憶が反抗心を奪っていた。


「……いま謝れば許してあげる。さあ!」


 言われるがままに床に顔を付けていた。自分の意志ではない、だが体が勝手にそうしていた。


「……これでおあいこね。あんたの犬と……だからママには言わないでおいてあげる」


 紅花ホンファの足が、頭を踏みつける。額が強く床に押し付けられたが、紅花ホンファの足は更に強く踏みつけてくる。


「……さっきは痛かったんだからね、こんなもんじゃないでしょ……」


 痛みと屈辱、喪失感。それと同時に張偉ジャンウェイの中で、なにかが切れる音がした。


 こんなヤツが、毛毛マオマオの命と『おあいこ』だと!


 とっさに紅花ホンファの足を掴み、目を上に向けた。それは単に痛みから逃れようとした反射だったのだろう。その目の先には、醜くニヤけた女の顔と、スカートの裾から覗く白い下着が見えていた。それを見た瞬間、心の中のどす黒い感情が爆発した。


 無意識の内に紅花ホンファの足を掴み、押し倒していた。そして着ている服に手をかけて、力任せに引っ張っていた。

 張偉ジャンウェイの目から涙が溢れていた。それと同時に、自分でも理解できない感情が生まれ、自然と口角が上がっていく。そう、泣きながら笑っていたのだ。


 ◇◇◇◇◇


 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。気がつくと張偉ジャンウェイは道端に座り込んでいた。


 張偉ジャンウェイの記憶は飛んでいた。ただ、飛び飛びの記憶から、今日自分がしたことの光景が脳裏に蘇る。


 乱れた服の紅花ホンファ

 自分の裸の下半身。

 ちかくに脱ぎ捨ててあったズボン。

 それを掴んで、叫び声を押さえながら家を飛び出した。


 おそらく紅花ホンファは親には言わないだろう。さんざん奴隷のように蔑んできた張偉ジャンウェイに犯されたなんて言えるわけがない。言ったところであの叔母夫婦に隠蔽されるに決まっている。そしてこれまで以上に張偉ジャンウェイへの扱いはひどくなるだろう。


 もう戻れない。これからずっと紅花ホンファと叔母夫婦に弱みを握られながら奴隷のように生活して行かなければならない。


 それからしばらく、張偉ジャンウェイは友人の家を転々とし、大学に通っていた。叔母からの問い合わせは皆無だった。どうせ厄介払いができたぐらいにしか思っていないだろう。紅花ホンファにしても、口止めしなくて済むぐらいにしか考えていない。


 そんな居候生活を続けながら、次のアテをどうしたらいいか悩み始めた頃、大学の先輩から交換留学生の話を聞いた。


 成績優秀者は教授の推薦で、無料で日本の大学に留学できる制度だ。


 この国では自分の未来はない、だが日本だったら。


 張偉ジャンウェイは交換留学生に申し込んだ。もちろん成績優秀者だった張偉ジャンウェイの留学はあっさりと許可された。


 ◇◇◇◇◇


 留学先では夢のような生活だった。


 綺麗な街、掃除の行き届いたキャンパス。なにもかもが違っていた。


 張偉ジャンウェイには大学の留学生用の寮があてがわれた。せまい部屋だったが、張偉ジャンウェイにとっては天国だった。


 ベッドがある。

 机がある。

 ちかくに清潔なトイレもある。

 風呂に毎日入ることができる。

 食事も寮の食堂で朝夕と食べられる。


 最初は日本語がわからず苦労したが、留学生のサポート制度もあり、大きな不自由はなかった。しかし中国に未練のなかった張偉ジャンウェイは、日本語と日本の文化を早く覚えるために『日中文化交流サークル』に入ることにした。先輩の勧めでもあった。


 そのサークルには中国語をしゃべれる日本人もいるし、日本語に堪能な中国人学生も多数所属していた。サークルでは、だれも張偉ジャンウェイのことを蔑んでみることなく、一人の人間として扱ってくれていた。


 学校生活もサークル活動も楽しく、まさに人生の絶頂期を迎えていた。


 半年も過ぎた頃だろうか。先輩留学生との進路相談の機会があった。


 張偉ジャンウェイの留学期間は1年。それが終わったら中国に戻らなければならない。


 また、あの生活にもどるのか。


 張偉ジャンウェイは、なんとかこのまま日本に残れないかと考えていた。自費で日本の大学に転籍することもできるが、そんな金はない。


 元の大学に戻るか、それともこのまま不法滞在するか。


 そのことを先輩に打ち明けると、先輩から耳寄りな話を聞かされた。


 このまま日本の大学に通い続けることができる。しかも無料で。


 その先輩の話では、軍所属になれば研修費名目で日本の学費、生活費を国が出してくれる制度があるらしい。ただし、大学卒業後は軍に所属することが条件だ。


 張偉ジャンウェイは、その話に飛びついた。とにかくあの家に戻らずに済むのであればなんでもいい。それも学費の心配をしないで済むだけではなく、卒業後も行く先が見つかった。


 それがいかに甘い考えだったかを思い知るのは、大学卒業後、中国に戻った張偉ジャンウェイが、過酷な軍の訓練に入ってからだった。


 <つづく>


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