平穏とクアドリカの影
いくつもの星糸を支配下に置く大帝国・ソラリオン。その圧倒的な物量を誇る巨大国家を相手に、ウラニア側は奇跡的とも言える勝利という実を勝ち取ることができた。
けれど――それはあくまで、一時的な凌ぎに過ぎない。
いつまたソラリオンが牙を剥くか、あるいはまったく別の脅威が侵略の船足を向けてくるかなど、誰にも分からないのだから。
――――――――
月軌道での決死の防衛戦が勝利という形で幕を閉じ、アストレオン本国へと帰還したルディア。
彼は自室で先の戦闘ログを幾重にも見返し、胸の奥に拭えない強い違和感を抱いていた。
ルディア率いるウラニア連合軍が打ち立てた戦果は、客観的に見れば奇跡と呼ぶべき代物だ。しかし、敵の撤退行動には一つだけ、どうしても解せない謎が残されていた。
それは――ソラリオン艦隊の後方に位置していた一群が、連合軍の反撃や新兵器の被害を受けるよりも遥かに早い段階で、まるで最初から予定されていたかのように撤退へと移っていたことだ。
確かに、ルディアたちの繰り出した未知の超兵器によって、敵陣に壊滅的な大混乱が生じたのは事実である。けれど、それよりも前に後方部隊が引き上げていたとなれば、彼らには敗走とは別の「何らかの目的」があったのではないか。
胸の奥に燻る悶々とした不吉な予感に、ルディアが深く眉をひそめていたその時、背後から静かな足音が近づいてきた。
「ルディア、司令室から戦いの推移を見ていたが……筆舌に尽くしがたい苦難の連続だったろう。見事な指揮ぶりだったよ」
疲労と安息の混ざり合った笑みを浮かべ、隣に立ったのはサーモンだった。ルディアはスクリーンから目を離さずに応える。
「いえ……それほどでもありませんよ、サーモン。ですが、敵の撤退行動には極めて不可解な点が存在します。……今後の軍事計画と境界網の再構築に、直ちにメスを入れるべきでは?」
懸念を口にするルディアに対し、サーモンは静かに首を振った。
「……気持ちは分かる。軍事計画や警戒網の全面的な見直しが必要なのは確かだ。だが、私は『今』それを行うべきではないと考えている。――それは、このデータが証明している」
サーモンはコンソールを軽く操作し、今回の戦闘で得られた最新の解析データをホログラムに展開した。
「歪曲反転のエネルギー変化率、そして空間斥力収束砲の圧倒的な威力。……現状のソラリオンの既存兵器では、これらを正面から突破することは不可能に近いと見ている」
「つまり……」
「敵もまた、我々の持つ未知の新兵器によって完全に牙を折られたのだ。奴らがこのデータを本国へ持ち帰り、有効な対策を講じるだけでも……最低で数ヶ月、長く見れば半年は要するだろう」
「半年……」
「ああ。敵の圧倒的な物量と技術的アドバンテージが依然として絶大な脅威であることは、我々自身が一番よく理解している。……だが、我々の持ち得るリソースもまた有限なのだ。全宙域に広範な警戒網を敷くなどという真似をすれば、敵が来る前にこちらが先にリソース切れで自滅する」
「……」
「今は、敵が進軍してくるであろう想定ルートに最小限の警戒網を配置し、損耗した艦隊の再建と、さらなる軍備増強に全力を注ぐべきだ」
それは、どこまでも冷徹で至極合理的な判断であった。
サーモンやセラをはじめとするアストレオンの幹部たちに、慢心や油断など微塵もない。ソラリオンという国家の底知れぬ恐ろしさを、先の死闘で誰よりも痛感させられたからこその決断だった。手に入れたデータと限られた兵力の中で、今なし得る最善を尽くしているに過ぎない。
こうしてアストレオンは、勝ち取った束の間の平和を「軍事力の飛躍的増強期間」と位置づけ、次なる戦いへ向けて舵を切るのだった。
――――――――
暗鬱な闇の中、剥き出しの荒々しい岩肌に深く打ち込まれた、巨大な六角形の金属カプセル。
その内部を満たす黄緑色に濁った培養液の中では、ゴポ……ゴポ……と、重く濁った気泡の音が絶え間なく響いていた。
周囲の空気は、黒く焦げた不快な焦臭と、過熱されたタンパク質の爛れた匂いで満たされている。
培養液の底へと沈んでいるのは、無数の黒いケーブルや導線を肉体に直接接続された――『かつて人間であったもの』の残骸であった。
モニター上のバイタル数値が跳ね上がるたび、かつて人であった肉塊が、痙攣するように小さく跳ねる。
思考も、自我も、言葉も、とうの昔に奪い去られていた。
それらの肉塊には、意図的に絶え間ない「絶対の恐怖」が流し込まれ続けている。その極限の恐怖によって肉体から抽出される狂気のエネルギーは、施設全体の動力源として貯蔵・利用されていた。
それだけに留まらない。複数の脳を並列接続された生体ユニットは、最新鋭艦のメインOSとして組み込まれ、さらには艦載機や艦艇そのものの生体パーツとしても活用されていたのだ。
『クアドリカ』――。
彼らは過酷な歴史の中で、古くから「人間と機械の融合」という禁忌の研究を推し進めてきた。すでにそれらの生体兵器を実戦投入した豊富な経験を持つがゆえに、彼らは短期間で圧倒的な兵器群の開発に成功していたのである。
だが、狂気にとらわれた彼らが、その程度で満足するはずもなかった。
集積された生体技術を悪用し、彼らは更なる悪夢――クローン技術を応用した『人間爆弾』という悪魔の発明にまで手を染めつつあったのだ。
幸いにも、その禁忌中の禁忌と言うべき兵器は、未だ実用化には程遠い段階にとどまっている。
とはいえ――不気味な静寂の裏で、クアドリカの軍備増強は、確実に、そして着々と進められていたのであった。
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