椎葉村民俗芸能博物館副館長 山村さん
私は椎葉村民俗芸能博物館の副館長を務めております山村というものです。
歳はもう、来年で45歳になります。
東京で生まれ育ったのですが、椎葉村の魅力に囲い込まれ、5年前からこちらにおります。
元は、大学の教授で、民俗学を研究しておりました。
最初は単身で来ようと思っていたのですが、妻も子供も宮崎に来たがって、一緒にやってきました。
娘が二人いるのですが、一人は高校生で地元の学校に通っていますが、もう一人は大学2年で、福岡で勉学に励んでいます。
この博物館は私以外の人はほとんど地元の職員です。
完成したのは平成9年です。
目的は、椎葉村の民俗文化を知っていただくのはもちろん、広くは九州や、アジア全体の民俗芸能までも取り上げて展示して理解を深めていただくということです。民俗芸能専門の博物館は全国でも珍しいと思います。
まあ、私自身、民俗芸能も研究しますが、個人的にはこの秘境と呼ばれる椎葉村の魅力にすっかり虜になり、村のおばあさんなどにヒアリングして、研究をまとめておるところです。
これを自分のライフワークにしたく、この村に一生を捧げるつもりで、住んでいますから、村の人ともすっかり打ち解け、研究もしやすいです。
こういう所は閉鎖的で、外部からの侵入に対して、攻撃する因習があると思われがちですが、平成の今ではそんなことは無きに等しいと思いますよ。
まあ、一部、そういう部分もありますが。
椎葉村は昭和30年くらいは1万人以上の人口がいたんですがねぇ。
平成になって5千人をきり、今では3千人代まで人口が減っております。
みんな都会に出ていくのは田舎の定めですね。
私らみたいに歳とって田舎暮らしをする人間が1に対して、5の人間が出て行きます。
この辺の人は、大体が福岡か大阪ですね。
東京にはあまり行きません。
福岡がそうでもなかった時、ほとんどの若者は大阪で一旗揚げようと出て行ったそうです。
椎葉村は、廃藩置県の時に人吉藩だったり、宮崎県が廃県になったときには鹿児島県に属したり、明治の頃は落ち着くのに時間がかかりました。まあ、大体の小さな村はそうです。
戦後に合併をして、今の椎葉村になりました。
ここは本当に山間の村で、山、山、どこを見ても山です。
熊本との県境に位置して、山がたくさんあるので、九州南部なのに雪が積もる場合もあります。
鉄道が近くまで走ってないことも、秘境と呼ばれる所以です。
ですので、日向市が一番便利の良い場所になりますが、そこまでは結局、車かバスで移動になります。
椎葉村の近年の歴史の中で、重要な部分を占めているのはやはりダムと言えましょう。
上椎葉ダムと発電所と、ダム湖。
昭和30年頃に完成した、日本初の大規模アーチダムでした。
このダムが後々の日本の大きなダム建設につながったとも言えます。宮城、和歌山、富山などに建設された大規模ダムの先駆けとなりました。
多くの雇用を生んだ反面、難工事でありましたから、死人もそれなりに出たと聞きます。
遠くは北九州まで電力を送ることができ、ダムでできた人造湖は小説家である吉川英治氏が、「日向椎葉湖」と名付けたことで有名です。
だから、昭和30年頃は村の人口が1万人を超えていたんですね。
元々は焼畑農業が盛んな村で、今では全国で椎葉村しかやらなくなりました。明らかに農耕文化を積み重ねて来たのですが、ここで、電力会社などの雇用を生んだので、人口が少なくなった今も、その恩恵にあずかっています。
蕎麦などが有名ですね。
のんびりして、良いところですよ。
椎葉村と切っても切り離せないのが、平家伝説ですね。
鶴富姫伝説とも言い、長く語り継がれています。
有形の物よりもこういう無形のもののほうが私は調べるのが楽しいです。
文献も残ってはいますが、やはり語り継がれている伝奇、伝説の類は私の興味を激しくそそり、知識欲は尽きません。
鶴富姫伝説の大まかな話は、800年以上も前、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が、道なき道を逃げ、ようやくたどり着いたのが山深き椎葉であった。
全国にこういう話がありますが、椎葉の場合は特に有名ですね。
その後がこの伝説は独特で、この隠れ里も源氏の総大将、源頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうように命じられました。
しかし、このとき那須与一は病気だったがために、弟である那須大八郎宗久が替って、追討に向かったのです。
険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見しました。
しかし、かつての栄華を極めた平家一門とは裏腹に、そこにはひっそりと農耕をやりながら、暮らしている人々がいた。
大八郎は哀れに思い、追討を断念。
鎌倉幕府には討伐を果たした旨を報告した。
普通ならここで鎌倉に帰るところなのですが、大八郎は屋敷を構え、ここにとどまってしまいました。
そればかりか平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど、彼らを助け、協力し合いながら暮らしたといいます。
そして、平清盛の末裔である鶴富姫と出会い、ロマンスが芽生えました。
椎葉村に伝わる「ひえつき節」にこう唄われています。
(庭の山椒の木鳴る鈴懸けて)
(鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ)
(鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ)
(駒に水くりょというて出ましょ)
これは、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるという唄です。
大八郎は永住の決心を固め、村中から祝福されました。
ところが、やがて幕府から即刻兵をまとめて帰れという命令が下ったのです。
この時、既に鶴富姫は身ごもっていました。
しかし仇敵平家の姫を連れて行くわけにもいかず、別れの印に名刀「天国丸」を与え「生まれた子が男なら我が故郷、下野の国へ。女ならこの地で育てよ」と言い残し、椎葉を後にしました。
生まれたのは可愛い女の子で、姫は大八郎のことを思いながらいつくしみ、育て上げました。後に婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。
大八郎が、なぜ、「平家はひとにあらず」と源氏の中で言われていた世の中なのに、落人を発見した時に、すぐに討伐しなかったのか、謎が残るところです。
それほど哀れだったのでしょうか?
それだけならば、とどまることなく黙って引き返せばよかったはずです。
先に話した作家の吉川英治は椎葉村に魅せられた一人ですが、「新・平家物語」の中でこう書かれています。
椎葉村は理想郷で敵も味方もない、富も権力も持たない、戦い、憎しみあってきた源氏と平家の間に美しい恋さえ芽生える。
人間は何故争うのかという問いかけを、この物語に託しています。
(和様平家の公達流れ)
(おどま追討の那須の末よ)
(那須の大八鶴富おいて)
(椎葉たつときゃ目に涙よ)
大八郎が椎葉を発つ時の唄です。
とにもかくにも、椎葉村のルーツはこの物語から始まっているのです。
古くから焼畑農業と狩猟、今も変わらず平地の少ない土地を切り開いて、おのおの敷地を持つ人々。
自然や山の神の信仰。
臼太鼓踊りやひえつき節などの民俗芸能。
などなど、豊かでのんびりとした田舎の風景が目に浮かびますし、私もそういう土地に住んで、毎日、自然を満喫しています。
これが椎葉村の表の顔です。
どこにでもあるように、こういう閉鎖的な村には、因習、禁忌、村のしきたり、表に出せない伝説などがあるものです。
そういったものは村のものが嫌い、自然になくなってゆくものと思われがちですが、意外と残ってゆくものです。
ただし、外部からの見かけや干渉を恐れて、ひた隠しにされながら、残っていくものです。
何故、残っていくものでしょうか?
それは信仰に深くかかわっていくのだと思います。○○をしたら天災がおこるから、法律的には悪いことだけど、村の中では行われるような……。
しかも、先にお話した昭和30年前後のダム建設より前は、道路も整備されていなく、本当に秘境だったのです。
外部から入るのは険しい山を越えて来なければなりません。
だから、それまでの椎葉村は良いことも悪いことも村の中で解決し、世間一般の法律とは異なる事が行われていた可能性が高いのです。
たくさんの外部の人が入ってきたダム建設を境に、そういう外の人の目に触れては行けないものは隠されました。
この民俗芸能博物館の周りには、「鶴富屋敷」や「厳島神社」。「鶴富姫の墓」や「鶴富姫化粧水」など、観光名所が集中していますが、見せていいものは、大体、この周辺に、見せてはいけないものは、観光名所から離れた、村人しか使わない神社の、普通は開けることのできない、宝物庫などに隠されてるいといいます。
いつかは見たいと思っているのですが、まだ見ることはできません。
今は、無形の伝説をずっと調べています。
見せれるものを取捨選択していた中で、ずっと口伝えで伝わってきた、お話や伝説、伝承、民謡もそのように分けられました。
有形の物のように、どこかにしまいこんで、しっかり管理すればいいというようなものでもありませんでした。
それは、人で分けられるようになりました。
表の伝承者と裏の伝承者。
どうしてそこまでして、外部に見せられないものを残さなければならなかったのでしょうか?
それはやはり、人間が積み重ねてきた歴史や生活、暮らしの中で、独自のルールというものを捨てることができないということがあるのでしょう。
ここでは普通の事が、外では法律に触れることになる……。
椎葉には椎葉姓ももちろん多いのですが、那須姓も多いです。
那須はもちろん、那須大八郎からの血を引き継ぐもので、本家は村の有力者に代々なっていましたが、途中で本家と分家が入れ替わったという事実があります。
これは、当主に問題があり、外交など行える状況ではなかったので、村内で話し合いが行われ、文書などの記録もなしに、入れ替わりました。
昭和30年から、那須と椎葉が協力し合って、村の発展のために尽力をあげました。もちろん、表の無形伝承者は那須です。那須性はどちらかというと、農業や民俗芸能中心。椎葉姓は外交、役場関係、主に近代的な政治を司る職に多いです。
そして入れ替わって、那須姓でも無くなった、分家は、裏の伝承者に選ばれ、中心部から離れた山奥にひっそりと暮らしています。
基本神社の管理をしています。もちろん、有形の「見せられないもの」の管理をして、村から収入を得てます。
要は村の見せられない部分を全部引き受けた形になり、村人もその負い目があるので、彼らを大切にしています。
年に一度の、秋の祭り。
村人しか参加することのできない秘密の祭りの日に、五穀豊穣を祈るのですが、同時に一年中村の裏の顔を守ってくれる彼らへの感謝を表す場でもあります。
逆に、彼らの機嫌を損ねると、それらをばらしてしまう。または、村に悪い事が起こってしまうという心配もしていることも事実です。
しかし、問題であった当主も、ダム建設の前には、同じ宮崎県ですが、小林市かえびのか忘れたけれど、椎葉村から出て行き、今、守っているのは分家の分家なので、特にトラブルもなく、誰も突きさえしなければ、日々、平穏に暮らしています。
これは、その裏の伝説の一部ですが、私がやっと村人と認められた証のように、聞かされたことです。
鶴富姫伝説の表の話は先に述べました。
しかしこれにも裏の恐ろしい伝説があったのです。
外には見せることのできない、裏の話なため、より信憑性があり、こっちが真実ではないかと思ってしまいます。
内容はこうです。
そもそも平家である鶴富姫はどうして大八郎を好きになったのか。憎き源氏の追討者のことを……。
これは、実は、そうではなかったという話です。
平清盛の末裔である、鶴富姫には許嫁が既におりました。
もちろん平家の人間ですが、大八郎が追討のさいに一番初めに出会ったのがこの男性だといいます。
山道で出会い、農民ではなくいかにも平家といった風だったので、攻撃をかけました。
瀕死の状態で鶴富姫はの元に戻り、事情を話した後、男性は息を引き取りました。
その瞬間、鶴富姫の心の中には復讐の炎がメラメラと燃えあがったのですが、とはいえ、すっかり農耕民族になってしまい、武器を捨てた平家の人々に戦う術は残っていませんでした。
そこで鶴富姫が考えたのは、色仕掛けで誘惑し、大八郎と結婚してこの地に留まらせ、その間に復讐をするという、蛇のように執念深い、用意周到な時間のかかる復讐でした。
鶴富姫としては源氏に対する復讐など、もうどうでも良かったのです。
ただ、最愛の人を殺した大八郎に対する、怨恨しかなく、その後の行動はすべてその根底にあるものに突き動かされていました。
軍勢が村内に入る前に、鶴富姫山へ入り、大八郎と接触しました。
先に述べたように、村に入ってくる険しい山道と、村民しかしらない、外に出て行く山道は3倍も4倍もスピードが違っていたので、鶴富姫は接触することができ、その美貌で大八郎の心を射止めたのです。
やがて大八郎が厳島神社を建てたりという下りは表の伝説と変わりませんし、鶴富姫の側近以外には、大八郎が平家を哀れに思い、椎葉という理想郷に出会ったから、一緒に暮らしたという事になっています。
しかし、その間も鶴富姫の心の中では復讐の計画がたっていたのです。
それは妊娠した時に現実味をおびてきました。
大八郎への復讐は、幸せの絶頂に数々の裏切りにあい、最後は苦しんで死なせるという事が、その時の鶴富姫の目的でした。
だから、芝居でありながらも、本当に献身的に愛し、大八郎を幸せへと導いていました。
さて……。
お腹の中の子供。
これをどう使おうか……。
鶴富姫は考えました。
いろんな計画が姫の中にはあったはずですが、表の歴史でもあるようにそうもいかなかったわけです。
そう、鎌倉への帰還が命ぜられたからです。
ここで鎌倉へ帰られては、復讐が果たせなくなる。
そうすれば良いか……。
一気に寝首を掻いてしまおうかと思いもしたが、そんなことすれば、鎌倉から大量の軍勢がやってきて、滅ぼされる。それ以前に一気に殺してしまえば、苦しめることができない。
鶴富姫の執念深さは、尋常ではないものでした。
鶴富姫の伝説上の俗称は蛇姫とも呼ばれています。
雰囲気は、ふくよかな感じだと聞き、女性としての美貌、肉体的な男性を引き寄せる色香は抜群のものでしたが、それでも蛇の印象が離れませんでした。
やはり、執念深さが外に滲み出ていたのかもしれません。
とにかく大八郎は帰ってしまう。お腹に子供がいる。
どうすればいいか……。
考えあぐねているうちに、大八郎から、案が発せられ、姫の心は決まりました。
「生まれた子が男なら我が故郷、下野の国へ。女ならこの地で育てよ」
姫は男を産んで、育てて、下野の国へ行かせて、そこで、子供に復讐をさせるという計画をたてたようです。これは文献などでは残っている話ではありませんが、側近などに話したことが、口伝いに紡がれて、今に残っているお話です。
中にはいろんな意思が働いて、話がねじ曲がって伝わってしまう場合もあります。
それを調べる術はありませんが、今の話を信じると、こうなのです。
姫は生まれてくる子供を男の子だと信じて、大八郎を送り出しました。
来たるべき復讐の日を夢見て。
ところが生まれてきたのは女の子だったのです。
姫は悔しがりました。こんなことなら、あの時いっそ、村が滅ぼされようとも、大八郎を殺しておけばよかった。自分の執念深さが仇になったことを思い知りました。
女の子が生まれたことに落胆した姫は、赤子に乳も与えず、落胆する毎日。
赤子は側近の女性に世話をされ、何とか命を保っていました。
いっそのこと命を断とうとも思いましたが、それにしても大八郎が憎くてたまらない。
苦しんで、死ねない、憎い、苦しんで、死ねない、憎い……。
そんな思いの繰り返しが、やがて生まれてきた、大八郎の血を受け継いでいる赤子に憎しみの矛先が向けられました。
その日から、姫……裏では蛇姫と呼ばれています。蛇姫は赤子をしっかりと大切に育てるようになりました。
執念深い蛇姫は、自分の娘でもある大八郎の血を受け継いだ子供を、大切に育て、やがて大人になってから、大八郎に与えたかった苦しみのどん底に落としてやろうと、計画をたてました。
そうだ……。
女の苦しみ。
愛する者を奪われる苦しみを、娘に味あわせてやればいい。
蛇姫はそんな復讐の念を沸々と抱きながら、表向きは優しく娘を育てたのです。
村人が少しだけ不審に思ったのはそれから5年たっても10年たっても15年たっても、蛇姫は歳をとりませんでした。
もちろん、見かけは……という意味です。
いつまでたっても、見かけは美しい姫のまま、娘も大きくなり、娘が母親の美貌を受け継いで、すっかり大人の顔つきや体つきになっても、蛇姫の若さは衰えることなく、娘と並ぶと姉妹と間違われるほどでした。
そして、表の記述通り、娘は婿をとることになり、蛇姫は婿に那須下野守と名乗らせました。
機は熟した。
まず、蛇姫は娘の最愛の夫である那須下野守を、その美貌で誘惑しました。
娘と遜色ない若さと美貌を保っていた蛇姫の魅力に負けて、那須下野守は蛇姫と逢瀬を重ねていたのです。
(庭の山椒の木鳴る鈴懸けて)
(鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ)
(鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ)
(駒に水くりょというて出ましょ)
これは「ひえつき節」の大八郎と鶴富姫の逢瀬を唄った一部です。
これが裏では、1番目の節が(庭の山椒……)ではなくて、(山の山椒……)になり、4番目の節が、(駒に水くりょ……)ではなく(何も言わずに出ておじゃれ)となっています。
これは、(屋敷から離れた場所にある、炭焼き小屋の横の木に掛けられた鈴がなったら、屋敷を出てきてほしい。出て行く時は、どういって、出ればいいか? 嫁には何も言わず出ておいでなさい)というような、意味になります。
どうして、言い訳をさせなかったのかというと、娘に不信感を与えるという効果を考えたようです。
度々、何も言わずに出て行く夫を娘はずっと訝しげに思っていました。
しかしこれと言って探りもせずにいたら、程なく蛇姫が妊娠しました。
娘を妊娠した時もそうでしたが、臨月に入るまでお腹は大きくならず、そのことに誰も気づきませんでした。
ぽってりと出たお腹を見て、何とも言えずにいる娘と、どちらにも気を遣う那須下野守。
村人も、家の者も緊張する毎日を送りました。
この後、一体、どうなるのだろうと。
もう赤ん坊が生まれそうな頃になると、蛇姫は炭焼き小屋に籠るようになりました。
この炭焼き小屋は、集落から外部に出る山道の途中にあり、元々は、蛇姫と大八郎に殺された許嫁が逢瀬を重ねていた場所でした。
その場所を、蛇姫は那須下野守との密会にも使っていたのです。
蛇姫が籠って10日ほど経ちました。
身の回りの世話は、昔から蛇姫の世話をしている、一番、年寄りの側近がしていました。
多分、この時の話は、この年寄りから伝わったことだと思われます。
赤ん坊がそろそろ生まれそうな頃、蛇姫は娘を炭焼き小屋に呼び出しました。
娘は驚きました。
その年寄りに聞かされたのですが、いよいよ産まれるので、産婆の代わりに娘に赤ん坊を取り上げてほしい。その間は二人っきりになる、年寄りの世話もここまでで、あとは私の手伝いをして、しばらく二人きりになってはくれないかと。
この驚くべき提案に、娘は身を震わせました。
母の身ごもっている子供は、夫である那須下野守の嫡子であることは間違いなく、夫も、最近はもう言い逃れられないと思っているのか、そのようなことを示唆するような言動をし、娘の機嫌を伺っていた。
それに、多分、那須下野守にも母の真意はわからないようだ。
妊娠してからは、逢瀬も少なくなり、特にここ一月ほどは顔も合わせていない。
蛇姫が普通に子供を産もうとしていることに、那須下野守自身、驚いていたが、大八郎が出て行ってから、屋敷の実権を握っている蛇姫には何も言えなかった。
娘も婿も、不安に思いながらここ一月ほどを過ごしていたのである。
そんな中での蛇姫の提案に、訝しく思いながらも娘は受けるしかなかったのでした。
夫にもその旨を伝え、3日分くらいの食糧と、母の欲した、大八郎から授かった、名刀「天国丸」を持って、炭焼き小屋に向かいました。
「天国丸」は、生まれてくる子はきっと男の子だから、その子に与えるのだと。
考えてみたら、「天国丸」は母がいつも肌身離さず持っていた、大八郎の形見のようなものだ。そんな大事なものを、忘れていったのかしら……変に思いながらも、本来は自分が男の子を産んで、その子が「天国丸」を授かるのが筋ではないかと軽い嫉妬心を覚えつつ、娘は母の言いつけを守りました。
そして母はもうひとつ、夫や屋敷の者におかしなルールを年寄りの口を借りて言付けた。
炭焼き小屋の横に山椒の木があり、そこに鈴をぶら下げてあります。
鈴の存在は、屋敷の者は周知していました。
昔は屋敷の傍に掛けてあった鈴が、今では炭焼き小屋の傍に掛けられていることを。
もちろん、鈴の音が那須下野守との逢瀬に使われていることも。
その鈴の音は、炭焼き小屋から鳴らすと、風の音に混じって微かではありますが、自分の存在を主張するように、しっかりと聞こえて来ます。
多分、山の中で小さく細く、響き渡るのでしょう。
それを、蛇姫か娘かが朝起きて1回、夕方に1回、寝る前に1回鳴らすので、その音が聞こえているうちは、安心して仕事に励み、誰も炭焼き小屋には近づかないようにと。
今回の出産は神聖なものだからという蛇姫の意向と、何か恐ろしい事が起きるのではないかという猜疑心が、屋敷中の人間にじわじわと染みわたっていきました。
何か、二人で儀式を行い、それが終わるまで人との接触を避けたいという理由があったようです。だから、二人が炭焼き小屋から下りて来る時は、すべてが終わった時だということでした。
鈴の音が自分たちの逢瀬の合図だと、皆に気づかれているとは思ってもいない那須下野守は、恥ずかしがりもせず、自分の嫁を送り出しました。もちろん子供が生まれて、自分たちの関係が一体どうなるかなんて想像できません。
この時、既に那須下野守は酒を毎日飲んでいました。
娘が上がって1日目、鈴の音は3回とも聞こえました。
屋敷には20人以上の者が住んでおりました。
一人が聞きそびれても、他の者が聞いていればいいのです。
2日目、娘が炭焼き小屋に上がった日でも子供が生まれてもおかしくないので、もしかしたら、この日にでも生まれているかもしれない……そう思いながら、みんな耳を澄ませて、鈴の音を3回確認しました。
3日目、よくよく考えたら、どの時期に二人は小屋を降りてくるのだろう……とみんな考えていました。生まれてすぐなのか、2日経ってからなのか……1週間なのか。
儀式とは一体、どんなものだろう。
そんな習慣、椎葉村にはない。
蛇姫があみ出した、新しい宗教的なものなのだろうか?
4日目が過ぎました……。
鈴の音は相変わらず聞こえます。
娘が持って行った食料はもう尽きているはずです。
ただ、もともとあった分で5日くらいはもつだろうと、年寄りが皆に安心するように言いました。
それから10日間、鈴の音は毎日3回、しっかりと聞こえました。
炭焼き小屋には厠も風呂もあり、井戸もあります。食糧さえ備蓄していれば、そこで生活することは充分可能なのです。
ただ、赤ん坊が生まれて、果たしてあんな小屋で10日間も過ごすことができるのだろうか?
と、不安に思いながらも、鈴の音がなるうちは……とみんな蛇姫の言いつけを守るのでした。
何か悪い事がおきるに違いない……と思いながら、20日程経ちました。
食料は絶対ないはずです。それでも鈴の音は聞こえてくるので人々は動けないでいました。
山の上で何かが起こっている。その間、狩猟を含め、山に入る事を止められているので、村人の仕事の3分の1も止められていたので、全体的にどんよりとした生活をしていました。それよりも、その何かが怖くて、鈴の音が早く止まればいいのにと思う反面、止まったら恐ろしい事が起きてしまうと、未知の恐怖に慄いていました。
そして30日目の朝。
鈴の音は聞こえませんでした。
しかも、その日は前日から雷雨が激しく、蛇姫が炭焼き小屋に籠ってから初めての荒れた天候だといってもいい日でした。
夜中には雷が伴い、朝になって雷は多少治まったものの、空はどんよりと曇り、雨粒は大きく、笠を被っていても痛いほどでした。
そんな状態でしたから、鈴の音が聞こえなくても、みんなそこでは動きだしませんでした。
もう当たり前のように1日3回響く鈴の音に慣れてしまったこともありました。いつしかこの音は永遠に続くのではないかという錯覚にも陥っていたのです。
まずは自分の耳を疑っていました。
風雨、雷雨に紛れて届かなかったのではないか?そんな疑いでしたが、わかっていたのです。あの鈴の音はどんな天候でも聞こえることを。
ただ、雷に鈴の音が押しつぶされているかもしれないと思い誰か、聞いた者はいないか、一通り探しました。
中には情報が混乱してしまい、誰かが聞いたという噂が飛びまくりましたが、よくよく調べると、その噂の者も聞いていないのです。
それでも動けずにいたのは、半分は聞き逃したかもという疑いと、半分は何か恐ろしい事が起きるかもという、謂れのない恐怖。
雷が鳴らなくなり、雨粒が小さくなった昼の鈴が聞こえないことを確認して、やっと動き出しました。
万が一のことがあったらと、屈強な男性を含んで、20人程度の人間が山に上がりました。
中には那須下野守もいました。
側近の年寄りもいました。
雷や雨は治まったけど、そらは相変わらず曇天で、生い茂った木々も手伝ってか、山の中は夕暮れと夜の間くらい暗くて、火で照らしながらでないと進めませんでした。
それでも、やっとのことで、炭焼き小屋に辿り着き、那須下野守が最初に扉を開けました。
そこには……。
うつ伏せに倒れている娘がいました。
衣服はぼろぼろですが、それよりも人々が異様な光景に驚いたのは、壁という壁、床という床が、血だらけだったのです。
もしかしたら赤い染料だったのかも知れませんが、それでも人々は血だと思いました。
匂いが、鶏を絞殺した時、猪を解体する時に漂うものにそっくりだったのです。
もう少し細かい描写ができればよかったのですが、何せ800年前の話です。
実際は、もっとシンプルになったり、語り手が尾ひれをつけたりしているものです。ここでは倒れていた事と、周りが血だらけだったという事実だけお話します。
最初はみんな、娘が死んでいるのかと思いました。
それよりも、蛇姫がいない……。
産まれたはずの赤ん坊も……。
倒れている娘を那須下野守が抱き起こすと、息はありました。深刻な状況ではなく、疲れて眠っているような感じで、顔は綺麗でした。
周りのおびただしい血とは相反して、白い肌。
そこにいた人みんな、一瞬は蛇姫だと見間違えました。
親子だし、蛇姫がいつまでたっても若いままだったので無理もありません。
言いかえれば、前は姉妹のようにそっくりだったけど、今は、本人のようにそっくり。
しかし、衣服や、髪の形など細かい部分を見ると、やはり娘のほうなのです。
一行は、とりあえず娘を屋敷へ戻す部隊と、蛇姫を探す部隊に分かれました。
炭焼き小屋ではどこを探しても蛇姫の姿は見えませんでした。
周りの血は、鮮血ではなく、どこか乾いていて黒ずんでいました。
囲炉裏には鍋の残りがあり、冷めていましたが、肉のような物が沈んでいました。
ここはかなり細かい描写なのですが、何故か、鍋の肉はずっと語り継がれているようです。
それだけ異様だったのでしょう。
食料はとっくに尽きたはずなのに、鍋を食べていた。しかも何の肉かわからないけど、肉鍋でした。一緒に入っていた山菜などは炭焼き小屋からそう遠くに行かなくても採取することができました。
いくら調べても蛇姫の痕跡が見つからず、周りの血も蛇姫のものかどうかなんて、そんな昔にわかるはずもありません。
ただ、人々は、こう思ったようです。
実は、やっぱり、娘だと思っていたのが蛇姫で、娘は殺されたのではないか?
そうだとしたら赤ん坊は?
もしかしたら土間に転がっていた天国丸だけが知っていたのかも知れません。
結局、何も手がかりを得られず、一行は天国丸と、山椒の木に吊り下げられていた鈴を屋敷まで下ろしました。
今では鈴は博物館ではなく、裏の宝物庫にしまわれており、「天国丸は」どこに行ったかわからなくなりました。
戦前になくなってしまいましたが「炭焼き小屋」は「菩薩小屋」と長い間呼ばれていました。




