第六話・最終話 冥界モノレール開業、なお靴は片方ない
第六話・最終話 冥界モノレール開業、なお靴は片方ない
冥界にも、開業の日は来る。
もっとも、天界の暦と地獄の暦と、桃源郷の暦が微妙にずれていたため、開業式の開始時刻を決めるだけで、庶務担当は三日ほど寿命を縮めた。
死んでいるのに、である。
「午前十時。これで統一します」
庶務担当は、三つの暦を机の上に並べ、赤い判を押した。
「天界も地獄も桃源郷も、午前十時です。異議は受け付けません」
「冥界にまで時差があるとはねえ」
孟婆が感心したように言った。
「時差というより、各部署が自分の時計を正しいと思っているんです」
「生前と変わらないわね」
リリスが肩をすくめた。
「人間は死んでも、会議のやり方だけは変わらないのね」
「人間だけではありません」
庶務担当は、三つの暦を束ねて書類箱に入れた。
「神々も、鬼も、役所も、だいたい同じです」
開業式の会場には、再利用された中古モノレールが静かに停まっていた。
車体は、地獄酒場の広告で飾られている。
大きく書かれた宣伝文句は、こうだ。
**『地獄酒場――あの世の一杯、帰りの足もご用意します。』**
その下には、桃源郷の水力発電で動く車両らしく、どこか涼しげな波模様まで描かれていた。
「酒場の広告なのに、ずいぶん爽やかね」
マテルダが言った。
「お酒は仕事が終わってから。運転中は飲まない。乗務前の飲酒チェックも済ませた。広告と安全は、別の話です」
リリスは、乗務員の記録簿を確認した。
専用機器による検査結果は、全員、問題なし。
記録も保存されている。機器に異常が出た場合の手順も決まっている。検査ができなければ、確認できるまで乗務させない。
「よし。白雲さん、お願いします」
「承知しました」
白雲は運転席で、ゆっくりとうなずいた。
天界の循環線を三百年運転してきた男である。
ただし、今回の車両は、これまで乗ってきた車両とは違う。
「最後の確認をします」
白雲が計器を確かめる。
保守点検担当者が車両と設備を確認し、電気系統の担当者が電源を確認する。運行担当者は連絡設備を確かめ、緊急時の連絡手順をもう一度読み上げた。
桃源郷の水力発電から電力が供給されている。
万一に備えた地獄の火力発電との連携手順も、書類上だけではなく、必要な確認を済ませていた。
「車両、異常なし」
「電源、異常なし」
「連絡設備、異常なし」
「緊急時の手順、確認済み」
報告が順番に届く。
庶務担当は、書類の最後に判を押した。
「運行管理者の確認、完了。開業して差し支えありません」
その言葉を聞いた瞬間、孟婆が両手を打った。
「さあ、始めましょう!」
*
開業式には、十王が列席していた。
冥界の交通機関が新しくできるのだから、関係各所の偉い方々にも見届けてもらおう、という話になったのである。
十王の一人が、車両を見上げた。
「これが、例の中古モノレールか」
「はい。必要な整備と安全確認を済ませております」
庶務担当は、いつもの調子で答えた。
「新品ではないのだな」
「新品ではありません。しかし、古いことと、安全でないことは同じではございません。確認すべき箇所を確認し、必要な整備を実施しております」
十王は、車両をもう一度見た。
「なるほど。では、動くところを見せてもらおう」
「そのための開業式です」
奪衣婆が、いつの間にか赤いテープの前に立っていた。
「ちょっと待ちなさい!」
全員が振り返る。
「テープカットの前に、靴を確認します!」
「今ですか?」
庶務担当の声が裏返った。
「今です。開業の日に、靴の管理を怠るわけにはいきません!」
奪衣婆は、列席者の足元を一人ずつ確認した。
右足、左足。
右足、左足。
十王の足元まで、念入りに確認する。
「よし。こちらは問題ありません」
「……それは、ありがたいことだ」
十王が、少しだけ困った顔で答えた。
「では、テープカットをお願いします」
マテルダが進行表を差し出した。
そこには、きちんと書かれていた。
**十時〇五分 開業式・テープカット。**
その下には、庶務担当の字で、さらに小さく、
**奪衣婆の靴の確認**
と記されている。
「こんな項目まで、進行表に入れたの?」
リリスが尋ねた。
「入れなければ、式の途中で始まりますから」
庶務担当は疲れた顔で答えた。
「最初から予定に入れておけば、予定どおりに進行できます」
「立派な危機管理ね」
「褒めている場合ではありません」
いよいよ、テープカットの時が来た。
十王が鋏を手に取る。
孟婆、奪衣婆、マテルダ、リリスが、その横に並んだ。
庶務担当は、少し離れた場所で時計を見ていた。
「それでは――」
司会の声が響く。
「冥界総合受付課、モノレール開業です!」
鋏が動いた。
赤いテープが、ぱちんと切れた。
拍手が起こった。
鬼たちが歓声を上げ、保守点検担当者たちも顔を見合わせて笑った。
長い書類の山。
何度も繰り返した確認。
運転手の採用、乗務員の配置、電源の確保、広告契約、点検体制。
その一つひとつが、ようやく一本の線につながった。
モノレールは、動き始めた。
*
最初の乗客が、乗車口にやって来た。
天国川ルートから来た、白い衣の老人だった。
乗車口には、浄玻璃鏡が設置されている。
老人が鏡の前に立つと、善行ポイントが表示された。
**善行ポイント――十二点。**
「十二点。乗車できます」
係の鬼が案内した。
老人はほっとした顔で、車内へ進んだ。
続いて、別の乗客がやって来た。
鏡に表示された数字は、七点だった。
「七点です。申し訳ありませんが、天国川ルートの乗車条件を満たしていません。徒歩ルートをご利用ください」
「ええっ、歩くのか!」
「はい。桃源郷から低廉な電力供給を受ける条件として、天国川ルートの乗車には善行ポイント十点以上が必要です」
「あと三点、何とかならないかね?」
「ここで点数を加算する制度はございません」
「融通が利かんなあ!」
「規則でございますので」
鬼は、丁寧に徒歩ルートを指し示した。
その様子を見ていた十王の一人が、庶務担当に尋ねた。
「地獄川ルートから来る者も、十点必要なのか?」
「いいえ。こちらは桃源郷との電力供給契約に基づく、天国川ルートの乗車条件です。地獄川ルートの乗車条件とは別でございます」
「なるほど。契約が違えば、条件も違うというわけか」
「そのとおりでございます」
十王は、深くうなずいた。
「冥界の交通行政も、なかなか複雑だな」
「生前の行政と、大差はございません」
庶務担当は、笑顔で答えた。
その笑顔は、どこか遠い場所を見ていた。
*
モノレールは、川の向こうへ走っていった。
白雲の運転は、落ち着いていた。
車内では鬼たちが、それぞれの持ち場を守っている。
一人は乗車案内と乗車券の確認。
一人は車内の安全確保。
一人は乗客からの苦情への対応。
もう一人は運転士の安全を守り、運行を支える。
苦情がないわけではない。
「どうして、もっと速く走れないんだ!」
乗客が声を上げた。
鬼が、静かに答えた。
「安全運行のためです」
「こっちは死んでるんだぞ!」
「死んでいることと、事故が起きないことは別です」
鬼は、にこりともせずに続けた。
「運行に関するご意見は、受付で承ります。乗務員への威圧や迷惑行為はおやめください」
乗客は、しばらく黙った。
「……分かったよ」
「ご理解ありがとうございます」
鬼は一礼した。
車両は、何事もなかったかのように進んでいった。
そのころ、駅のホームでは、孟婆が空を見上げていた。
「動いたわねえ」
「ええ」
マテルダが答えた。
「いろいろな川があって、いろいろな行き先がある。全部を一つにする必要はないのよ。つなぐ道があればいい」
リリスは、広告の貼られた車体を眺めた。
「それに、働く人間……いえ、働く者たちが、きちんと休めること。安全に働けること。そこを忘れたら、どんな立派な乗り物でも長続きしないわ」
「そうですね」
庶務担当は、手元の書類を閉じた。
「ようやく、開業です」
その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
これで、受付に殺到していた迷える者たちも、以前よりは楽に川の向こうへ渡れる。
職員たちも、少しは余裕を持って働けるだろう。
もちろん、問題がすべて消えたわけではない。
冥界の仕事は、今日も明日も続く。
だが、少なくとも一本、道ができた。
それは、決して小さなことではなかった。
*
夕方。
初日の運行を終えた白雲が、車両を所定の位置に戻した。
乗務員は全員、無事に勤務を終えた。
飲酒チェックの記録も、運行記録も、点検記録も、きちんと保存された。
桃源郷の水力発電も、地獄の火力発電も、予定どおりに機能した。
地獄酒場からは、広告契約どおりの支払いが届いた。
そして、奪衣婆は、ホームの隅で何かを探していた。
「ない!」
大声が響いた。
庶務担当が、ゆっくりと振り返った。
「……今度は何ですか?」
「靴よ!」
「またですか!」
「またとは何ですか、またとは! 靴は大事なのです!」
奪衣婆は、片足を上げた。
右足には、靴がある。
左足には、ない。
「誰か、私の靴を見ませんでしたか!」
孟婆が、モノレールの車内をのぞいた。
マテルダが、ホームの下を確認した。
リリスは、運行記録を開いた。
「乗客の忘れ物は、届け出があれば記録することになっているわ」
「私の靴は、忘れ物ではありません!」
奪衣婆が叫んだ。
「私が履いていた靴です!」
「つまり、落とし物ですね」
庶務担当が言った。
「そういう問題ではありません!」
奪衣婆は、地面を踏み鳴らした。
そのとき、モノレールの車内から、鬼が顔を出した。
「奪衣婆様。こちらに片方、ございました」
「どこに?」
「最後尾の座席の下です」
「なぜ、そんなところに!」
「存じません。記録上は、乗客の忘れ物ではなく、職員の落とし物として扱うことになります」
「職員の落とし物ですって?」
「はい。規則ですので」
奪衣婆は、靴を受け取った。
そして、しばらくの間、じっとその靴を見つめていた。
「……次からは、靴の点検も乗務前に実施します」
リリスが、すぐさま首を横に振った。
「それを正式な業務にするなら、担当者と所要時間と責任範囲を決めてからにして」
「むう……」
奪衣婆は、不満そうに靴を履いた。
庶務担当は、進行表の最後に小さく書き足した。
**開業初日、運行正常。重大事故なし。靴一足、所在確認済み。**
書き終えると、彼は静かにペンを置いた。
「……明日も、よろしくお願いします」
誰に向かって言ったのかは、本人にも分からなかった。
冥界の川は、今日も流れている。
天国へ向かう者も、地獄へ向かう者も、まだ行き先を決められない者もいる。
そのすべてを、一本の乗り物で解決することはできない。
けれど、行き先の違う者たちが、それぞれの道へ向かえるように。
そして、道をつくる者たちが、無理なく働き続けられるように。
冥界総合受付課の四人は、明日も受付に立つ。
その足元には、ちゃんと靴がそろっていた。
――少なくとも、その日の夕方までは。




