第四話 善行十ポイント未満は、徒歩でお願いします
第四話 善行十ポイント未満は、徒歩でお願いします
冥界総合受付課の会議室には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
机の上には、三枚の書類が並んでいる。
一枚目。
**『中古モノレール導入計画書』**
二枚目。
**『運転手および獄卒採用計画書』**
三枚目。
**『地獄酒場広告契約に関する協議書』**
孟婆は、三枚の書類を順番に眺め、満足そうにうなずいた。
「ずいぶん、仕事が進んだねえ」
「ええ。進みましたとも」
庶務担当は、目の下に深い隈を作って答えた。
「ただし、車両の受け入れ検査はこれからです。電力供給の契約も確定していません。広告契約も交渉中。運転手の採用手続きも残っています」
「でも、運転手はいるんでしょう?」
「候補者です」
「獄卒もいるんでしょう?」
「採用条件を協議している段階です」
「酒場も広告を出してくれるんでしょう?」
「広告費を徴収する方針が決まっただけです!」
庶務担当の声が、会議室に響いた。
奪衣婆が、茶碗を置く。
「朝から、そんなに怒鳴るんじゃないよ。血圧に悪い」
「私は死んでいます!」
「死んでいても、怒りすぎはよくないよ」
「その健康指導、どこに根拠があるんですか!」
マテルダは、静かに手帳を開いた。
「それで、本日の議題は何でしょう?」
リリスが答えた。
「二つあります。保守点検担当者の採用。それから、乗車資格の確認です」
「乗車資格?」
孟婆が首を傾げた。
「そうです。モノレールを走らせることばかり考えていましたが、誰でも自由に乗れるわけではありません」
リリスは、新しい書類を机の中央に置いた。
そこには、大きな文字でこう記されていた。
『天国側ルート・乗車資格確認規程(案)』
孟婆が、書類をのぞき込む。
「天国側ルート?」
「桃源郷から、格安で水力発電の電力を融通していただく話が進んでいます。
その契約条件として、天国側から乗車する亡者には、浄玻璃鏡による善行ポイントの確認が必要になるんです」
「浄玻璃鏡で?」
「はい。乗り口に鏡を設置して、乗客の生前の善行をミラーリングします」
マテルダが、手帳に書き込んだ。
「善行ポイントが十点以上なら乗車可能、ということですね」
「そのとおりです」
奪衣婆が、腕を組んだ。
「十点に届かなかったら、どうするんだい?」
リリスは、あっさり答えた。
「徒歩です」
「……徒歩?」
「徒歩です」
「モノレールに乗れないんだろう?」
「はい」
「じゃあ、歩くんだね?」
「はい」
奪衣婆は、満足そうにうなずいた。
「簡単じゃないか」
庶務担当は、額を押さえた。
「簡単ではありません。徒歩ルートの案内、標識、休憩場所、迷子への対応なども考えなければなりません」
「でも、歩けるんでしょう?」
「歩ける道があれば、です!」
孟婆が、にっこり笑った。
「じゃあ、道を作ればいいんだね」
庶務担当は、目を閉じた。
この人たちは、何かを簡単だと言うたびに、仕事を増やしていく。
「そもそも、なぜ十ポイントなんですか?」
マテルダが尋ねた。
「桃源郷との電力供給契約に付随する条件です。天国側からの乗客については、その基準を満たす必要があります」
「なるほど。では、地獄側からの乗客にも同じ条件が適用されるのでしょうか?」
「いいえ。今回の条件は、天国側からの乗客について定められたものです」
リリスは、念を押すように答えた。
「地獄側の乗客については、別途、運行条件を整理する必要があります。契約書に書かれていない条件まで、勝手に追加するわけにはいきません」
その言葉に、庶務担当は少しだけ安心した。
少なくとも、書類の上では話が整理されている。
そのときだった。
会議室の扉が開き、伝令の獄卒が顔を出した。
「失礼します! 十王様方から、ご質問が届いております!」
「質問?」
「はい。『天国側の乗客には善行ポイントの基準があるそうだが、地獄側の乗客はどうなるのか』とのことです」
リリスは、庶務担当を見た。
庶務担当は、書類を一枚取り出した。
「回答案は、すでに用意してあります」
「早いですね」
「こうなると思っていましたので」
回答案には、こう書かれていた。
**『本規程は、桃源郷からの電力供給契約に付随する、天国側からの乗客に関する条件です。地獄側の乗客については、別途協議いたします』**
リリスは、満足そうにうなずいた。
「いいでしょう。これで回答してください」
伝令が去ると、孟婆が感心したように言った。
「庶務担当は、仕事が早いねえ」
「早くしないと、仕事が増えるんです」
「どういうことだい?」
「皆さんが会議で思いついたことを、全部、後から私が処理することになるからです!」
奪衣婆は、笑った。
「まあまあ。これで乗車資格の問題は整理できたじゃないか」
「整理できたのは、天国側の条件だけです!」
「それでも、一歩前進だよ」
マテルダは、静かにうなずいた。
「それでは、次の議題に進みましょう。保守点検担当者の採用です」
庶務担当の顔から、笑みが消えた。
「……そうでした」
リリスは、別の書類を取り出した。
**『冥界モノレール保守点検担当者 採用募集要項(案)』**
「車両を安全に運行するには、整備を担当する人が必要です。電気設備、駅の設備、運行に関わる施設についても、必要な知識や技能を持つ人を確保しなければなりません」
孟婆が尋ねた。
「応募資格は?」
「担当する業務に必要な経験や技能があること。具体的な条件は、車両と設備の仕様が決まってから確定します」
「死んでいることは、応募資格に入るのかい?」
「ここは冥界ですから、そこは問題になりません」
「じゃあ、生前に機械をいじっていた者を探せばいいね」
「そういうことです」
孟婆は、満足そうに笑った。
「簡単じゃないか」
庶務担当は、ゆっくりと顔を上げた。
「……どこから探すんです?」
「え?」
「冥界に、鉄道保守の経験者が何人いるか、ご存じですか?」
四人は黙った。
マテルダが、慎重に口を開いた。
「天界には、交通機関の運用や整備に携わった者がいるかもしれませんね」
「天界に求人を出すんですか?」
「候補者を照会する、という意味です」
「照会状を作るのは誰です?」
「……庶務担当さんでしょうか」
「ですよね!」
庶務担当は、すでに用意していた天界宛ての照会状を机に置いた。
リリスは、その仕事の速さだけは評価した。
「準備はいいですね」
「準備しないと、皆さんが会議で思いついたことを、全部、私が後から処理することになりますから」
「なるほど。では、次の問題に移りましょう」
「次があるんですか!」
リリスは、うなずいた。
「あります。車両が故障した場合です」
孟婆が、ぱっと顔を輝かせた。
「それなら、簡単じゃないか」
全員が孟婆を見た。
「車両が壊れたら、ジップラインにすればいいんです」
沈黙。
奪衣婆が、ゆっくりと茶碗を置いた。
「……なんだって?」
「だから、ワイヤーを張って、ぶら下がって向こう岸まで行けばいいんですよ」
「亡者を?」
「亡者を」
「みんなを?」
「みんなを」
「荷物も?」
「荷物も、運べるように考えればいいでしょう」
奪衣婆は、しばらく孟婆を見つめた。
「おまえさん、あの世に来てから、ずいぶん大胆になったねえ」
「生前からです」
「そうだったね」
マテルダは、手帳に何かを書き込んでいた。
「代替輸送手段としてのジップライン……。興味深い案ではあります」
リリスは、すぐに釘を刺した。
「案として検討するのは構いません。ただし、モノレールの故障時に、すぐ切り替えられるものではありません」
孟婆が不満そうに言った。
「どうして?」
「荷重、制動装置、着地点、天候条件、救助方法。安全に運用するための設備と手順が必要だからです」
「でも、みんな死んでいるんですよ?」
「死んでいることと、事故が起きないことは別です!」
リリスの声が会議室に響いた。
庶務担当が、すかさず議事録に書き込んだ。
『孟婆提案:ジップラインによる代替輸送。
設備、運用条件、安全性について別途検討を要する』
その下に、小さく付け加える。
『なお、提案者は保守点検担当者をまだ採用していないことを認識していない模様』
「ちょっと、今、何を書いたんです?」
孟婆が尋ねた。
「議事録です」
「余計なことを書いていませんか?」
「事実しか書いていません」
奪衣婆が、手を叩いた。
「いいじゃないか。モノレールが動かなくなったら、ジップライン。それも駄目なら歩けばいい」
「歩く?」
孟婆が聞き返した。
「そうさ。十ポイントに届かない亡者だって歩くんだろう? だったら、故障したときも歩けばいいじゃないか」
「それは、乗車資格の話とは別です!」
庶務担当が叫んだ。
「徒歩ルートを使えるようにするなら、誰でも安全に歩ける道が必要です。車両が止まった場合の避難や、途中で動けなくなった人への対応も考えなければなりません!」
会議室が静まり返った。
リリスは、議事録を手に取った。
「整理しましょう。第一に、天国側からの乗客は、浄玻璃鏡で善行ポイントを確認する。十ポイント以上なら乗車できる。届かなければ徒歩です」
「はい」
「第二に、桃源郷の格安水力発電は、その乗車条件と結びついた契約です。契約の対象を勝手に広げない」
「はい」
「第三に、車両と設備の保守点検担当者を募集する」
「はい」
「第四に、故障時の運休、代替輸送、徒歩ルートの運用を検討する。ジップラインは、実現可能性と安全性を調べてから判断する」
庶務担当は、力なくうなずいた。
「はい……」
孟婆は、少し残念そうだった。
「つまり、まだ飛べないのね」
「飛ぶことが目的ではありません」
リリスは、きっぱりと言った。
「亡者を、目的地まで安全に運ぶことです」
その言葉に、会議室は一瞬だけ静かになった。
死者たちにも、行きたい場所がある。
生前に会えなかった人に、もう一度会いたい者。
自分がどこへ向かうのか、まだ知らない者。
生前には遠くへ行く余裕がなく、死んでから初めて旅に出ようとする者。
彼らを運ぶための乗り物なのだから、走ればいいというものではない。
壊れたら、直さなければならない。
危険なら、止めなければならない。
乗れない者には、別の道が必要になる。
マテルダが、静かにうなずいた。
「それでは、保守点検担当者の採用募集を正式に進めましょう」
「はい」
庶務担当は、ようやく一枚の書類に決裁印を押した。
『冥界モノレール保守点検担当者 採用募集開始』
その瞬間、机の上に置かれていた別の書類が、ひらりと落ちた。
リリスが拾い上げる。
それは、庶務担当が作ったばかりの新しい募集案だった。
『ジップライン設備担当者 採用募集要項(未定稿)』
「……これは何ですか?」
リリスが尋ねた。
庶務担当は、真顔で答えた。
「先ほど、孟婆様が提案されたので、念のため作成しておきました」
「まだ導入するかどうかも決まっていませんよね?」
「はい」
「なのに、もう募集要項を?」
「皆さんの会議の進み方を考えますと、必要になる可能性がありますので」
リリスは、しばらくその書類を見つめた。
そして、そっと裏返した。
「これは、まだ出さないでおきましょう」
「承知しました」
孟婆は、満足そうに笑った。
「さすが庶務担当だねえ。仕事が早い」
庶務担当は、笑わなかった。
「ありがとうございます。ところで、皆様」
四人が彼女を見た。
「保守点検担当者の募集を始める前に、もう一つ決めていただきたいことがあります」
「何だい?」
「採用された方々の勤務時間と休日。それから、夜間の緊急対応を誰が担当するのかです」
四人の笑顔が消えた。
リリスが、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね。そこも必要です」
マテルダは手帳を閉じた。
孟婆は茶碗を持ち上げた。
奪衣婆は、なぜか自分の靴を確認した。
そして庶務担当は、会議室の壁に新しい紙を貼った。
『冥界モノレール事業 次回会議の議題』
一、保守点検担当者の採用条件。
二、勤務時間および休日。
三、故障時の運休判断。
四、天国川ルートの乗車資格確認手順。
五、善行ポイントが十点未満の亡者の徒歩ルート。
六、ジップラインの導入可能性。
七、その他。
最後の「その他」だけが、異様に大きな文字で書かれていた。
それを見たリリスが、ぼそりと言った。
「……この事業、いつになったら開業できるんでしょうね」
庶務担当は、壁の紙を見つめたまま答えた。
「私にも、わかりません」
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「庶務担当さーん! 地獄酒場から、広告のデザイン案が届きましたー!」
庶務担当は、目を閉じた。
リリスは、静かに立ち上がった。
孟婆は、嬉しそうに言った。
「おや、また仕事が進むねえ」
奪衣婆が笑った。
「そうだねえ。少しずつ、前に進んでいるじゃないか」
マテルダも、穏やかにうなずいた。
庶務担当は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……私は、いったい何百年、働けばいいんでしょう」
冥界総合受付課の窓の向こうでは、川が今日も流れていた。
まだモノレールは走っていない。
ジップラインも、橋もない。
善行ポイントの表示板も、まだ発注されていない。
けれど、亡者たちを運ぶための計画は、確かに一歩ずつ進んでいた。
ただし。
「採用募集の書類だけは、すでに車両の台数を超えそうだった。」




