第一話 冥界総合受付課、ポンコツ・モノレールを買う
第一話 冥界総合受付課、ポンコツ・モノレールを買う
死んだあとにも、交通問題はある。
生きている人間は、通勤電車が遅れれば怒る。道路が渋滞すれば文句を言う。地下鉄の乗り換えが遠ければ、設計者の良識を疑う。
だが、死者の場合は、事情が少々異なる。
そもそも、どこへ行けばよいのかがわからない。
三途の川を渡る者がいる。
ステュクス川やアケローン川に関わる物語もある。
ダンテの『神曲』に描かれたレーテーやエウノエーのような、文学作品に由来する水の道もある。
そして、川を渡るという仕組みでは説明できない死後観も、当然ながら存在する。
それぞれの伝承には、それぞれの歴史と事情がある。
ところが、冥界の交通行政を担当する者たちは、それらを一つの巨大な案内板に押し込もうとした。
結果。
案内板は、読めなくなった。
窓口は、足りなくなった。
廊下は、混雑した。
そして死者たちは、行き先の違う受付を、何度も何度も往復することになった。
冥界総合受付課。
そこは、死後の世界における交通問題の最前線だった。
*
「本日の苦情件数、四百十二件です」
庶務担当は、報告書を読み上げた。
孟婆が、鍋の向こうから顔を上げた。
「昨日より増えたね」
「はい。昨日は三百八十七件でした」
「何があったんだい?」
「三途の川方面の案内板が、ステュクス川方面の乗換案内を隠してしまいました」
「案内板を動かせばいいじゃないか」
「動かすと、地上楽園方面の矢印が逆になります」
マテルダが、静かに手を挙げた。
「それは、私の管轄ですね」
「直せますか?」
「案内板そのものは直せます。ただし、右と左のどちらを正しいとするか、交通管理部の決裁が必要です」
「右と左に決裁が?」
「もちろんです。方向には、責任が伴いますから」
庶務担当は、報告書を閉じた。
閉じたところで、問題は一つも解決しなかった。
奪衣婆が、片方だけの靴を机に置いた。
「それより、この靴の持ち主をどうにかしておくれ。三途の川の受付と、アケローン川の受付を三往復したんだ。靴底がすり減って、最後には片方をなくしたらしい」
「なぜ、そんなに往復を?」
「窓口を間違えたからさ」
「案内は?」
「案内板が、右と左で食い違っていたそうだよ」
庶務担当は、天井を見上げた。
天井は、何も答えなかった。
天井にまで答えを求めるようになったら、いよいよ退職時である。
彼は、すでに何度も退職を考えていた。
ただし、退職願の提出窓口が、どこにあるのかは知らなかった。
*
「交通網を整備しましょう」
リリスが言った。
彼女は、つい先日、冥界総合受付課に採用されたばかりだった。
採用条件を明確にしろ、勤務時間を決めろ、休日を確保しろと主張した結果、なぜか交通問題の改善まで担当することになった。
冥界では、仕事のできる者に仕事が集中する。
それを人事課は「適材適所」と呼び、現場では「またか」と呼んでいた。
「交通網?」
庶務担当が聞き返した。
「地下鉄を造るのよ。各地の受付を地下でつなぐの」
「地下鉄ですか!」
庶務担当の目が輝いた。
冥界の地下なら、掘る場所には困らない。
死者の世界なのだから、土地は無限にある。
少なくとも、土地の担当部署はそう主張していた。
しかし、孟婆は首を横に振った。
「地下鉄は高いよ」
「予算の試算があるんですか?」
「購買課から聞いた」
「購買課が?」
「地下鉄の建設費を調べるよう頼んだら、見積もりだけで三百年待ちだと言われたよ」
「三百年!」
「そのうえ、地質調査、トンネル工事、換気設備、排水設備、駅舎、信号、電力、避難通路……」
孟婆は、指を折って数えた。
「数えているうちに、こっちが死にそうになった」
「もう死んでいますよ」
「死んでいても、疲れるものは疲れるんだよ!」
奪衣婆が、口を挟んだ。
「なら、地上に鉄道を敷けばいいじゃないか」
今度こそ、庶務担当はうなずいた。
「そうです! 地下鉄よりは安いかもしれません!」
リリスは、机に置かれた試算書を見た。
「線路を敷いて、駅を造って、土地を整備して、踏切や信号を設置して、各路線の接続を調整して……」
「やめましょう」
庶務担当は、即座に言った。
「まだ何も決まっていないのに?」
「試算書の金額を見ました。私は、もう十分です」
紙の一番下には、赤い文字で記されていた。
『予算不足』
その下には、さらに小さな文字。
『なお、予算不足を解消するための予算は計上されていない』
冥界総合受付課の会議室は、静まり返った。
四人の女性が、同じ問題を見つめていた。
地下鉄は高い。
鉄道も高い。
しかし、死者を歩かせ続けるわけにもいかない。
このままでは、受付に到着する前に、死者が道に迷ってしまう。
いや、実際に迷っていた。
すでに何千人も。
*
「中古は?」
リリスが言った。
「はい?」
「中古の交通機関。使わなくなったものを買えば、新しく造るより安いんじゃない?」
庶務担当は、ゆっくりと顔を上げた。
「中古の……交通機関?」
「そう。車両を買って、必要な部分だけ整備する。新しく線路を敷くより、決まった区間を走る乗り物のほうがいいわね」
マテルダが、考え込んだ。
「各地の川や受付を結ぶには、乗り換えが必要です。すべての行き先を一本の路線で結ぶのは無理でしょう」
「だったら、複数の停車場を設ければいいのよ」
奪衣婆が、机を叩いた。
「停車場があるなら、靴をなくした者も降ろせるね」
「靴の問題は、交通網の問題ではありません」
「乗り物の中でなくす者もいるだろう?」
「……その場合は、確かに」
庶務担当は、余計な可能性を認めてしまったことを後悔した。
リリスは、古い交通資料の山を引き寄せた。
冥界総合受付課には、なぜか現世の交通機関に関する資料が大量に保管されていた。
誰が集めたのかは不明だった。
ただ、書庫の管理台帳には、こう記されている。
『参考資料。いつか役に立つ可能性あり』
その「いつか」が、千二百年ほど来なかっただけである。
リリスは、資料を一枚ずつめくった。
バス。
路面電車。
鉄道。
地下鉄。
ケーブルカー。
そして、一枚の写真で手が止まった。
「これよ」
写真には、二本のレールに支えられた、細長い乗り物が写っていた。
車体は宙に浮くように見える。
地上の道路を走るわけではない。
地下を掘る必要もない。
通常の鉄道とは異なる構造で、限られた区間を走る。
「モノレール?」
マテルダが、写真を覗き込んだ。
「そう。モノレールよ」
リリスは、資料の説明文を読み上げた。
「専用の軌道を使う。道路の混雑に巻き込まれない。ルートを限定すれば、地下鉄のような大規模なトンネル工事も必要ない。条件が合えば、鉄道を一から整備するより、導入費用を抑えられる可能性がある」
庶務担当は、身を乗り出した。
「つまり……安い?」
「比較的ね。もちろん、軌道や駅、電気設備、車両の整備は必要よ。何もない場所に、ただ車両を置けば走るわけじゃない」
「それでも、地下鉄よりは?」
「計画次第では」
「鉄道よりは?」
「それも計画次第」
庶務担当は、両手を握りしめた。
「希望が見えてきました!」
孟婆は、写真を見つめた。
「これなら、鍋を抱えて乗れるかね?」
「持ち込み規定は、これから作ります」
奪衣婆は、写真の車体を指さした。
「乗客の靴が落ちたら、どうするんだい?」
「窓を開けない構造にすれば、落ちにくいでしょう」
「靴が落ちないモノレールか。いいねえ」
マテルダは、路線図を広げた。
「この停車場から、三途の川方面へ。そこから乗り換えて、ギリシャ神話に由来する水の道の受付へ。さらに別の支線を設ければ、地上楽園方面の案内所にも接続できます」
「ただし、すべてを同じ宗教の仕組みにまとめてはいけないわ」
リリスが言った。
「それぞれの受付と交通経路は、区別して設計する。モノレールは、行き先を決める機関じゃない。決まった窓口へ、安全に移動するための交通手段よ」
四人は、うなずいた。
初めて、まともな計画が生まれた気がした。
少なくとも、この瞬間までは。
*
「中古のモノレールを探しましょう」
リリスは、庶務担当に命じた。
「はい! 新品ではなく、中古ですね!」
「そう。現世で使われなくなった車両があれば、購入費用を抑えられるかもしれない」
「すぐに調べます!」
庶務担当は、勢いよく書庫へ走っていった。
十五分後。
彼は、一枚の資料を抱えて戻ってきた。
「ありました!」
息を切らしながら、机に資料を広げる。
「日本の東京に、上野動物園のモノレールがあったそうです!」
「動物園?」
孟婆が眉をひそめた。
「死者ではなく、動物を運んでいたのかい?」
「いえ、人間も乗っていたそうです。動物園の東園と西園を結ぶ交通機関だったようです」
マテルダが、資料を読んだ。
「二〇二三年に運行を終了……」
「そうです!」
庶務担当は、胸を張った。
「運行を終了したのなら、車両が余っているかもしれません!」
「車両の状態は?」
リリスが尋ねた。
「……まだ、わかりません」
「売却する予定は?」
「……わかりません」
「軌道は再利用できるの?」
「……わかりません」
「車両の保管状態は?」
「……わかりません」
リリスは、腕を組んだ。
「あなた、わかっていることは何?」
庶務担当は、少し考えた。
「運行を終了した、ということです」
「それだけ?」
「はい!」
妙に元気な返事だった。
リリスは、深く息を吐いた。
「まあ、いいわ。候補が見つかっただけでも前進よ。実際に使えるかどうかは、技術担当に確認してもらいましょう」
「では、購入の申請を!」
「まだよ!」
四人の声が重なった。
庶務担当は、書類を胸に抱きしめた。
「……見積もりを取るだけです」
「それなら、よし」
リリスは、うなずいた。
「ただし、条件があるわ」
「何でしょう?」
「中古車両の価格だけで判断しないこと。車両の整備、部品の確保、軌道の設計、電気設備、停車場、避難方法。全部を含めて、費用を計算すること」
「承知しました!」
「それから、安全性の確認ができるまで、死者を乗せないこと」
「もちろんです!」
庶務担当は、力強く答えた。
そのとき、書庫の奥から、古い資料が一冊、落ちてきた。
表紙には、こう書かれていた。
『中古交通機関購入に関する注意事項』
リリスは、拾い上げた。
ページを開く。
最初の一文は、こうだった。
『安価であることと、安全であることは、必ずしも同義ではない』
リリスは、うなずいた。
「そのとおりね」
そして、二ページ目をめくった。
そこには、赤い文字で追記があった。
『特に、長期間使用されていない車両については、十分な点検を行うこと』
さらに、三ページ目。
『点検費用を節約する目的で、点検を省略してはならない』
四ページ目。
『点検の必要性について、点検担当者と協議すること』
五ページ目。
『点検担当者が不在の場合、点検担当者の採用を検討すること』
リリスは、静かに本を閉じた。
「……まず、技術担当者を雇わないといけないわね」
庶務担当の顔から、笑顔が消えた。
*
翌日、冥界総合受付課は、正式に「中古モノレール導入検討会」を開催した。
出席者は、孟婆、奪衣婆、マテルダ、リリス、庶務担当の五名。
交通技術担当者は、まだ採用されていなかった。
予算担当者は、予算不足を理由に欠席した。
安全管理担当者は、部署そのものが存在しなかった。
それでも会議は始まった。
「議題は、中古モノレールの導入についてです」
庶務担当が宣言した。
「第一に、費用面。地下鉄や通常の鉄道を一から整備する場合に比べ、条件次第では初期費用を抑えられる可能性があります」
「よし」
孟婆がうなずいた。
「第二に、交通の効率化。各地の受付を専用軌道で結ぶことで、死者の移動時間を短縮できる可能性があります」
「よし」
奪衣婆がうなずいた。
「第三に、導入に伴う課題。車両の状態、部品の調達、軌道の整備、電気設備、安全対策、運転士の採用、保安要員の配置、維持費の確保が必要です」
マテルダが手を挙げた。
「つまり、安く買えても、安く運行できるとは限らないのですね」
「そのとおりです」
庶務担当は、真剣な顔で答えた。
「そして第四に、安全性です」
ここで、全員が黙った。
リリスが、ゆっくりと言った。
「中古の車両を使う以上、状態の確認は必須よ。安全性に問題があるなら、どれほど安くても採用できない」
「では、安全性の確認が終わるまで、購入は保留ですね」
マテルダが言った。
「そうね」
リリスは、うなずいた。
会議は、まともに終わるはずだった。
しかし、庶務担当が最後の資料を配ったことで、すべてが変わった。
それは、現世の中古車両に関する参考見積もりだった。
金額は、想定よりもずっと安かった。
もちろん、輸送費や整備費は含まれていない。
車両の状態も未確認。
部品が入手できるかどうかも不明。
それでも、数字だけは魅力的だった。
孟婆が、そっとつぶやいた。
「……これなら、買えるんじゃないかい?」
奪衣婆が、うなずいた。
「靴の再確認窓口を増やすより、安いかもしれないね」
マテルダは、資料を見つめた。
「案内板を百枚作り直すよりも、費用を抑えられる可能性があります」
三人の視線が、リリスに集まった。
リリスは、腕を組んだまま、しばらく考えていた。
そして、言った。
「購入するかどうかは、安全性の調査をしてから決めるわ」
庶務担当は、ほっとした。
「よかった……」
「ただし」
リリスが続けた。
「調査費用の見積もりは、今すぐ取って」
「はい!」
「運転士の募集要項も作成して」
「はい!」
「保安要員の必要人数も検討して」
「はい!」
「それから、運行ルートの案を作って」
「……はい」
庶務担当の声が、少しずつ小さくなった。
「あと、予算担当者には、明日の会議に出席してもらうこと」
「……はい」
「欠席するなら、こちらから出向くわ」
「……はい」
「予算がないからといって、安全対策を省略することは認めない」
リリスは、資料を机に置いた。
「安いから買うんじゃない。安く、安全に運用できる方法があるかを調べるのよ」
その言葉に、誰も反対しなかった。
少なくとも、その場では。
*
会議が終わったあと。
庶務担当は、廊下のベンチに座り込んでいた。
膝の上には、分厚い仕事の束。
中古モノレール導入検討資料。
安全性調査の依頼書。
運転士募集要項。
獄卒配置計画。
予算申請書。
そして、まだ題名すら決まっていない新しい書類。
「……仕事が増えた」
彼は、天井を見上げた。
そのとき、リリスが通りかかった。
「何をしているの?」
「休憩です」
「いいことね。休憩時間は確保しないと」
「……リリスさん」
「何?」
「この計画、本当に実現すると思いますか?」
リリスは、少し考えた。
「わからないわ」
「わからない?」
「ええ。予算が足りないかもしれない。車両が使えないかもしれない。安全性に問題があるかもしれない。運転士が見つからないかもしれない」
「では、なぜ進めるんです?」
リリスは、受付の向こうを見た。
そこでは、死者たちが、行き先のわからないまま列を作っていた。
片方の靴を抱えた男。
忘れたくない人の名前を、何度も口にする若者。
どの窓口へ行けばよいのか、誰にも尋ねられずに立ち尽くす老人。
彼らは、みな、死んだあとに迷っていた。
「今のままでいいとは、思わないからよ」
リリスは言った。
「完璧な交通網ができるまで、何もしないのなら、千年たっても何も変わらないわ」
庶務担当は、黙っていた。
それから、仕事の束を抱えて立ち上がった。
「……わかりました。まずは、調査依頼書を作ります」
「ええ。よろしく」
リリスは、歩き出した。
その背中を見送りながら、庶務担当は思った。
この職場は、たぶん、これからもっと大変になる。
しかし、ほんの少しだけ。
昨日よりは、ましになるのかもしれない。
*
その日の夕方。
冥界交通局の掲示板に、一枚の告知が貼られた。
『中古モノレール導入検討のお知らせ』
『目的:死者の移動負担軽減および各受付間の交通改善』
『現段階では導入を決定したものではありません』
『車両の状態、安全性、維持費、運行体制等について、今後、調査・検討を行います』
最後に、小さな文字で付記があった。
『なお、運転士、保安要員、技術担当者は、現在、未確保です』
掲示板の前で、それを読んでいた死者が尋ねた。
「これに乗れば、三途の川まで早く行けるんですか?」
庶務担当は、正直に答えた。
「まだ、わかりません」
「いつ動くんです?」
「まだ、わかりません」
「安全なんですか?」
庶務担当は、少しだけ背筋を伸ばした。
「安全性を確認するまでは、乗せません」
死者は、安心したようにうなずいた。
「それなら、待ちます」
庶務担当は、その言葉を聞いて、少し驚いた。
待ってくれる人もいるのだ。
もちろん、全員がそうではない。
翌朝には、きっと苦情が来るだろう。
運行開始を急かす者もいるだろう。
安く買えと怒鳴る者もいれば、危険だからやめろと怒鳴る者もいるに違いない。
そして、その苦情を受け付けるのは、いつもの窓口である。
冥界総合受付課。
今日も人手不足。
地下鉄を造る予算はない。
鉄道を敷く予算もない。
中古モノレールは、まだ候補にすぎない。
安全性の問題は、これから調べる。
運転士は、いない。
獄卒の配置も、決まっていない。
それでも、冥界の交通改革は、たった一枚の告知から始まった。
そして、告知の右下には、誰かが鉛筆で書き足していた。
『安いものには、理由がある』
その下に、別の誰かが書き足した。
『高いものにも、理由はある』
さらに別の誰かが、最後に書いた。
『とにかく、予算をください』
冥界交通局は、その紙を剥がさなかった。
なぜなら、最後の一文だけは、全員の意見が一致していたからである。




