第7話 偽り
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ーー正直に言えば、最初は主の言葉を疑った。
ヴァランシエンヌ帝国の皇城で、長年侍女長を務めるロザリーは、急ぎ用意させた浴場の湯煙の向こうで、目の前の少女をじっと見つめていた。
先ほど、アルチュール様の執務室で行われた、ルベリオンの王女との謁見。
ロザリーもまた、新たな皇族を迎え入れるための家臣の顔合わせとして、扉の向こうに控えていた。
到着した少女の姿は、おぞましいの一言に尽きた。全身を泥と乾いた血に塗られ、衣服は破れ、異臭を放っている。歓迎されぬ捕虜の末路とはいえあまりに惨く、連れてきた帝国の侍従や騎士たちは「どうせすぐ死ぬ生贄だ」と、隠そうともせず彼女を軽んじていた。
けれど、アルチュールはあの冷徹な声で、ロザリーにこう命じたのだ。
『皇族に相応しい湯浴みの準備を』
彼が「皇族」と明言された意味を、ロザリーはよく理解していた。
あの方は婚姻に興味などないが、信賞必罰において絶対の君主だ。あの方の漆黒の魔力が怒りで揺らぎ、部屋の空気が凍りついたあの瞬間。
(あの怠慢な騎士たちと侍従は、今頃、間違いなく陛下の手で容赦なく切り捨てられているはず……)
自分たちが退室した裏で行われているであろう、身内への冷酷な断罪。主の統率力と性格を熟知しているロザリーには、彼らの悲惨な末路が容易に想像できた。陛下は、あの少女をこれ以上、ただの「使い捨ての捕虜」として扱うことは許さないと、無言の警告を城内に発したのだ。
「……皇妃殿下、お召し物を脱がせますね」
「はい。お手数をおかけします」
帝国の言葉で、静かに、凛と応じる少女。衣服を脱がせていくたび、ロザリーの細い眉が痛ましさに潜められた。痩せ細った肌のあちこちに、石礫で打たれた青あざや、擦り傷が赤く浮かび上がっている。
だが、ロザリーの胸中にあったのは、同情だけではない。プロとしての「疑問」もあった。
この少女には、魔力がない。
我が帝国は、あのルベリオンのように血統に狂奔してはいないため、魔力の有無で人を奴隷にするような文化はない。とはいえ、王族でありながら一滴の魔力も持たないなど、あまりにも珍しく、悪く言えば「空っぽの器」だ。
ほんの少しの割り切れない思いを抱えながら、ロザリーは少女を大きな湯船へと促した。
「失礼いたします。まずは、お髪の汚れから落としますね」
湯を含ませた柔らかな布で、ドロドロに固まった髪を優しく包む。
ルベリオン独特の、焦げ付いたような薬品の悪臭が湯気に混ざった。その下にある頭皮を見た瞬間、ロザリーは小さく息を呑んだ。
赤く腫れ上がり、じくじくと爛れた皮膚。
それはパレードの傷ではない。何年も、何年もかけて、毒性の強い染料を頭皮に注ぎ込み、焼き続けてこなければ、決してこうはならない爪痕だった。
(魔力なしの白を隠すために、偽りの黒を強要したのね……)
ルベリオンという国の底知れない歪みへの、激しい憤り。
「痛んだら、すぐに仰ってくださいね」
「大丈夫です。慣れていますから」
じくじくと痛むはずなのに、少女はただ、穏やかに微笑む。
丁寧に、丁寧に、最高級の香油と石鹸を使い、固まった血と濁った黒い染料を、温かいお湯でさらさらと洗い流していく。
その時だった。
「――っ」
ロザリーの手が、止まった。
浴場に控えていた若い侍女たちからも、一斉に、息を呑む音が響く。
洗い流された泥と、剥がれ落ちた偽りの黒の奥から、滑り落ちるように現れたのは、
――見たこともないほどに、まばゆい「純白」だった。
それは不吉の白などでは決してなかった。
帝国のどんな美しい宝石よりも瑞々しく、新雪のように清らかで、月の光をそのまま細い糸にして紡ぎ上げたかのような、神秘的な輝き。
お湯に濡れたその白髪が美しく広がり、湯気の中で真珠のような光沢を放っている。
そして、驚いて振り返った少女の「瞳」を見た瞬間、ロザリーは胸を激しく突かれた。
髪と同じ、一点の濁りもない、澄み渡った純白の瞳。
実家で「無能の失敗作」と蔑まれ、泥を投げつけられていた少女は、その汚れをすべて洗い流した瞬間、世界の誰よりも気高く、儚く、そして美しい本物の「王女」へと変貌を遂げたのだ。
全身を純白に染めたその佇まいは、歪んだ魔力至上主義の世界に、決して染まることのなかった「無垢」の証明のようだった。
「ロザリー、さん……?」
急に静まり返った周囲を不思議に思ったのか、純白の少女――ブランシュが、濡れた睫毛を震わせてロザリーを見上げた。
その瞬間、ロザリーは確信した。
全身を恐ろしい「漆黒」に染め、その強大すぎる魔力の孤独を生きる我が主、アルチュール様。
あの漆黒の闇を纏う皇帝の隣に座るべきは、この泥に汚れながらも決して折れなかった、気高き純白の薔薇しかいないのだと。
今はまだ、お互いに何も知らない。
けれど、この吸い込まれそうなほど綺麗な「空っぽの器」は、いつか我が主の、何かを救うのではないか。そんな根拠のない予感が、ロザリーの胸に深く刻まれた。
「……いいえ、なんでもございません、ブランシュ殿下」
ロザリーは深く、今度は心からの敬意を込めて一礼し、宝物に触れるかのように、そのまばゆい白髪を優しく梳き上げた。
「本当に、お美しいお姿でございます。……さあ、今度はそのお痛みを消すために、特製の薬膏を塗りましょうね」
温かい湯気の中で、純白の髪が、優しく揺れていた。
ルベリオンの泥に塗れた白百合は、今、この漆黒の帝国で、本当の美しさを開かせようとしていた。
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