第5話 優しき欺瞞
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
胸糞が続いて申し訳ない…ちゃんと救いがあります!
馬車が止まり、案内されたのは、荘厳な謁見の間でもなければ、主の私室でもなかった。
灰色の石壁に囲まれた、飾り気のない無骨な執務室。
大きな机に向かい、書類にペンを走らせている漆黒の髪の青年――彼こそが、周囲の国々から死神と恐れられるヴァランシエンヌ帝国の若き皇帝、アルチュール・ノワール・ド・ヴァランシエンヌその人だった。
部屋に入ったブランシュに対し、アルチュールは視線すら向けない。
カリカリと、硬いペンの音だけが室内に響く。歓迎などされていないことは痛いほど分かった。望まれぬ生贄とは、こういうものだ。
それでも、ブランシュは泥塗れの身体で静かに背を伸ばし、一歩前へ出た。
「陛下に、ご挨拶、申し上げます。ルベリオン王国より参りました、ブランシュ=リリ・ド・ローザンと申します」
紡がれたのは、拙いながらも、イントネーションの正しい帝国の言葉だった。
生贄の婚姻を言い渡されてからの、わずか一ヶ月。離れの塔で独り、投げ渡された本を血が滲むほどめくり、喉を枯らして必死に身につけた言語だった。何も持たない無能の自分でも、せめてこの婚姻を無事に全うするためにと、その一心だけで形にした努力の結晶。
その、静かで凛とした声が、冷え切った部屋に響いた。
カリ、とペンの音が止まる。
アルトが、ふと顔を上げた。
夜の闇をそのまま切り取ったような、深く鋭い漆黒の瞳が、初めてブランシュを捉える。
ーーそして、アルチュールの目が、僅かに見開かれた。
室内に、重苦しい沈黙が流れる。
アルチュールは無言のまま、机に肘をつき、組んだ指の向こうからブランシュを観察し始めた。その視線は凍るように冷たい。
時間だけが重く過ぎていく。
アルチュールの頭の中で、目の前の光景から導き出される情報が、冷徹に整理されていく。
ルベリオンから届いた「生贄」。
一国の第一王女のはずの少女。
だが、その姿はあまりにも異常だった。
衣服はボロボロに裂け、肌は露出している。
顔や手足は、投げつけられたであろう泥や砂で黒く汚れ、その下からは赤黒い血が滲んでいる。
何より異質なのは、彼女の髪だ。
黒く染められているはずのその髪は、泥と砂、そして自身の血でドロドロに固まり、ひどく傷んでいる。
そして、その髪の隙間から覗く頭皮は、古い傷と新しい烂れで、痛々しく赤く腫れ上がっていた。
(……パレードでの暴動か。いや、頭皮のこれは、もっと前から、それこそ何年も前から痛めつけられ続けてきた傷だ)
敗戦の鬱憤を晴らすために民衆が石を投げ、護衛の兵どもがそれを面白がって放置した。
そして、実家の王族どもは、この少女をこんな姿のまま、まともな洗髪も着替えもさせずに海を渡らせたのだ。
「……」
アルチュールの漆黒の魔力が、ほんの僅かに揺らぎ、部屋の空気がさらに冷たく張り詰めた。
あまりのプレッシャーに、ブランシュをこの部屋まで連れてきた侍従や騎士たちは、顔にありありと冷や汗を滲ませ、息を呑んでブランシュへと視線を向けた。その目は、「お前のせいで、俺たちまで巻き添えを喰らう、どうしてくれるんだ」と言わんばかりの、理不尽な呵責に満ちていた。
ブランシュは、アルチュールから放たれる圧倒的な威圧感と、周囲の人間たちの冷酷な視線に挟まれながら、泥と血のついた手をぎゅっと握りしめて俯いていた。
やはり、死神に疎まれ、ここで首を刎ねられるのだろうか、と。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、アルチュールは深くため息をつき、静かに椅子から立ち上がった。
そして、ブランシュとの距離を保ったまま、扉の向こうに控える別の側近を低い声で呼んだ。
「――すぐに、医官を手配しろ。それと、皇族に相応しい湯浴みの準備を」
その声は相変わらず冷たかったが、語気には隠しきれない重みがあった。
ルベリオンの侍従たちの顔が、今度こそ驚愕で強張る。
驚いて顔を上げたブランシュに、アルチュールはやはり冷淡な視線を向けたまま、しかし、言葉だけは静かに告げた。
「不快だ。我が帝国の城に、そのような泥と血の悪臭を漂わせるな。……医官に頭皮を治療させ、その髪の汚れを全て洗い流してこい」
冷徹な言葉の奥に、確かに混ざった、治療を促す温かさ。
完全に心を閉ざし、暗闇の中にいたブランシュの胸に、本当に小さな、けれど確かな光が差し込んだ瞬間だった。
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