第46話 愛おしき面影へ祈りを
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旧ルベリオン王国の復旧、新たな政治体制や制度の改革、そして平民たちの雇用の創出と各機関の安定を見届け、現地の新たな管理者たちへすべての引き継ぎを終えてから、二人はようやくヴァランシエンヌ帝国へと帰還することとなった。
あの大地を揺るがした激動の日から、目処が立つまでに三ヶ月という月日が流れていた。
ブランシュの『器』の能力について魔法学的な整理がなされたあの日から、二人は意識して互いの素肌が触れ合うような生活を心掛けていた。だが、三ヶ月という濃密な時間は、それを義務ではなく、すでに二人の「当たり前の日常」として定着させていた。
移動の際には自然と手を繋ぎ、そうでない時も、隣に並べばどちらからともなく肩や髪に触れ、常にお互いの心地よい体温を感じられる状態に保つ。その調律のおかげで、この三ヶ月のあいだ、アルチュールは肉体的な魔力過多の激痛からも、精神的な孤独の飢えからも完全に解放され、大変満足のいく穏やかな日々を過ごしていた。
そして今日、いよいよ帝国帝都への凱旋の朝を迎える。
属国ルベリオンの卑劣な反逆(拉致事件)に勝利したこと、そして旧王国の歪んだ圧政を打破し、民の生活回復に多大なる貢献を果たしたことが、新聞や通信によって帝国中に流布されていた。二人は今や、帝国を救う『稀代の賢王と才媛』として、帝国民からそれはそれは熱狂的な祝福を受ける存在となっていた。
戦争と事件の影響を配慮し、大規模な凱旋パレードや帰還の祝賀夜会などは行わない旨を、事前に帝国に残った文官たちへ指示してはいた。だが、真の平穏をもたらしてくれた主君たちをひと目見ようと、民たちは自主的に凱旋の行列を祝い、喜びを分かち合おうと街中に色鮮やかな露店が立ち並んだ。帝都は、その日の夜半を迎えるまで、お祭りのような明るい歓声と柔らかな光に包まれ続けた。
皇城へと無事に到着したブランシュを待っていたのは、本館の広いロビーに佇む、懐かしい面影だった。
ブランシュは馬車を降りるなり、出迎えたマルタとの久しぶりの再会を心から喜んだ。
「あぁ、本当にご無事で何よりです、皇妃殿下……ッ! よくぞ、よくぞご無事にお戻りで……!」
「マルタ……っ! よかったです、本当に、生きていてくれて……! 痛かったでしょう、怖かったでしょう……っ!」
ブランシュは両手で、マルタの丸く温かい身体に埋もれるようにぎゅうぎゅうと抱きつき、その胸に顔を埋めて涙を流した。あの時、自分のせいで背中を刺された者が、こうして元気に笑ってくれている。その奇跡が、何よりも嬉しかった。
「本当に、殿下には余計なご心配をお掛けいたしました。ご覧の通り、もうマルタはどこも痛くありませんよ。……おや? あらあらまぁ、あんなに長くて綺麗だった御髪が……。でも、これほど真っ白で美しい項を惜しげも無くお披露目されては、陛下も気が気ではありませんね?」
マルタは涙を拭いながら、ブランシュのすっきりとした上品なボブカットに目を留め、悪戯っぽく揶揄うようにアルチュールへと目配せを送った。
すると、アルチュールは腕を組み、ふっと視線をブランシュの首元へやった。
「……まぁ、非常に不本意ではあるが、仕方のないことだ。短くなったのは俺の暴走のせいでもある。……それに、これほど美しい白に目を奪われる者がいようと、実際に触れることが許されているのは世界で俺ただ一人だからな。そこまで狭量でもないさ」
「あらあら、まぁまぁ」
焦土の死神とは思えないほどの、絶対的な独占欲と甘い回答。
言われたブランシュは、ただ顔をリンゴのように真っ赤に染めて俯くばかりだった。ただ――「自分に触れていいのはアルトだけだ」というその言葉を、彼女はもう、決して否定はしなかった。
そんな二人の朗らかなやり取りを見つめながら、後ろに控えていたロザリーは、あぁ、ようやく私たちの愛おしい日常が戻ってきたのだと、ほっと心の底から胸を撫で下ろした。
しかし、それと同時に。
この幸福な日常を取り戻すために、その尊い命を散らせた、あの「二人の犠牲者」の面影が、ロザリーと二人の脳裏へと、静かに思い出されるのだった。
「陛下、殿下。……この後は、いかがなさいますか?」
ロザリーがすっと背筋を正し、真っ直ぐな姿勢と瞳で二人に尋ねた。その声に含まれた静かな重みを引き受けた瞬間、アルチュールとブランシュの雰囲気は、朗らかな日常のものから、直轄地を完璧に統治してきた「為政者」の顔へと同時に切り替わった。
「ロザリー。まず、この度の事件で不当に被害を受け、恐怖を味わった使用人たちを、大広間に集めていただけますか」
ブランシュが、かつての幽閉されていた王女とは思えないほどの、毅然とした凛とした態度で告げた。
「未だ精神的、肉体的な療養を続けている者たちへは、無理をして出てこぬよう伝えてください。追って、わたくしたちから直接宿舎へとお伺いさせていただきます。ただ、彼女たちの体調に障らぬよう、日程の候補をお伝えして事前のすり合わせだけはロザリーの手からお願いいたしますね」
「かしこまりました。ただちに手配いたします、殿下」
間もなくして、皇城の大広間には、あの悪夢のような夜に密偵の手によって花瓶へと詰め込まれ、奇跡的に生還を果たした使用人たちが集められた。
広場を見渡せる中央の螺旋階段、その踊り場。そこから自分たち一人一人の顔を静かに見つめている皇帝陛下と皇妃殿下の姿を仰ぎ見て、使用人たちは胸に熱いものを込み上げさせていた。お披露目の式典での噂は聞いていたが、こうして間近で拝見する二人の元気な姿に、心からの安堵と隠しきれない喜びが広間に満ちていく。
「皆の者、改めて無事で何よりだ」
アルチュールが、軍事大国の賢王としての威厳に満ちた声で、高らかに彼らを労った。
「今回の事件における被害者の中で、この皇城を離れる選択をした者が一人もいなかったと聞いている。これほど勇敢で、良き臣下に恵まれたこと、皇帝として身の引き締まる思いだ。未だ療養中で動けぬ仲間も多い。もうすでに復帰を果たしている者が半分以上いるようだが、あの凄惨な体験は、そう簡単に忘れられるものではないはずだ。決して無理をせず、まずは己の心と身体を第一に労わりながら、これからも俺たちに仕えてくれると嬉しい。お前たちの忠誠に感謝する」
アルチュールの、一片の容赦もない戦いの中に、見え隠れする統治者としての深い慈悲。使用人たちが深く頭を下げるなか、その隣に立つブランシュが一歩、前へと進み出た。
彼女は集まった使用人たちを愛おしそうに見渡すと、静かに口を開いた。
「皆様、改めまして。旧ルベリオン王国第一王女、ブランシュ=リリ・ド・ローザンと申します。半年前、魔力なしの無能として生贄のように差し出されたわたくしを、この帝国は温かく受け入れ、これ以上ないほど優しい生活を授けてくださいました。そのことを、まずは深く感謝いたします。……そのうえで」
ブランシュは、細い指先を胸元できゅっと握りしめた。
「この度は、わたくしの忌まわしき祖国が、皆様の尊厳を無残に踏みにじる大罪を犯しましたこと――心より、お詫び申し上げます」
そう言って、ブランシュは目下の使用人たちに向かって、深く、深く腰を折って丁寧に謝罪を始めた。
本来であれば、帝国の最高権力者たる皇妃が、一介の使用人に対して頭を隠すなど、国家の威信に関わる。為政者として決して許される行為ではない。だが――後ろに控えるアルトも、ロザリーも、そして大広間にいる誰一人として、彼女を止める者は、咎める者は誰もいなかった。彼女の謝罪が、政治的なポーズなどではなく、魂からの誠実な祈りであることを知っていたからだ。
ブランシュはゆっくりと顔を上げ、涙を堪えて、力強い眼光のまま言葉を紡ぎ直した。
「わたくしが初めてここへ来た時は、本当に何も知らない、ただ怯えて息をしているだけの塊に過ぎませんでした。ですが、皆様が、ロザリーが、マルタが……温かく献身的にわたくしを支え、導いてくださったお陰で、私は多くの知識を得て、人の優しさと幸せを知り、前を向く勇気をもらいました。皆様に、私を『人間』にしてもらったのです」
広間に、静かな、すすり泣きの音が漏れ始める。
「ですから、今度はわたくしが、皆様の幸せと安全、そして輝かしい未来をこの身を懸けて約束できるよう、ヴァランシエンヌ帝国皇妃として生涯を尽くして努めてまいります。まだまだ未熟で行き届かぬ身ではございますが……どうか今後も、わたくしをお傍でお支えくださいますと、これ以上の幸せはございません」
ブランシュが最後まで一本の芯の通った声で言い切ると、大広間には、水を打ったような静寂が数秒だけ流れた。
そして――。
「……っ、もちろんでございます……ッ! 旧ルベリオンでの殿下のご活躍、そして民を救われた気高いお姿は、こちらの城にもすべて届いております……っ!」
一人の若い侍女が、自らのエプロンスカートを指先が白くなるほど強く、シワが寄るほどに握り込みながら、涙ながらに声を張り上げた。
「殿下がどれほどお辛い経験をされてきたかも、私たちは知っています! 謝らないでくださいませ……! 私たちは、これからも生涯をかけて、ブランシュ殿下をお守りし、お仕えさせて頂きたいのです!!」
それを皮切りに、大広間のあちこちから「殿下をお慕いしております!」「私たちの皇妃殿下は、あなたお一人です!」という、地鳴り(じなり)のような賛同の声と、熱い拍手が湧き上がった。
◇
さく、さく、と、皇城の裏庭に美しく整えられた芝生を踏み締める、二人分の足音が静かに響く。
三ヶ月前、初めてこの中庭を歩いた時には、足元の芝生の青さにすら感動して真珠のような瞳を輝かせていたブランシュだった。だが、今の彼女はその幼い感動を胸の奥へそっと仕舞い込み、慈悲深くも凛とした、一国の為政者の顔で目的の場所まで歩を進めていた。
アルチュールにその大きな手で優しく引かれながら、二人は言葉を交わすことなく、ただ真っ直ぐに前を見つめて歩いていく。
木々の葉を揺らし、芝生の合間を吹き抜けていく午後の一陣の風は、どこか寂しげで、冷たい香りを孕んでいる気がした。
やがて、規則正しかった足音がふっと止まる。
ブランシュの小さなつま先の前には、新しく削り出された、石造りの立派な一対の石塔が静かに佇んでいた。
墓標だった。
僅かな間隔を開けて、寄り添うように二つ並んで建てられたその石塔は、先のルベリオンの卑劣な襲撃事件において、その尊い命を散らせた犠牲者二名を深く悼んだものだった。
事件の後、侍女頭のロザリーは自ら遺族の元へと出向き、最期の瞬間に至るまでの経緯を誠実に説明していた。まだ年若く、輝かしい未来が約束されていたはずの侍女。そして、これからもその卓越した知識と技術で多くの命を救うはずだった優秀な女性医官。
あまりに突然の愛娘の死に、遺族たちは悲痛な涙を流して嘆き悲しんだ。だが、驚くべきことに、皇族の不手際や皇城の警備の管理を責める者は、誰一人としていなかったという。
医官も、若い侍女も、誰もがブランシュの直属の配下として選ばれたことを心から喜び、誇りに思っていた。実家の家族へ宛てた手紙には、度々「これほどお優しく、清らかな皇妃殿下にお仕えできて、私は本当に幸せです」と、喜ばしい近況が誇らしげに書き連ねられていたそうだ。
帝国からの手厚い葬儀の費用の全額負担、および生涯を保障する莫大な慰謝料が渡された際、医官の家族から「娘の墓標を、できれば皇城の敷地内か、陛下の直轄地のなかに建ててはいただけないだろうか」と、涙ながらの相談があった。
娘が何よりも愛し、命を懸けて守ろうとしたあの美しい皇城で、これからも眠らせてあげたい、と。その計画を聞いた侍女の遺族も強くこれに賛同し、是非にと願い出たため、主君の生活のすぐ傍である、この皇城の裏庭への建設が決まったのだった。
ブランシュは、二つの墓標の前へゆっくりと歩み寄った。
それぞれの石の足元へ、彼女たちの生前の面影に合わせた、色鮮やかで清らかな花束をそっと手向ける。
そして、胸の元で自らの細い両手をそっと重ね合わせ、静かにその場へ跪いた。
「…………」
ブランシュは固く、固く目を閉じた。
唇は一文字に結ばれたまま、最期まで一切の声が発せられることはない。ただ、光を遮られた視界の端から、大粒の、濁りのない透明な涙だけがぽろぽろと零れ落ち、白い頬を伝って冷たい大理石の墓石を優しく濡らしていく。
言葉はなくとも、アルチュールには分かった。
彼女が今、その胸の奥で、逝ってしまった二人に対するやり場のない深い懺悔と、命に代えて自らを護ろうとしてくれたことへの、最上級の感謝を何度も、何度も、祈るように繰り返しているのだということを。
アルチュールもまた、ブランシュの隣で、自らの胸元へと右手を静かに当て、黙祷の姿勢をとった。
吹き抜ける冷たい風のなか、深い夜色のその双眸を静かに閉じ、ただ二人の魂のために祈る。
自分たちを繋ぎ止めてくれた愛おしい臣下たちが、どうか暗い恐怖を忘れ、大自然の安らかな微睡みのなかで、世界の美しい祝福へと還れるように、と。
静寂が包む皇城の裏庭で、二人の刻む深い祈りの時間は、波紋のようにどこまでも静かに、優しく広がっていくのだった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。
次でいよいよ完結です。最後までどうぞお付き合いください。




