第39話 ただ、あなたのもとへ
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――ガガガガガ、ゴゴゴゴゴゴオオオオッ!!!
剥き出しになった夜空の下、ルベリオン王城は、内側から爆発する巨大な地鳴りのような振動に激しく身震いしていた。
手足を無惨に縛られ、身ぐるみを剥がされたまま、ルベリオンの汚い男の肩に担ぎ上げられているブランシュ。その白く細い喉元にぴったりと添えられた、鋭利なナイフの冷たい光。
かつて自分が家畜以下に虐げ、泥を投げつけて捨て去ったはずの母国の泥に、最愛の彼女が再び塗れさせられている――。
その最悪の光景を網膜に焼き付けた瞬間、アルチュールの内側で、何か決定的な『理性の糸』が音を立てて完全に弾け飛んだ。
「――ぁ、――……」
アルチュールの口から、言葉にならない、獣のような低い喘ぎが漏れる。
次の刹那、彼が12歳の冬に両親を殺めてしまったあの魔力暴走すら、生温いお遊びに思えるほどの、絶望的な破壊の嵐が世界を襲った。
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
天を衝くほどの、どろりとした漆黒の魔力が、アルチュールの身体から地の底を突き破るような爆発となって噴き上がった。
それはもはや風などではない。城の重厚な天井を粉々に粉砕して夜空へと吹き飛ばし、巨大な尖塔を瞬時にへし折る、漆黒の魔圧の超巨大な竜巻だった。
「ひ、ひぃぃぃっ……!? あ、あああ……っ!」
人質を盾に勝ち誇っていたはずの第一王子と国王は、交渉どころか、その嵐のような圧力だけで全身の骨がきしむほどの重力に押し潰され、床へ叩きつけられて無様に絶叫した。
ブランシュを掴んでいた暗部隊長すらも、その圧倒的な神の如き暴虐の前には、一歩も身動きが取れない。ナイフを持つ手がガタガタと震え、ただ死神を見上げる瞳に、初めて底知れない「本物の死」への恐怖が宿っていく。
肩からブランシュが滑り落ち、低い音と共に地面にぶつかる。
バリバリバリバリッ! ドガァァァンッ!!
アルチュールを中心に、黒い稲光が容赦なく四方八方へと炸裂し、城壁を、大理石の床を、数百年耐えてきた基礎を粉砕していく。城全体が自重を支えきれずにメキメキと音を立てて瓦礫の山へと崩壊を始めていく。
だが、何よりも恐ろしかったのは、その中心に佇むアルチュールの双眸だった。
彼の黒目は、すでに血を流すような悍ましい真紅に染まり、本来なら白い弾力を持つはずの白目は、完全にどろりとした深い『漆黒』へと染まり変わっていた。
白も黒もない。赤と黒の異形の眼差しには、もはや敵を憎むという感情すら残されていない。
ただ、自分の光を穢した世界そのものを、目の前にあるすべての存在を、敵味方の区別すらなく跡形もなく消し去ろうとする、完全な『狂王』としての絶対的な虚無。
「……殺……す。……すべて、壊せ……」
アルチュールの喉から、地を這うような死神の神託が漏れる。
その言葉に呼応するように、城の周囲を包囲していた帝国の騎士たちさえもが「あ、あの方が、真の狂王へ戻ってしまわれた……っ!」「全員、退避しろ! 巻き込まれるぞ!」と、息もできないほどの恐怖に顔を歪めて後退を始めるほどだった。
誰の声も、届かない。
ロザリーの必死の叫びも、マルタの祈りも、今のアルチュールの魂には一切届かない。
過剰すぎる魔力が彼の肉体を内側から無慈悲に灼き、喉の奥からゴボリ、と赤黒い血が溢れて彼の黒い鎧を濡らしていく。身体を壊しながら、彼はただ、目の前の世界を無に還すためだけに、狂ったように魔力を解き放ち続けていた。
崩落する瓦礫の雨、引きちぎられる空間。
すべてが崩壊していく絶望的な暗闇のなか、ただ一人、異形の王の暴走は、世界そのものを焦土へと変えるために、その臨界点を突破して荒れ狂いながらも、愛しいその白き至宝へと歩を進めるのだった。
――ドサリ、と。
瓦礫が降り注ぐ冷たい大理石の床へ、ブランシュの身体は無造作に投げ出された。
「……っ、う、く……っ」
床に打ち付けられた強い衝撃で、かえって頭の芯にまとわりついていた靄が吹き飛び、混濁していた思考が急速に整理されていく。手足はいまだきつく縛られたままだが、ブランシュは痛む身体を必死に動かし、顔を上げて周囲を見回した。
すぐ隣には、つい先ほどまで自分を担ぎ上げ、耳元で勝ち誇ったように下卑た笑い声をあげていたあの暗部隊長の男が、無様に床へと這いつくばっていた。
いや、這いつくばっているという生温いものではない。それはまるで、目に見えない神の巨大な掌によって、身動き一つ許されず地面へと力任せに押さえつけられているかのようだった。男は顔を歪め、ただはくはくと酸素を求めて悶絶している。
広大な回廊を、いや、崩壊していく王城そのものを支配する、絶望的なまでの巨大な圧力。
ブランシュはその凄まじい大気の震えの先を、自らの目でおった。そして、土煙の向こう側、漆黒の暴風の中心で虚ろな足取りのアルトの姿を、ここで初めて視認した。
「……あぁ……、なんて、こと……」
言葉が、声にならずに喉の奥へ消える。
白目を完全に漆黒に染め、黒目を血のような赤に変色させた異形のアルト。身体中から噴き出すドロドロとした黒い魔力は、触れるものすべてを粉砕し、彼の口元からは赤黒い血が絶え間なく溢れて鎧を濡らしている。
その痛々しい姿を見た瞬間、ブランシュは、アルトが今どれほど過酷で、引き裂かれるような苦しい思いをしているのかを一瞬で理解した。
ひと月前、初めて彼の体に触れ、その過剰な魔力を吸い取った時に脳裏に流れ込んできた、彼の過去の記憶。
十二歳の冬、自らの魔力を制御できずに愛する両親を焼き尽くしてしまった、あの忌まわしくも悲しい、血の記憶。彼にとって、人生のすべてを諦めるきっかけとなったあの絶望のあの日を――今、目の前にある圧倒的な力と深い黒は、軽く凌駕していた。
アルトへの胸を掻きむしられるような切ない愛おしさに、純白の瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
泣いている暇などない。ブランシュは床を這い、すぐ横に転がっていた、暗部隊長が取りこぼしたあの鋭利なナイフへと必死に手を伸ばした。
きつく縛られた両手の指先で、なんとかその柄を握り込む。
ナイフの正しい扱い方など、塔に幽閉されていたブランシュが知るはずもなかった。彼女はただ、自身の足首を執拗に縛り付けている頑丈な縄へ向かって、焦る手つきで刃を何度も擦り付け、断ち切らんとする。
刃先が狂い、自らの白い素肌を何度も深く切り裂いた。足首から甲にかけて、無数の赤い線が無惨に刻まれ、鮮血がその足を汚していく。けれど、今のブランシュには、そんな肉体の痛みなど微塵も感じないほどに、胸の焦燥感が勝っていた。
パチン、と細い繊維が弾ける音がして、ようやく縄がその意味を成さなくなる。
両足に、自由な開放感が襲いかかった。ブランシュはナイフを床へと投げ捨てると、血に濡れた足で、崩壊していく床を力強く踏み締めてその場に立ち上がった。
全裸のまま、髪を引きちぎられ、身体中を傷だらけにした純白の少女が、荒れ狂う漆黒の嵐の前に立っている。
「……陛下……っ! ……アルト……!!」
枯れた声を振り絞り、最愛の彼の名前を叫ぶ。
ブランシュは、世界を滅ぼそうとする黒い竜巻へ向かって、ふらつく足取りのまま、ただ真っ直ぐに、迷うことなく駆け出していった。
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