第3話 空っぽな夜
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戦争が終わってから、一年が経った。
国庫のほぼ全てを帝国に差し押さえられたルベリオン王国は、かつての華やかさを失い、どこか薄暗い空気が漂っていた。
けれど、離れの塔に隔離されているブランシュの日常は、何も変わらなかった。
毎日、じくじくと灼けるような染料で髪を黒く染め、部屋から出ることなく過ごす。世間で何が起きているのか、彼女には知る術もなかった。
ただひとつ違ったのは、今日が彼女の18歳の誕生日だということだ。
この国では、18歳になると「魔力精密鑑定」を公的に受ける義務がある。髪の色という外見だけでなく、体内の魔力量を魔導具で正確に測る、人生で最も重要な儀式だった。
「……やはり、一滴の魔力も感知できません。完全な『無』です」
冷徹な鑑定士の声が、豪華な神殿に響く。
周囲に並ぶ王族たち――父である国王や、見事な黒髪を持つ兄たちからは、隠そうともしない失笑と蔑みの視線が注がれた。
「ふん、18歳になってもこれか。我が王家の血を汚す泥め」
吐き捨てるように言った男は、恐らく兄である第一王子なのだろう。父親の横に並び、見下ろしてくるその男の顔を、ブランシュはよく知らなかった。同じ王城に暮らしながら、一度もまともに言葉を交わしたことがないからだ。
「敬虔な信徒であるはずの王家に生まれながら、神からの祝福を得られないなど、お前は生きているだけで神の御意志に反している。それというのに、お前のような無能をこれまで生かしておいてやったのだ。王家の慈悲に感謝するがいい」
父王が続けて冷ややかに言い放ち、一枚の書状をブランシュの足元へ放り投げた。
「来月、お前は我が国を破滅から救った『ヴァランシエンヌ帝国』の皇帝の元へ嫁ぐ。これは決定事項だ。敗戦の褒賞……平たく言えば、生贄の捕虜だな」
カサリ、と床に落ちた書状を見つめ、ブランシュはただ「……はい」と小さく頭を下げた。
反論する権利など、生まれた時から持ち合わせていない。
ただ、誰も行きたがらない「死神の国」への厄介払いに、自分が選ばれたのだということだけは理解できた。
(――死神の、元へ)
我らを導き、守ってくださる神の御許へ送られるのではなく、死神の元へ行く。
祝福を得られないということは、死んでも神の元へは行けないのだろうか。
家族に捨てられた悲しみなど、最初から無かった。期待も愛着も、彼らに対しては一滴すら持ち合わせていない。
ブランシュの頭の中を占めていたのは、母国を離れることよりも、ただ己の魂の行き着く先の、果てしない暗闇のことだけだった。
◇
離れの塔に戻ったブランシュは、これまでと同じように静かに暮らした。
毎日、同じように染料に身を焼かれる日々を過ごしながら、粛々と旅立ちの準備を進めた。
とはいえ、持っていく化粧品も宝石も、ましてや嫁入り道具など、ブランシュは何も持っていない。王女とは思えないほど古びた衣服を丁寧に整え、鞄に整理していく。ひと月の間にできるだけの準備を整えろ、と国王から投げ渡された真新しい帝国語の本と作法の本は、この1ヶ月で随分と使い込まれた古い紙と変わった。
明日の朝には、ヴァランシエンヌ帝国の使者が待つ国境へと向かうことになっている。
いつもの夜であれば、身体を拭くための湯桶と布を持って、侍女がやってくる時間だった。
「殿下」
背後から、いつものように老侍女が声をかけた。
しかし、彼女の手には旅の荷物も、温かい湯桶もなかった。代わりに握られていたのは、鈍く光る一本の鋭利な短剣だった。
「これでお別れですね。私の『監視と管理』の任務も、これで終わりです」
老侍女の目は、いつになく虚ろで、深く沈んでいた。ブランシュは胸に嫌な予感を覚え、動きを止める。
「……お別れ、ですか? あなたも一緒に、帝国へは……」
「行くわけがありません。私は王家に命じられ、あなたの白髪を隠し、あなたのすべてを報告するためだけに生かされていたのですから」
老女の口から漏れ出たのは、これまで一度も聞いたことのない、低く、呪詛のような声だった。
次第に、短剣を持つ手が震え始める。
年老いた手の甲には青い筋が浮き上がり、白くなるほど強く短剣を握り込んでいることが、見て取れた。
老女は短く息を吐き、その濁った瞳で真っ直ぐにブランシュを捉えて、語り始めた。
「知っていますか、殿下。私があなたの侍女に選ばれたあの日……王家は、私が機密を漏らさないよう、私の家族を、まだ幼い孫まで一人残らず皆殺しにしました」
「え……?」
「私は、あなたを見るたびに、殺された家族の血の海を思い出して気が狂いそうでした。あなたのその白い髪を黒く染めるたび、この手で締め殺してやろうと、何度も、何度も思った……!」
ブランシュは息を呑み、一歩後退りした。
生まれた時から側にいて、頭皮の痛みを気遣ってくれた、この世界で唯一の「味方」だと思っていた。
本を読んで理解できない箇所があれば、彼女に聞いた。
知らない食べ物が出た時は、彼女が優しく説明をしてくれた。
衣服のサイズが合わないことに、誰よりも早く気づいてくれた。
底冷えする離れの塔で、独りの寂しさを慰めてくれた。
その温もりのすべてが、血塗られた憎しみの裏返しだったというのだろうか。
「平民には、白い髪を持って生まれる者などごまんといます。けれど、愛し愛されることに、髪の色など何の関係もないのです。光の魔法が使えない家は、家族で協力して火を起こして、その火を絶やさぬよう守ります。水を生み出せない家は、率先して力のある男手が湧き水を汲みに行きます。料理は、皆で食べるために、仕事から帰ってくる家族をじっと待つのです。温め直すような魔法がなくても、皆で守った火があるから温かい。……いえ、そんな魔法がなくても、大切な人と食べる食事は美味しいものなのです」
老侍女の目から、堰を切ったようにぽろぽろと涙が溢れ出す。
「以前、殿下に王宮の外での暮らしを聞かれた際、私は平民としての自分の暮らしを思い出しながら、このような話をいたしました。……覚えていますか」
ブランシュは声も出せず、ただ必死に首を縦に振る。忘れるはずがなかった。孤独な塔の中で、彼女が唯一夢見た、温かい世界の記憶だった。
「私は……家族の幸せを得られないあなたへの、八つ当たりのつもりで話したのです。お前は王族でありながら、その平民以下の暮らしさえ手に入らないのだと、惨めさを思い知らせるために。……なのに、あなたは」
老侍女はその場にへたり込み、涙を流しながら慟哭した。
「あなたは、純粋に目を輝かせて、なんて素敵な暮らしなのだろうと……『教えてくれてありがとう』と、私に微笑みかけた。……何も知らず、痛みに耐えて私に微笑むあなたの首を、私はどうしても絞められなかった……!憎くて、呪わしくて、けれど、赤子の時から育ててしまったあなたを、私は……愛してしまった……できることなら、私の経験したあの温かい愛を、あなたに与えてあげたくなってしまった……!」
「あ、ああ……」
「王家への恨みも、あなたへの情も、憎しみも……もう、私の心は耐えられません。私の役目は、終わりました」
「待って、行かないで……!」
ブランシュが手を伸ばした瞬間、老侍女は躊躇いなく、自らの胸に短剣を突き立てた。
ドサリ、と崩れ落ちる体。
床に広がっていく、生々しい赤い血。
「あっ、あああ……っ!」
声にならない悲鳴が、ブランシュの喉から溢れた。
唯一の心の拠り所だった人は、自分を憎み、自分を愛し、そして自分の目の前で絶望して命を絶った。
私は、生まれてこなければよかった。
主を失った静かな部屋で、ブランシュは赤黒い血溜まりを見つめながら、心を完全に閉ざした。
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次回もお楽しみくださいますと幸いです。




