第36話 たかが、白持ち
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ルベリオン王国の南端、国境を守る港の砦は、いつもと変わらぬ怠惰な朝を迎えていた。
かつての敗戦により国庫は底を突き、平民たちが飢えに喘いでいることなど、この強固な石造りの要塞に籠る兵士たちには無関係の絵空事だった。王侯貴族が相変わらずの贅沢を貪るように、国境を預かる騎士たちもまた、帝国の影に怯えつつも「まさか攻めてくるはずがない」という根拠のない慢心に浸りきっていた。
その静寂を破ったのは、物見櫓の上から放たれた、一人の見張り兵の呆然とした声だった。
「おい……。何だ、あの雲は」
同僚の兵士たちが、気怠げに視線を水平線の彼方へと向ける。
南の空が、どす黒く染まりつつあった。それは自然の暴風雨がもたらす雨雲などではない。まるで生きた泥のように空を侵食していく、悍ましいほどに濃密なまさに「漆黒の天蓋」だった。
「嵐か? いや、それにしては……」
不穏な気配を察知した見張りたちが、慌てて数人がかりで真鍮製の双眼鏡を構え、焦点を合わせる。
レンズの向こう、黒い雲の直下を這うようにして現れた「それ」を視界に捉えた瞬間、覗き込んでいた兵の顔から血の気が完全に失せた。
「……なぁ、嘘だろ……」
「どうした! 何が見える!」
「船だ。……黒い、戦艦の、大艦隊……! 旗印は……ヴァランシエンヌ帝国……っ!!」
「な、何だと!?」
物見櫓の上が一瞬でパニックに陥る。
「なぜだ! 宣戦布告を受けたなど、王都からは何の伝令も届いていないぞ!」
「あり得ん、あの国が何の予告もなく動くはずが……!」
「そんなこと言ってる場合か! 急ぎ国境騎士団長へ伝えろ! 敵襲、敵襲だあぁっ!!」
バタバタと狂ったように警鐘が鳴り響き、砦が蜂の巣を突いたような騒ぎに包まれる。だが、彼らが狼狽しているその時、海を駆ける黒い戦艦の先頭では、すでに死の秒読みが始まっていた。
◇
ヴァランシエンヌ帝国軍、その総旗艦の船頭。
波飛沫を浴びる特等席に、若き皇帝アルチュール・ノワール・ド・ヴァランシエンヌは静かに立ち尽くしていた。
彼の放つ魔力が空を圧し、頭上には太陽の光を完全に遮るどろりとした黒い雲が渦巻いている。その瞳の奥で燃えるのは、冷徹にして苛烈な、底なしの怒り。
甲板の上には、微動だにせず整列した帝国騎士団が、主君の言葉を待っていた。
アルチュールは振り返り、鋭く、しかし低く地響きのような声で語り始める。
「出陣の際にも話した通り、ルベリオンは愚かにも、我が帝国の至宝である唯一の皇妃を強奪した。――これは我がヴァランシエンヌ帝国に対する、明確なる反逆である」
静かな声。しかし、そこに込められた圧倒的な威圧感に、兵士たちの背筋が震える。
ブランシュを失った怒りにより、アルチュールの身の内ではさらに暴走寸前の膨大な魔力が激痛となって暴れ狂っていた。だが、その痛みを完全にねじ伏せ、彼は冷酷に命令を下す。
「これより、拡声魔法の射程距離に入り次第、ルベリオン王国へ戦線布告を行う。降伏の意思が見られない場合、直ちに魔法騎士による一斉砲撃を開始する。港を制圧し、王都へ向けて侵略を開始する」
一度言葉を切り、アルチュールは並み居る騎士たちを鋭く見据えた。
「蹂躙しろ、とは言った。だが、我らは野蛮な戦争屋ではない。……戦う意志のない者は、捕まえて転がしておけ。無力な民には手を出すな」
一拍の置いて、彼の声の温度が完全に凍りつく。
「戦う意思のある者だけ――殺せ」
「おおおおおっ!!」
全軍の怒りが、歓声となって爆発した。
彼らにとっても、主君が唯一と認める皇妃ブランシュを奪われたことは、到底許せる暴挙ではなかった。主君の激昂は、そのまま軍全体の猛烈な士気へと変換される。
アルチュールは腰の長剣を引き抜き、一閃、天へと掲げた。
それに呼応するように、数千の兵士たちが一斉に武器を掲げ、水平線を震わせる開戦の咆哮をあげる。
間もなく、ルベリオンの砦が射程範囲に入る。
世界最強の軍勢は、主の怒りが生んだ漆黒の天蓋をこれ以上ない絶望の凶兆として引き連れ、王国へとその牙を剥いた。かつてない「死の気配」が、何も知らぬルベリオンを飲み込もうとしていた。
「ルベリオン王国国境守備隊へ告ぐ。貴国からの宣戦布告を受け、これより我がヴァランシエンヌ帝国は、貴国の国境を越え進軍を開始する。 直ちに武装を解除し、抵抗の意志を放棄せよ。 従う者は命を保証する。無益な血を流すか、生き延びるか、今すぐ選択せよ。繰り返すーーー」
拡声魔法に乗ったアルチュールの声が、港一帯へ冷酷に響き渡った。
感情の
起伏を排したその声音は、かえって抗いようのない死の宣告として、ルベリオン兵たちの背筋を凍らせる。
だが、国境の砦を任された兵士たちも、ただ怯えるだけではなかった。
彼らは震える手で弓を絞り、魔導銃の狙いを定め、帝国軍に向けて武器を構える。せめてもの抵抗を示そうとする、哀れな足掻きだった。それを見たアルチュールの瞳に、冷たい光が宿る。
彼は、何も言わずにゆっくりと右手を天に掲げた。その一挙手一投足に合わせ、総旗艦の甲板先頭に整列していた魔法騎士たちが、一斉に右手を掲げる。統率された無言の動き。彼らの手のひらの上に幾重もの魔法陣が展開され、淡くも凶悪な光が集束していく。
戦艦の上が、奇妙なほど静まり返った。
耳が痛くなるような静寂。
その中で、アルチュールが短く、ぽつりと唇を動かした。
「始めよう」
掲げられた右手が、無慈悲に振り下ろされる。
同時に、アルチュールは、砦とその向こう側を隔絶する巨大な防御魔法の障壁を一瞬で展開させた。戦火が港の先にある平民の居住区へと流れるのを防ぐためか、あるいは1人も逃がさないという意思の表れか。
直後、魔法騎士団の手から放たれた砲撃魔法が、空間を切り裂いて放たれた。
視界を白く染め上げる、とてつもない閃光。
遅れてやってきたのは、鼓膜を破らんばかりの凄まじい轟音だった。
ルベリオンの誇る頑強な石造りの砦は、ルベリオン王国が誇る魔導士の張ったその防護結界ごと文字通り一瞬で貫かれ、消し飛んだ。
もうもうと立ち込める土煙が未だ収まりきらぬ中、帝国の黒い戦艦が不気味に港へと接岸する。
アルチュールは、粉々に砕け散った石畳の上へと歩を進めた。
ガシャリ、ガシャリと、静まり返った港に彼の甲冑の鉄音が重々しく響き渡る。その姿は、まさしく焦土に降り立つ死神そのものだった。
辺りを見渡せば、一撃の砲撃によって薙ぎ払われた王国軍の兵たちが、無残な骸となって転がっている。
辛うじて生き残った数少ない兵士たちは、腰を抜かしながらも、形ばかりの臨戦態勢をとって砦の巨大な鉄門の前に集まった。
だが、その手はガタガタと震え、戦意は完全に削がれている。
先頭で門を背負い、決死の表情で剣を構える国境騎士団長が、恐る恐るアルチュールを見上げて声を絞り出した。
「……な、なぜ、このような暴挙に出る……! 先の敗戦に伴う属国化に際し、我が国は国庫を傾けてまで、要求された戦争賠償金をすべて納めたはずだ……っ!」
責め立てるような問いかけ。
しかし、アルチュールは一歩も足を止めず、ただ酷く冷めた声を返した。
「……何か勘違いをしているな。戦争賠償金が納められていようと、あるいはそれを反故にされようと、ここまで俺の怒りに繋がることはない」
一拍置き、アルチュールは冷酷に告げる。
「我が帝国は――お前たちが再び泥で汚した、我が皇妃を迎えに来ただけだ」
「皇妃……? 何を、言って……」
騎士団長の脳裏に、数日前の記憶が鮮烈に蘇る。
王都からの緊急の伝令。
そして、ぐったりと気絶した白い女を担ぎ、この国境を慌ただしく通過していった王家直属の密偵部隊の姿。
まさか。そんなわけがない。
目の前の怪物は、あの、王家が家畜以下に扱い、最後は生贄の捕虜として放り出したはずの――。
理解はできても、納得などできるはずがなかった。騎士団長はみるみるうちに顔を青ざめさせ、その表情を訳の分からぬ絶望と激昂で歪ませた。
「たかが無能の白持ちを連れ戻しただけだ、なぜこんな大軍が・・・・・・!」
その一言を聞いた瞬間、アルチュールは怒りの色に染まった瞳を見開いた。
彼の足元から、これまで辛うじて抑え込まれていた、禍々しくも圧倒的な黒い魔力が一瞬で吹き荒れる。漆黒のオーラが、足元の硬い地面をクモの巣状に砕いていく。
アルチュールは、ただ一人で国を滅ぼそうとしている理由が目の前の男たちには一欠片も理解できていないのだと知り、死神のような冷たい笑みを口元に浮かべた。
「……そうだった。お前たちは、そういう国だったな」
ぽつりと、哀れむように呟く。
次の瞬間、アルチュールはその昏い赤に染まった瞳のまま、国境兵たちが必死に守る巨大な鉄門へと向かって、右手を無慈悲に振り下ろした。
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