第35話 泥まみれの真珠
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
じっとりとした冷気と、首の後ろ、そして頭を割るような鋭い鈍痛。
それが、ブランシュが再び意識を取り戻した瞬間に感じたものだった。
「……っ……、く……」
身動きをしようとしたブランシュは、すぐに自らの手足が、肉に食い込むほどきつく紐で縛り上げられていることに気がついた。それだけではない。目覚めた彼女が置かれていたのは、毛足の短い、悪趣味なほど高級な模様が織り込まれた絨毯。
その王家の愚かさの象徴の上に、彼女は身ぐるみをすべて剥がされ、全裸の状態で無惨に転がされていた。
ルベリオンにおいて、魔力を持たない『白持ち』は人間以下の家畜だ。実の娘であろうとも、その扱いが変わることはない。ただ這いつくばるしかない床から、ブランシュが辛うじて目線を上げると、豪奢なソファの背中が見え、その向こうから下品な男の笑い声が聞こえてくる。
「――お目覚めかな、ルベリオンの呪い子」
上から降ってきたのは、帝国のあの私室でマルタを刺し、自分を拉致した、あの冷酷な王国語。
男――ルベリオンが誇る暗部隊長である密偵が、床に転がるブランシュの顔を上から覗き込み、口元を歪に釣り上げて声を掛けてきた。
その声に呼応するようにして、ソファの向こうから、実の父親である国王と、実の兄である第一王子が、下卑た笑みをその顔に浮かべてぬっと顔を出した。
「おやおや、随分と帝国でいい暮らしをさせてもらっていたそうじゃないか。お前が着ていたあの豪奢なドレス。妹が『なんであんな無能のゴミが、私より素晴らしいものを着ているのよ!』と怒り狂って、すぐさま剥ぎ取って行ったぞ」
第一王子は、床のブランシュをまるで汚物でも見るかのような目で笑い飛ばした。隣に立つ国王も、不快そうに鼻を鳴らす。
「国を救うための生贄とはいえ、我が王宮にあの汚らわしい『白』を再び入れることになるとはな。実に見苦しい。視界に入るだけで吐き気がするわ」
その言葉を耳にしたブランシュの胸の内に、かつてのような恐怖や絶望は湧き上がってこなかった。
自分の髪を優しく洗い流してくれたロザリー。美味しいスープを「美味しい」と笑い合えたアルトとの温かい記憶。等しく尊い祝福の形を教えてくれたマルタ。それらを知った今のブランシュの心にあるのは、ただ一つ。
目の前にいる、実の家族のはずのこの男たちが、ただ、底が浅くて醜く、心から『憎い』という冷徹な感情だけだった。
ブランシュは震える身体を奮い立たせ、床に全裸で転がされながらも、真珠のような強い眼光を宿して二人を真っ直ぐに見据えた。
「……なんの用ですか。わたくしを、またどこかの生贄にでもするつもりですか」
家畜以下のゴミが、臆することなく自分たちを睨み返してきた。その事実に国王と王子は一瞬だけ不愉快そうに眉をひそめたが、すぐに、実に見苦しい大笑いを部屋中に炸裂させた。
「ははははは! 生贄だと? 莫迦を言うな、お前ごときにそんな大層な役目など、二度と与えるものか!」
「お前に用など無いのだよ。ただ、何の価値もないと思っていたお前が、存外、我が国の役に立ちそうだったのでな。ついでに、そろそろ恋しい里帰りがしたい頃だろうと、俺たちが気を遣って、我が国の最高戦力である暗部隊長に直々に迎えに行ってもらったんだ」
第一王子は長椅子に深く腰掛け、品性のない口調で話を続ける。
「何、少しあの帝国の死神と話がしたいだけなんだがね。どうやらお前を人質としてここに置いておけば、こちらの無理な『お願い』も、あの狂王はすんなりと聞いてくれそうだと分かったものでな。巻き上げられた国庫の返還、それどころか我が国の言いなりになる、最高の便利な肉人形だ」
「それにしても……あんな見るも無惨な泥まみれのナリで、生贄として皇帝の前へ差し出されたのだぞ? それだというのに、わずか半年であの冷酷無比な化け物を飼い慣らすとは。ブランシュ、お前……そちらの方の、男をたぶらかす天性の才能があったんじゃないか?」
「はははは!本当、身体を売って生き延びるなんて、無能の白持ちにはお似合いの卑しい才能で!」
飛び交う口汚い罵詈雑言。
ブランシュは、ただ冷めきった瞳でそれらを見つめていた。
(ああ、……そう。わたくしがこの国を出た時のあの酷い様子を、この人たちはすべて見て、知っていて、その上で笑っていたのね)
かつては、これが自分の運命なのだと思っていた。王家に生まれた呪い子だから、このように虐げられ、罵られ、全裸で床に転がされることが『普通』なのだと思い込まされていた。
けれど、それは違う。
(こんな人たちの、こんな汚い言葉に……私は今、とても深く、傷付けられている。……アルト様。陛下に、会いたい……)
目を閉じれば、あの方が恋しく、愛おしく思い出される。
今頃、わたくしがいなくなったあの部屋で、アルト様はどれほど心配されているだろう。またあの強すぎる魔力が身体に溜まって、引き裂かれるような痛みに一人で苦しんでいるのではないか。
あの御方は、わたくしが傍にいなければ、自分で食事を摂ることも、横になって睡眠を取ることさえも疎かにしてしまう、酷く不器用で、愛しいお方なのに。
――わたくしが、傍にいて差し上げなければいけないのに。いいえ、あの方の傍にいたいのに。
じわりと、純白の瞳に熱い涙が溜まっていく。
ブランシュは悔しさと、アルトへの切ない愛おしさに胸を締め付けられながら、自分が横たえられている高級な絨毯を、親の仇のように強く、強く睨みつけた。
その、生贄の捕虜とは思えないほどの強靭な意志を宿した横顔を見て、傍らに立っていた暗部隊長の男が、感心したように口の端をニヤリと釣り上げた。
「敵地で、しかもこんな全裸で床に転がされておいて、まだそんな牙の抜けない顔ができるんだな。随分と帝国で、生意気な教育を吹き込まれてきたらしい……」
男の下卑た嘲笑が、冷え切った私室の中へ、醜く響き渡る。
「敵地だなんて酷い言い草じゃないか。言っただろう、これはちょっとした里帰りだよ。愛しいお前の婚約者から連絡があれば、我が国の娘として、少し強めにお願いしてくれればいいんだ」
国王が下卑た笑みを浮かべたまま、冷たい床に転がるブランシュの前に歩み寄った。
「戦争賠償として巻き上げられた我が国の国庫をな、すべて返して欲しいんだよ」
黒い、どろりとした欲望に塗れた笑みを浮かべ、国王はブランシュの純白の前髪を力任せに鷲掴みにした。強引に顔を釣り上げ、耳元で笑いながら、呪詛のように言葉を囁く。
その信じがたいほど浅ましく、身勝手な言い分に、ブランシュの瞳が大きく見開かれた。
「……そんな、ことで……? たった、そんなことのために……マルタさんを刺したのですか……!?」
怒りと困惑に震える悲痛な問いかけ。だが、それを聞いた第一王子は、さも「なんてことのない日常の雑事」を耳にしたかのように、軽薄な手つきで前髪をいじりながら暗部隊長へと冷たい目を向けた。
「なんだお前、城の者を殺したのか」
「仕方がありませんよ、殿下。あの城の警備は文字通り鉄壁、おまけにこいつは四六時中、誰かしらの監視の目がある。さらに皇帝はあの死神ときている。まともにやり合って無事で済むはずがありません。むしろ、この無能を生かしたまま連れ帰った俺の功績に、感謝して欲しいくらいですよ」
暗部隊長は、やれやれと大袈裟に肩を竦めてみせた。
「いやはや、本当に大変でした。結界が何重にも張られていたものですから、侵入経路を見つけるだけでも一苦労で。……しかし面白い国ですね、あのヴァランシエンヌという国は。各部屋にわざわざ水の通り道を作って、使用済みの水が流れる経路まで城中に張り巡らせている。私は今回、その使用済みの水が流れるパイプの点検口を通って厨房へと侵入しましたが……あそこは失敗でしたね。臭くて汚くて、実に見苦しい。あんな機能的な物を作るくらいなら、平民どもを上手く使って四六時中掃除でもさせれば良いものを」
男は、それがたいそう愉快な滑稽話であるかのように、けらけらと声をあげて笑った。
その嘲笑を、ブランシュの純白の瞳が、恐ろしいほどの力強い眼光となって射抜いた。
彼女は自分を縛る紐の痛みも、髪を掴み上げられている苦痛もすべて忘れ、目の前の傲慢な男たちを鋭く睨みつけ、凜とした声で言い放った。
「……あの水道管や排水管は、帝国がどれほど自由で、美しい思想を持った豊かな国であるかの証明です! 住まう者たちの生活を、知恵と技術でどれほど等しく尊く守ろうとしているか――そのひとつに、どれだけの魔法技術と知識、血の滲むような努力の賜物が詰まっているかも考えられないあなた方に、帝国を、そしてあの方々を軽んじる資格など、万に一つもありません!!」
胸を張り、言葉の刃を突きつけたブランシュ。
その想定外の迫力に、暗部隊長の笑い声がピタリと止まった。男は冷ややかな、底寒い目へと表情を変え、値踏みするようにブランシュを見つめると、思い出したかのように再び口を開いた。
「……随分と言い返せるようになったな。しかし、あの薄汚い配管を出た先に、ちょうど侍女が一人でいたのは幸運でした。潜入用の制服をどこで調達しようかと悩んでいたのでね。向こうは、小さく縮んでいた私に気づくこともなく、訳も分からないまま死んで行ったでしょうから」
目の前で刺されたマルタだけでなく、あの冷たい飲み物を取りに行ってくれた若い侍女までもが、この男の手で惨殺されていたという最悪の真実。
ブランシュの胸に凄まじい衝撃が走り、呼吸が止まりそうになる。けれど――彼女はすぐに、驚くほどの速度で自らの心を冷静な檻へと閉じ込めた。
(……動揺してはいけない。この人たちは、そうやってわたくしの心を掻き乱して、絶望させようとしているのだわ。……ここで私が折れてしまえば、あの城で命を奪われた方々の無念に、泥を塗ることになってしまう)
ブランシュは涙をグッと堪え、濁りのない瞳で真っ直ぐに宣言した。
「そうやって、私の心を掻き乱して絶望させようとしても無駄です。いま、あなた方のせいで傷付けられた方々を、ここで惨めに悼むことはいたしません。わたくしは、あなた達のそんな浅ましい謀略には絶対に屈しません。……私は、必ずあの温かい帝国へと、アルト様の元へと帰ります!」
「――っ、この、生意気な……っ!!」
ブランシュの前髪を掴み上げたまま、国王の身体が微かに戦慄いた。
生まれてから18年間、ただ家畜のように怯えて這いつくばるだけだったはずの『白持ちの無能』。その娘が、見たこともないほど毅然とした態度で自分たちを見下ろしている。その一瞬の気圧された恐怖は、即座に、王としての猛烈な屈辱へと塗り替えられていった。
「お前は白持ちだろうが!! 何の力も持たなかった不具者の癖に、何を偉そうに王家に向かって抜かすか! ゴミはゴミらしく、床に這いつくばっていればいいのだ!!」
――ガンッ!!!
激昂した国王は、掴んでいた髪ごと、ブランシュの頭を容赦なく硬い床へと叩きつけた。
「う、……っ!」
「これでもか! これでもか!!」
鈍い音が何度も室内に響き渡る。全裸のまま抵抗もできず、無残に打ち付けられたブランシュは、打ち所が悪かったのか、やがて視界が暗転し、完全に意識を失ってその場にどさりと頽れた。力なく、人形のようにぶら下がった白い身体。
「はぁ、はぁ、……薄汚いゴミめが」
国王は荒い息を吐きながら、地面に投げ捨てるようにして、ようやくブランシュの前髪から手を離した。床には、引きちぎられた純白の髪が何房も散らばり、彼女の額からは赤い血が静かに流れ出して高級な絨毯を汚していく。
「おい、暗部。この生ゴミを別室へ連れて行け。死神から通信が入るまで、厳重に閉じ込めておくのだ!」
「御意に、陛下」
意識のないブランシュの身体は、床の上を乱暴に引きずられながら、冷たく暗い、ルベリオンの最奥へと連れ去られていくのだった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




