第34話 お前達のせいだからな、高くつくぞ
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執務室には、張り詰めた緊張感と、文官たちの走らせる羽ペンの音だけが響いていた。
アルチュールはデスクに向かい、自らが前線へ出征している間の国政の差配、および城内の防衛体制について、冷徹な手際で文官たちと打ち合わせを行っていた。
そこへ、控えめなノックの音と、聞き慣れた侍女頭の声が届く。
「陛下。ロザリーにございます」
「……入れ」
入室の許可を出すと、重厚な扉を開けて入ってきたロザリーは、痛々しく眉根を下げていた。その手には、本館の回廊に飾られていたはずの、大ぶりな一輪挿しの花瓶が大切そうに抱えられている。
「陛下……。城内をすべて捜索させましたが、騎士団を除いた本館の使用人、三百名のうち五十四名が未だ行方不明となっております。……そして先ほど、陛下の私室の前の床にこちらの花瓶が転がっており、中を確認いたしましたところ……」
差し出された花瓶の口を、アルチュールは無言で覗き込んだ。
その瞬間、彼の昏い赤に染まった瞳が、再び怒りによって激しく刻まれた。
「……愚かな鼠だ。殺してくれと懇願するほどの絶望を見せてやろう」
地を這うような低い呟き。
花瓶の底には、行方不明となっていた使用人たちが、人間の小指ほどのサイズにまで縮められ、文字通り『詰め込まれて』いた。元々入っていた古い水に衣服を濡らし、何十人もの人間が重なり合いながら、はくはくと酸欠の魚のように口を動かして何かを必死に訴えかけている。
密偵はブランシュの元に安全にたどり着く為に、回廊で行き違った使用人たちを魔法で縮小し、邪魔なゴミを捨てるようにこの花瓶の中へ放り込んでいたのだ。
「ロザリー、すぐに柔らかい布を一枚、大広間に持ってこい。後からでいい、この人数分も手配しろ」
「はっ」
「そこのお前は、大湯殿をただちに整える指示を出してこい。そっちのお前は、厨房に料理長がいれば温かい食事を用意させろ。いなければ、今動ける者にその指示を必ず引き継がせろ」
アルチュールはその場にいた文官たちへテキパキと的確な命令を飛ばすと、小さな命が詰め込まれた花瓶をなるべく揺らさないよう、自らの手で慎重に抱えて大広間へと向かった。
広大な大広間の中心。ロザリーが手早く敷き詰めた柔らかな毛布の上へ、アルチュールはゆっくりと花瓶を傾けた。
ゴロゴロと、人形のようになった使用人たちが布の上へと転がり出てくる。
「今からお前たちにかけられた『縮小』の魔法を解く」
アルチュールは布の上の小さな人々を見下ろし、厳かに告げた。
「なるべく人同士が重ならないよう、広がれ。怪我を負っている者もいるな……。巨大化の衝撃で肉体に負担がかからぬよう、互いを横たえてやれ」
その言葉がしっかりと理解できたようで、小指ほどの使用人たちは、互いに声を掛け合うようにしてまばらに動き、空間を作っていく。
彼らの配置が終わるのを見届けたアルチュールは、広間が見渡せる中央の美しい螺旋階段を上り、その踊り場まで出ると、眼下に向かって右手を静かにかざした。
淡い魔力の波動が広間を包み込んだ、次の瞬間。
使用人たちを縛っていた術式が霧散し、彼らの身体は瞬く間に元のサイズへと戻っていった。大広間が、五十三名の安堵の泣き声と、荒い呼吸の音で満たされていく。
階段を下り、彼らの元へと戻ったアルチュールの周囲に、涙を流す使用人たちが集まってきた。
「陛下……! 陛下……っ!」
「よくぞ、よくぞお助けくださいました……!」
「陛下、申し訳ありません、この者が……! わたしが花瓶に放り込まれた際、下敷きになって骨を折ってしまいました……!」
何人かの使用人は複雑骨折などの重傷を負っていたが、幸いにも命に別条はない。アルチュールは彼らの傷口を一瞥し、低く呟いた。
「悪いが、俺の魔力はお前たちの肉体には強すぎる。これほどの軽傷に俺の力を使えば、過剰な魔力で逆に肉体を灼きかねん。……重度の致命傷であり、まだ微かに息がある者であれば、俺が治療できる。それ以外の者は、医官の――」
アルチュールが「医官」という言葉を口にした瞬間、泣き崩れていた使用人たちが一斉に顔を見合わせ、まるで海が割れるようにして、静かにその中央を避けた。
広間の中心。そこに、ポツンと横たえられている一人の女性がいた。
衣服は複雑に曲がった骨によって異様に膨らみ、濁った両眸は、光を失って完全に瞳孔が開いている。
すでに、事切れていた。
花瓶という狭く暗い閉鎖空間の中に、乱暴に投げ込まれ、他の使用人たちの下敷きとなって壮絶な苦痛の中で息絶えたのだろう。そして、それを同じ空間で密室に閉じ込められ、助けることもできずに見守るしかなかった者たちの、凄まじい恐怖と絶望。
「なんと、惨い…………」
ロザリーがぽつりと声を震わせ、膝を突いて、その女性の開いたままの目を優しく閉じさせてあげた。
「皆、耳を塞げ」
アルチュールは短くそう告げると、横たわる遺体へ向かって右手をかざした。
――メキメキ、ミシ、ミシ。
静まり返った大広間に、骨が元の位置へと戻っていく嫌な音が響く。どれほど無惨に曲がっていた骨であろうとも、アルチュールの魔力はそれを瞬時に正常な形へと修復してみせた。
けれど。骨は元に戻っても、一度失われた命が戻ることは決してない。
修復された衣服の隙間から、穏やかになったその顔が覗く。
この凄惨な事件における、城内二人目の死亡者。
それは、他でもない――つい昨日までブランシュの傍に寄り添い、彼女の頭皮の火傷や投石の傷を、誰よりも丁寧に、優しく看病して回復させてくれた、あの優秀な女性医官その人であった。
◇
大広間での凄惨な処置を終え、アルチュールとロザリーは静まり返った回廊を歩いていた。
窓の外を見上げれば、昼を過ぎ、太陽がゆっくりと西の水平線へ近づき始めている。夜の気配が近づくにつれ、城内を包む焦燥感はその色を濃くしていった。
アルチュールはすでに、出征のための重厚な黒い鎧をその身に纏っている。光を吸い込むような漆黒の甲冑は、彼がこれから「皇帝」ではなく、ただの「死神」として戦場へ赴く覚悟の証のようだった。
「陛下。助け出された五十三名ですが、いまそれぞれ大湯殿で冷えた身体をゆっくりと温めさせ、その後、食堂にて温かい食事を摂らせております。怪我を負った者たちも、別の医官に診せましたが……皆、幸いにも大事無いそうです。ただ、しばらくは安静が必要とのことでございましたので、然るべき休暇を与えようと思います。使用人宿舎へ医官と看護師を派遣し、そこで療養させるよう手配いたしますが、よろしいでしょうか」
「……そちらは任せる」
アルチュールは前を見据えたまま、低く短い声で応じた。ロザリーは痛々しく眉根を下げ、言葉を続ける。
「物理的な傷は癒えても、あの閉鎖空間に閉じ込められていた恐怖から、心の傷を抱えた者もおります。そちらにもしばらくの休暇を与え、精神の落ち着きを待って、然るべき期間ののちに面談の機会を設けようと思います」
「ああ……。しばらく城を空けるが、公務以外の屋敷のことはすべてお前に任せる。頼むぞ、ロザリー」
「かしこまりました。どうかご心配なさらず、お任せくださいませ」
コツ、コツ、と、鎧の擦れる音と足音だけが回廊に響く。しばらくの間、二人の間に重苦しい無言の時間が流れた。
夕陽が回廊に長い影を落とし始めた頃、アルチュールがぽつり、と、血を吐き出すかのような声音で呟いた。
「……ブランシュは、あの医官が好きだったな。……悲しむだろうな」
その言葉に、ロザリーは胸を締め付けられるようにして、きゅっと唇を噛み締めた。
「……そうですね。ブランシュ殿下は、マルタが刺されたこと、侍女が殺されたこと、そして何より、ご自身を大切に診てくださった医官が亡くなったこと……そもそも、このような凄惨な事件が起こってしまったこと、そのすべてに心をお痛めになるでしょう。そして……酷く、ご自身を責められるかと存じます。自分がここにいるせいで、と」
「そうだな……。あの国は、歴史上からも地図上からも消し去ったとしても、まだ足りないな」
アルチュールは歩みを止めぬまま、音が鳴るほどに拳を固く握り込んだ。昏い赤に染まった瞳が、ルベリオンへの容赦のない怒りによって、さらにどす黒く、深く変色していく。
やがて二人は、皇城の巨大な正門の前へと辿り着いた。
そこには、すでに漆黒の軍装に身を包んだ帝国の最精鋭騎士団が、一糸乱れぬ隊列で静粛に整列していた。
門の手前で、ロザリーはアルチュールの前に立ち、その深い怒りと正義に満ちた瞳を真っ直ぐに見つめた。
「陛下。どれだけブランシュ殿下が今回のことでご自身を責められようと、たとえこのお立場を拒否されようと、わたくしが魂を賭してお仕えしたいのは、ブランシュ殿下、ただお一人にございます。……必ず、殿下をこちらへ、この温かい我が家へと無事に連れ帰ってくださいませ。そしてそれは、あなた様とご一緒でなければ、決して許しませんよ」
ロザリーの不器用で、けれど絶対の覚悟が籠もった引き止めに、アルチュールは僅かに目元を和らげた。
「ロザリー。前にも言ったが、俺も全く同じ気持ちだ。……俺の傍には、彼女がいなくてはならない」
その力強い言葉を聞き届け、ロザリーは安堵と祈りを込めて、アルチュールへと深く、深く頭を下げた。
アルチュールはそのまま前を向き、整列した騎士団の先頭へと進み出た。
西の空が、燃えるような血赤色に染まる黄昏時。アルチュールは並み居る兵士たちを見渡し、腹の底から響く声で、奮起を促す宣誓の言葉を述べた。
「我が精鋭なる騎士たちよ。我が国は持てる者が持たざる者へ力を捧げ、この世界を美しく循環させてきた。だが、あの大地を汚す浅ましき小国は、帝国の至宝であり、我が国の平穏を調律する唯一の皇妃を強奪した! これは我がヴァランシエンヌ帝国への、明白なる反逆である!」
兵士たちの間に、地鳴りのような怒号が走る。
「あの国に、これ以上の存続は不要だ。一人残らず、跡形もなく蹂躙しろ! 我が光を奪った代償を、その血をもって払わせるのだ!」
アルチュールは腰に下げた漆黒の剣を、一息に引き抜いた。
金属音が夕闇に爆ぜ、彼はその刃を天に向かって真っ直ぐに突き上げる。
「――出陣せよ!!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!』
数千、数万の騎士たちの、地響きのような咆哮が帝国を揺らした。
ゴゴゴゴゴ……と重々しい音を立てて皇城の大きな門が開かれる。
進軍の足音は大地を揺らし、夜の帳が世界を完全に覆い尽くす頃、軍勢は帝国の港へと到達した。
アルチュールを先頭に、精鋭たちは漆黒の巨大な戦艦へと次々に乗り込んでいく。星すらも見えない暗闇のなか、幾重もの黒い軍艦が、海の向こうに佇む破滅の国――ルベリオン王国を目指し、静かに、けれど圧倒的な死の気配を湛えて出航した。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




