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あなたへ捧ぐ祝福  作者: なのか


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第33話 漆黒の天蓋

数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。

しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。

 まもなく本日の訓練が終わろうとしていた夕方の帝国第一騎士団の訓練所は、突如として招集された数千人の精鋭騎士たちの熱気と、奇妙な静寂に包まれていた。

 急な非常招集。それも、他でもない皇帝アルチュール自らの命令によるものだ。甲冑を急ぎ身に纏った騎士たちが整然と列をなすなか、訓練所の巨大な鉄扉が静かに開かれた。

 ――コツ、コツ、と。

 静まり返った空間に、一歩ずつ大理石を踏み締める足音が響く。

 その場にいた全員が、入ってきた主君の姿を見た瞬間、本能的な恐怖で総毛立ち、危うく武器を落としそうになった。

 漆黒の上着を翻して歩いてくるアルチュールの周囲には、陽炎のような、どす黒い魔力の帯が禍々しく渦巻いている。何より異常だったのは、その貌(かたち)だ。いつもは深い夜の色をしていた彼の双眸は、怒りと焦燥によって、ギラりと昏く光る「赤」へと変色していた。さらに、本来なら白い弾力を持つはずの白目が、右側の端から、泥を流し込んだように濁った「黒」へと深く侵食されている。

 異形の王。死神の真の本性。

 並の人間であれば視線が合っただけで精神が崩壊しかねないほどの圧倒的な魔圧を放ちながら、アルトは壇上へと上り、並み居る騎士たちを冷徹に見下ろした。


「これより、ルベリオン王国への全面戦争を開始する」


 低く、地を這うようなアルトの声が、訓練所の隅々にまで響き渡る。

 騎士団長をはじめとする宿将たちが、一瞬だけ驚きに目を見開いた。ルベリオンは半年前のオーリィ公国との戦争に勝利したおり、帝国の従順な属国(捕虜)になったはずだ。なぜ今、全面戦争なのか。

「……陛下。恐れながら、ルベリオンはすでに我が国の支配下に。どのような大罪があったか、お聞かせ願えますでしょうか」

 騎士団長が、溢れ出る魔圧に歯を食いしばりながら一歩進み出て尋ねる。

 アルチュールは表情を一切変えないまま、その悍(おぞ)ましい赤と黒の瞳を騎士団長へと向けた。


「鼠が城に紛れ込み、厨房の侍女を殺害。さらに、本館の最奥から――皇妃を奪い去った」


 騎士団長は目を見開き息を飲んだ。

アルチュールは続ける。


「我がヴァランシエンヌ帝国の皇城に侵入し、帝国の至宝である皇妃を強奪した。……これは帝国に対する明白な宣戦布告であり、反逆だ」


 アルチュールが皇妃と口にした瞬間、訓練所の気温が文字通り結氷するかのように、一気に数度下がった。騎士たちの間に、戦慄と、それ以上に激しい怒りの波動が伝播していく。彼らにとって、ブランシュはただの敗戦国の王女ではない。この恐るべき狂王を文字通り手懐け、帝国に平穏をもたらしてくれている、生ける奇跡そのものだ。それを、あの浅ましき小国が泥に塗れさせ、奪い去った。


「これより最精鋭の全軍を率い、ルベリオンへ進軍する。……あの国に、生きる価値などない」

 アルチュールは静かに、けれど逃れられぬ絶対の神託のように告げた。


「我が光を奪った代償を、あの血統主義の傲慢な王族どもに、その命と国の崩壊をもって払わせる。……一人残らず、跡形もなく蹂躙しろ。抵抗する者はすべて焦土の肥やしとせよ。夜入りと同時に出陣する。ただちに軍備を整えろ」

「――はっ!! 仰せのままに、皇帝陛下!!」


 騎士団長の地鳴りのような叫びを筆頭に、数千人の精鋭騎士たちが一斉に拳を胸に当て、狂おしいまでの忠誠の咆哮をあげた。

 壇上を下りるアルトの背後、割れた天井から覗く帝国の空には、彼の怒りに呼応するように、夕焼けをも覆い尽くす分厚い暗雲――『漆黒の天蓋』が、急速に広がり始めていた。



◇



――バタンッ、と。

 浴室の前室へと繋がる重い木扉が乱暴に閉め切られ、内側から鍵がかけられた。

「ん、――っ、う……っ!!」

 ブランシュは男の手に口を完全に塞がれながらも、涙を流し、必死になって声を張り上げようと暴れていた。

 このまま連れ去られれば、アルトがどれほど傷つき、どれほどその身を灼く激痛に苦しむことになるか、今のブランシュには痛いほど分かっていた。だからこそ、死に物狂いで密偵の足を何度も踏みつけ、脱衣用の柔らかなマットをぐちゃぐちゃに乱しながら、必死に抵抗を続ける。

 だが、密偵はその強靭な腕の力を微塵も緩めることなく、ブランシュの身体を無慈悲に浴室の奥へと引きずり込んでいった。

 ガラス扉が乱暴に閉められ、ブランシュは冷たいタイルの床へと叩きつけられる。

 男が横の蛇口を乱暴に捻った。途端、頭上のシャワーから、勢いよく冷水がブランシュの頭へと降り注ぐ。

「――っ、ひ、……っ」

 突然の冷水に息を詰まらせ、水滴を払いながら密偵を見上げようとした、その瞬間だった。

 勢いよく伸びてきた男の硬い手のひらが、ブランシュの鼻と口を潰すようにして、正面からその顔を鷲掴みにした。強引に上を向かされ、タイルの床に後頭部が押し付けられる。

「何故、俺がすんなりとこの部屋まで来られたか、その足りない頭でよく考えろ」

 シャワーの音に混じって、男の、ぞっとするほど起伏のない冷たい王国語が鼓膜へと叩きつけられた。


「この城の、あの回廊に、普段なら何人の使用人がいると思っている。……俺が握っているのは、お前やあの婆さんの命だけじゃない。あの廊下で行き違った何人もの使用人、その生殺与奪の権利も、すべて俺の手の中にある。――お前は、本当に、これ以上あいつらを殺したいのか?」


「…………ッ!!」


 ブランシュは、目玉が零れ落ちるのではないかと思うほどに、その瞳を大きく見開いた。

 男のその不気味なほど確信に満ちた言葉が、彼の身に纏う「帝国の侍女服」の意味と最悪の形で結びついていく。

 いつも洗練された使用人たちによって穏やかに、そして静かに管理されていた、この美しい本館。その完璧な静寂の中に、この男は音もなく紛れ込み――そして、その服を奪うために、すでに誰かの命を容赦なく奪ってきたのだ。

 もし自分がこれ以上騒げば、この男はさらに城の使用人たちを、そして目の前で自分を庇おうとしてくれたマルタやロザリーさえも、躊躇なく手にかけるだろう。

 ――私のせいで、また誰かが死ぬ。

 かつてルベリオンの塔で唯一自分を愛してくれた、18年共に居た人の死の記憶。それが今、この極限の現実としてブランシュの目の前に突きつけられていた。

 カタカタと、全身が拒絶反応を起こすように激しく震え始める。ブランシュの身体から、完全に抵抗の力が抜けた。


 男はブランシュが戦意を喪失したのを確認すると、一転して、顔ににっこりと下卑た笑顔を浮かべた。

「そうそう、大人しくしろ。本当に時間が無いんだよ。……皇城のこの部屋以外の魔導水道を止めないと、このルートは使えない。異変に気づかれて大勢が動き出したり、どこかの栓を開けられて水が流れ出してしまえば、俺たちの帰還成功率は著しく下がるからな」

 男はそう言いながら、ようやくブランシュの顔から手を離した。

 そのまま、彼女の視界を遮るようにして、目の前でひらりと掌を横切らせる。

「大人しく一緒に実家へ帰ろうな」

突如ブランシュの視界が、ガクッと音を立てるようにして垂直に落下した。

 視界の端にある、さっきまで自分を打ち付けていたタイルの床が、信じられないほどの速度で広がり、周囲の景色が、まるで巨大な怪物の城のようにみるみるうちに膨張していく。

「え、……あ……」

 自分の身体が魔法によって、ネズミや蟲と同等の大きさにまで縮んでいく恐怖。

 それを自覚する間もなく、同じく小さな姿へと変化した密偵の鋭い手刀が、ブランシュの細い首筋へと正確に叩き込まれた。

「……っ」

 ブランシュの意識は、そこでぷつりと途切れた。

 密偵は気絶したブランシュの身体を易々と片腕で抱きかかえると、シャワーの水がさらさらとながれていく、暗い、暗い排水溝の鉄格子の隙間へと、音もなく滑り込んで消えていった。

 それが、完璧な帝国の本館から、皇妃殿下が完全に消失した全貌だった。


お読みいただきましてありがとうございました。

次回もお楽しみくださいますと幸いです。

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