↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたへ捧ぐ祝福  作者: なのか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/48

第32話 逆鱗

数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。

しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。

 執務室の壁に掛けられた魔導時計の針が、静かに時を刻んでいる。


 アルチュールはふと顔を上げ、その盤面を見つめた。彼が私室を後にし、この執務机に向かってから、まだそれほどの時間は経っていない。それというのに、書類の文字は滑るばかりで、どうしても公務に集中することができなかった。

 目を閉じれば、先ほど中庭で見せた、ブランシュのあのまばゆい姿ばかりが脳裏に浮かんできてしまう。


(――俺も焼きが回ったな)


 自嘲気味に、ふっと鼻で笑う。焦土を好む死神と恐れられた自分が、たった一人の少女にこれほど意識を乱されている。かつての自分なら、己のそんな様子にひどく不快感を抱いただろう。だが不思議なことに、今の胸の奥にあるのは嫌悪ではなく、どこか気恥ずかしく、それでいてどうしようもないほどの温かな嬉しさだった。

 ペンを置き、肘を突いて顎を支えながら、アルチュールはここ一ヶ月の彼女の様々な姿を、記憶の底から一つずつ手繰り寄せていく。


 用意された粥やスープを、本当に美味しそうに、奇跡でも見るかのように食べる姿。

 元が酷い栄養失調だったために、そこまで量を食べられない彼女が、食事の合間合間に、喉に詰まらせないよう外の景色を眺めて静かに食休みをする姿。

 家庭教師が持ち込む難しい指導や本に、必死になって食らいついていこうとする、ひたむきな純白の瞳。

 贅沢を教わらずに育ったせいで、いくら綺麗で豪華な衣装を用意しても、未だに気恥ずかしそうに袖を弄って慣れないままでいるところ。

 そして、夜。同じベッドで眠る時、最初は俺の腕枕に「申し訳ありません」と遠慮がちに距離を置くくせに、いざ深く眠ってしまえば、本能で温もりを求めるようにぴったりと身を寄せて擦り寄ってくる、あの無防備な体温。


 まだ同じ部屋で生活を始めて、たったの一ヶ月しか経っていない。それだというのに、彼女の愛らしい姿は、挙げればキリがないほどに彼の心を支配していた。


 ああいうのを、世間では『可愛い』と言うのだろうな。


柄にもない思考を巡らせる。

「……。もう、仕事にならないな」

 ポツリと呟き、アルチュールは椅子から立ち上がった。

 これ以上ここにいても、無駄に時間を浪費するだけだ。彼女が待つはずの、あの暖かな私室へと戻ろう。

 私室へと続く長い回廊を、ゆったりとした足取りで歩きながら、アルチュールは先ほど中庭で交わした約束について考えていた。

 彼女を、何と呼ぼうか。


「可愛い人……。そうだな、……」


 頭の中で思いついたその新しい名前を転がしてみる。

 お前が俺をアルチュールと呼ぶのなら、俺もお前を、世界でただ一人だけの愛称で呼びたい。


 そんな少しだけの甘い気恥ずかしさを胸に抱きながら、アルチュールは自身の私室の前に立ち、重厚な真鍮のドアノブへと手を伸ばした。


 ――ガチリ。


 ノブを握り、視線を落とした瞬間。

 アルチュールの思考が、完全に停止した。

 扉の隙間、その足元の絨毯に、ドロリとしたどす黒い赤が、不気味に広がっている。

 血だ。

 よく見ればそれは、ドアの向こう側から、遮るものから溢れ出し、じわじわと外へと流れ出てきているものだと分かった。


 一瞬にして、体中の血の気が引いていくのが分かった。心臓が、耳元で煩いほどの警鐘を鳴らし始める。

 アルチュールはノブを強引に捻ると、かかっていた鍵もお構い無しに勢いよくその扉をむしり取るように開けた。


「ブランシュ……っ!?」


 室内に、鉄錆の強烈な臭いが充満していた。

 同時に、廊下の向こう側の階段から、息を切らして駆け上がってきたロザリーが部屋へと滑り込んでくる。

「陛下! 厨房で侍女が…っ、ああっ! マルタ!?」

 ロザリーの悲鳴が響く。だが、アルチュールの視線は、床に倒れ伏しているマルタではなく、そのさらに奥、もぬけの殻となったベッドと、静まり返った室内へと向けられていた。


 どこにも、いない。

 あのまばゆい純白の髪も、自分を待っているはずの姿も、影も、気配すらもない。

 アルチュールは呆然と立ち尽くした。一瞬だけ、世界が静止したかのような錯覚に陥る。


 だが、次の瞬間、彼は弾かれたように踵を返し、回廊へと飛び出した。私室から、ひとつ空けて隣の部屋。

 彼女のために、すべての家具や調度品を専用に誂え、ロザリーが毎日欠かさず掃除と換気を行い、彼女が移ってくるのを今か今かと品位を整えて待っていた、ブランシュの自室。


 もしかしたら、自分でそちらに逃げ込んでいるのかもしれない。さっきはあんなに気恥しそうにしていたから。


この場面でそんな好都合なことがあるわけないのはわかっていた。だが確認せずには居られない。

 バンッ!! と、ドアを蹴破る勢いで開け放つ。

 しかし、中に入ったアルチュールを迎え入れたのは、人の気配が完全に途絶えた、冷え切った静寂だけだった。

「…………」


 ブランシュは、ここにもいない。

 アルチュールは、自分の指先が、見たこともないほどに小刻みに震えていることに気がついた。

 呆然とした、幽霊のような足取りのまま、彼は再び、血の海の広がる自身の私室へと、ゆっくりと戻っていくのだった。


◇


 部屋の凄惨な血の海の中心で倒れ伏すマルタを見つけた瞬間、ロザリーは迷わずその身体へと駆け寄った。

 膝を突き、ドレスの裾が赤く染まるのも構わずにマルタの手首へと指を添える。とく、とく、と、か細くも確かに脈打つ感触があった。

「マルタ! しっかりなさい!」

 マルタはかろうじて生きており、青ざめた唇から浅い呼吸を繰り返している。ロザリーは弾かれたように立ち上がり、開け放たれた廊下に向かって鋭い声を張り上げた。

「誰か! 医官を、医官を早く呼びなさい!」

 しかし、叫び声は冷たい天井に跳ね返るだけで、廊下は水を打ったようにしんと静まり返ったままだ。返事はない。

 ロザリーはすぐにマルタの状態を観察し、背中に深々と突き刺さった一本のナイフ以外に目立った外傷がないことを確認した。これ以上、背中の傷を刺激しないよう注意を払いながら、その老体をゆっくりと自分の膝の上へと抱き起こす。

 すると、ロザリーの胸元で、マルタの唇が微かに動いた。小さな、消え入りそうな声が聞き取れる。

「……申し訳、ありません……。私の、せいです、ロザリー様……」

「馬鹿なことを言わないの。何があったか、話せることだけでいいから教えて」

 ロザリーが続きを促すと、マルタは薄く目を開け、途切れ途切れに事件の全貌を話し始めた。


「ノックの音で……お飲み物が届いたのかと、私がドアを開けました……。ですが、相手の顔を見る間もなく、首元にナイフを当てられて、両手を拘束されたのです。男の声でしたが、視界に入ったその腕は、この城の侍女服の袖でした。そこで、私が人質として捕らえられているのだと気付きましたが……」


 マルタがそこまで絞り出した時、足音が近づき、ブランシュの部屋へ向かっていたアルチュールが戻ってきた。

 彼は魂が抜けたかのようなふらふらとした足取りでベッド脇まで歩を進めると、そこに立ち尽くし、もぬけの殻となったベッドをただ無言で見つめ始めた。

 その背中から漂う、世界の終わりを予感させるような異様な静けさに、ロザリーは一瞬、本能的な恐怖を覚えた。だが、彼女はすぐに強靭な精神力で冷静さを取り戻し、腕の中のマルタを支えたまま、凛とした声をアルチュールへと掛けた。


「陛下。マルタが人質となり、ブランシュ殿下は捕らえられたようです。マルタは背中を刺されましたが、それ以外に傷はなく、幸いまだ息をしております」


 報告を聞いても、アルチュールはロザリーたちの最悪な血の海を振り返ることすらしなかった。

 ただ、力無く体の側面に垂れ下がっていた左手をおもむろに上げると、マルタの倒れている方へと、空を切るようにして掌をかざした。

 その刹那。

 ロザリーが避けるように支えていたマルタの背中が、突如として猛烈な熱を帯びた。

 ――メリメリ、メリ、と。

 肉を圧迫する不気味な音を立てて、深々と刺さっていたナイフがひとりでに逆流するようにして抜けていく。マルタが僅かに苦痛の表情を浮かべた後、引き抜かれたナイフは、すでに大量の血を吸い込んで重くなった絨毯の上へと、ボトリと音を立てて落下した。

 見れば、ナイフが抜けた直後のマルタの背中の衣服は裂けているものの、その下の生身の傷口は、跡形もなく完全に塞がっていた。世界を滅ぼす狂王の魔力は、その気になれば、他人の肉体の時間を巻き戻すことすら容易い。

 凄まじい神業を目の当たりにしながらも、ロザリーは声を呑んだ。アルチュールは、なおもそちらへ一瞥もくれないまま、絶対零度の冷たい声で、空間に命令を投げかける。

「……続きを話せ」

 痛みを消し去られたマルタは、乱れる息を整えながら、必死に言葉を紡いだ。

「私が解放された後、今度はブランシュ様が人質として捕らえられました……。私に背を向けさせ、一切の抵抗を許さない姿勢のまま……。背後で急に、あの男の冷徹な声で『お前のせいだからな』と聞こえたかと思った次の瞬間には、私の背中に衝撃が走っていました。二人の気配は……あの奥の、浴室の方へと消えていきました……」


 アルチュールは、ゆっくりとした、けれど確実な足取りで私室の奥へと歩き出した。

 浴室の重い木扉に手をかける。ガチリと鍵のかかった音がしたが、すぐに破壊音がしてドアは開けられた。アルチュールが容易い力で破壊したであろうことが見て取れた。奥からは先程までは気が付かなかったがシャワーの音が漏れ聞こえている。


 中は、ブランシュの湯上がりのためにと整えられた、化粧台とソファベッドのある前室だった。床には脱衣のための柔らかいマットが敷き詰められていたが、その一角が、何かが激しく擦れたように不自然にめくれ上がって乱れている。ブランシュの最期の抵抗の証拠だった。


 アルチュールはもう一枚のガラス扉を隔て、その奥の浴室の扉を開いた。しかし、蒸気のない冷え切った空間には、当然のように誰もいなかった。シャワーの水音が床を叩く音だけが響いている。


 アルチュールは袖が濡れるのも構わず蛇口を捻って水を止めると、室内の最奥、魔導水道が通る排水溝の鉄格子を、じっとりと見つめた。

「魔力の残滓があるな。……鼠か」

 ぽつりと呟いた彼の声には、怒りすら含まれていない。それが逆に、ロザリーの背筋を冷たく凍らせた。

 アルチュールは再び、マルタの待つ本室へと戻ってきた。

 完全に肉体の傷を癒やされたマルタは、まっすぐに主君を見つめ、自らが聞き届けた最後の、そして最大の真実をはっきりと告げた。

「陛下。あの男は、私の首元にナイフを突き立てた時も、ブランシュ様を脅した時も――紛れもない、『ルベリオン王国語』を話しておりました」


 ルベリオン。

 その単語が室内に響いた瞬間、アルチュールの周囲の空気が、爆発的な音を立てて激変した。


 ――ゴ、オ、オ、オ……ッ!


 アルチュールの足元から、地鳴りのような重低音と共に、どす黒い漆黒の魔力が噴き上がった。それは不気味な風のように、狂おしい大蛇の帯のように彼の身体を瞬く間に包み込んでいく。

 パチッ、パチチッ、と大気が焦げる小さな音が断続的に爆ぜた、次の刹那。


 ドォォォォォォン!!!


 アルチュールを中心に、漆黒の稲光が部屋中へと炸裂した。鼓膜を震わせる凄まじき轟音。彼の怒りに呼応した魔力は、視界を完全に遮る巨大な黒い竜巻となって荒れ狂い、最悪の渦を生み出していく。

 圧倒的。絶望的。あまりにも底知れない暴虐の圧力。

 その空間にいるだけで、五臓六腑が押し潰されるような恐怖が襲う。ロザリーも、肉体を治癒されたばかりのマルタも、何一つ言葉を発することすらできない。それどころか、肺から酸素を強引に奪われ、呼吸をすることすら許されず、ただ床へと惨めに這いつくばるしかなかった。


 ガガガガガッ! バキィィィンッ!!


 かつてブランシュと穏やかに食事を摂った丸テーブルが木端微塵に粉砕され、贅沢な調度品や重厚な本棚が壁へと叩きつけられてなぎ倒されていく。

 さらに、中庭の美しい花々を映していた頑丈な窓ガラスが、一斉に悲鳴をあげて粉々に割れ散った。引きちぎられた遮光カーテンが狂風に揉まれ、部屋は見る影もなく無残に破壊し尽くされていく。

 それは、世界を滅ぼす狂王の、理性を失った咆哮だった。


 ブランシュという、彼の世界にようやく灯った唯一の『光』。それを再び泥に塗(まみ)れさせ、奪い去った母国への、凄まじいまでの焦燥と悲壮な怒り。

 激しい暴風の最中、ロザリーは床に手を突き、全身でその主君の怒りを受け止めていた。凄まじい魔圧に意識が飛びそうになる。だが、彼女は震える歯を食いしばり、涙を堪えて、喉が張り裂けんばかりの声で精一杯に叫んだ。

「陛下……ッ!! それ以上は、それ以上は御身が危のうございます……っ! アルチュール陛下、ここで暴走してしまえば、ブランシュ殿下を――一体誰が、助け出すというのですか!!」

「…………っ!」

 ロザリーの必死の叫びが、暴風の壁を突き抜けてアルチュールの耳へと届いた。

 アルチュールの身体が、微かに、本当に僅かに対象を捉えるように反応する。彼はミシミシと音が鳴るほどの強さで、両の拳を固く、固く握りしめた。


 ……ヒュウ……、と、割れた窓から吹き込む夕方の風の音だけを残し、黒い爆発と竜巻は、嘘のように次第にその勢いを弱めていった。

 粉塵が舞うなか、破壊し尽くされた室内に、死のような静寂が戻ってくる。


 アルチュールは血の滲むほど歯を食いしばったまま、鼻から深く、深く息を吸い込んだ。そして、胸の奥の澱をすべて吐き出すかのように、長く、長く息を吐き出す。


 次に彼がロザリーへと向き直った時、その顔からは、先ほどまでの激昂が信じられないほど綺麗に消え去っていた。死神としての、恐ろしいほどの冷静さが、そこにはあった。

「……ロザリー、城の状態を確認しろ」

 低く、地を這うような声で、淡々と指示を出す。

「あまりにも静かすぎる。厨房で侍女が、と言っていたな。他にもそういった者がいないか確認して回れ。……恐らく、俺の魔法であっても、すでに死んだ者を甦らせることはできない。だが、重傷であってもまだ生きている者がいれば、俺が治療する。医官を見つけ次第、すぐに最優先で回復させる。そこからは医官に治療を引き継ぐこととする」

アルチュールは一度言葉を切り、床のマルタを見下ろした。

「俺は訓練所に行き、騎士団長へ軍備を整えるよう命じてくる。……マルタ、お前は出血が多かったため、内臓が治癒していても身体が追いついていない。恐らく動けないはずだ。ロザリーが医官を見つけて戻ってくるまでは、ここから一歩も動くな」

 主君の、冷徹でありながらも確実な、統治者としての差配。

 ロザリーは床の血を払うようにして力強く立ち上がると、深々と頭を下げた。

「かしこまりました! すぐに取り掛かります!」

 一礼し、ロザリーが弾かれたように部屋を後にする。

 アルチュールは、割れ落ちた窓の枠へとゆっくり歩み寄った

 割れたガラスの破片を踏み締める音が、静かに響く。彼は、中庭の遥か先、暗雲の立ち込めるルベリオン王国の進路を、じっとりと冷たい瞳で睨み据えた。

「――高くつくぞ、ルベリオン」

 ぽつりと呟いた彼の肩で、漆黒の上着が狂風を孕んで翻る。アルチュールはそのまま、音もなく歩き出した。

 その時、彼の貌(かたち)を覗き込む者は誰もいなかった。

 いつもは深い夜の色をしていたアルチュールの黒目は、禍々しい赤へと変色していた。それだけではない。彼の白目は、右側の端から、じわじわと侵食するように――どろりとした漆黒の色へと、深く、深く染まり変わっていた。

お読みいただきましてありがとうございました。

次回もお楽しみくださいますと幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。