第31話 お前のせいだからな
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「ひっ……、あ……」
それは、マルタの口から漏れた、声にもならない絶望の喘ぎだった。
飲み物が届いたのかと、穏やかな笑みを浮かべて扉を開けた老侍女の身体が、恐怖のあまりにガタガタと激しく震え始める。
帝国の侍女服を纏った『それ』は、流れるような身のこなしで室内に滑り込み、後ろ手に部屋の鍵をカチリと閉めた。
「マ……!」
ブランシュが声をあげそうになった瞬間、ぞっとするほど硬質な低音が、マルタの背後から響いた。
「動くな。声を出すな」
女性にしては随分と低い、感情の抜け落ちた声。
衣服こそ本館の侍女のそれであったが、マルタの背後に回り込み、その両手を背中側で易々と拘束しているのは、明らかに鍛え上げられた男の体躯だった。そして、男の指先からは、触れただけで肉を深く切り裂きそうな鋭利なナイフが滑り出され、マルタの枯れた首元へと容赦なく添えられていたのだ。
あのノックの主は、その侍女の皮を被ってここまで上がってきた、血塗られた侵入者だった。
「よくある台詞で興ざめだが、あまり時間もないのでとっとと済ませよう。こいつの命が惜しくば、俺に従え」
男の口から滑り出た滑らかな言葉は、紛れもない、聞き馴染んだ『ルベリオンの王国語』だった。
ブランシュの脳裏を、冷たい記憶が駆け抜ける。
――ルベリオンが、何かをしようとしている…?
無能だと、呪い子だと、家畜以下の扱いで塔へ幽閉してゴミのように捨て去ったはずの自分を、彼らは再び都合のいい生贄として利用しようとしている。あるいは、自分がこの先進的な大帝国で大切に扱われている事実が、母国の浅ましい王族たちにとって不都合な何かを生み出しているのだと、ブランシュは瞬時に理解した。
けれど、今のブランシュは、かつてのようにただ怯えて震えるだけの少女ではない。
彼女はすっと背筋を正し、アルトから貰った生きている喜びをその胸に抱いて、密偵へと毅然に向き直った。
「お断りいたします。そちらこそ、マルタを離しなさい」
だが、百戦錬磨の密偵は、その純白の拒絶に対しても、眉一つ動かさなかった。ただ、感情の抜け落ちた冷酷な両眸で、ブランシュを静かに見据える。
「時間が無いと言ったんだがなぁ……。まあいい。そう言えばこいつは、あの者に酷く似ているな。なあ――『白持ちの無能』」
――白持ちの無能。
その忌まわしい呪詛の言葉が鼓膜を叩いた瞬間、ブランシュの脳裏に、強制的にあの暗黒の日々が引き戻された。
毎日、黒い魔石の染料で頭皮を灼かれ、我慢と不幸せの苦しみに耐え続けた18年間。そして、その地獄のような日々に、愛憎を孕みながらも唯一寄り添ってくれていた、あの老侍女の存在。
「お前……また、殺すのか……?」
密偵は、楽しむように、あるいは試すように、口の端を歪に釣り上げてブランシュへと問いかける。
その瞬間、輿入れ前夜のあの「本物の絶望」がありありと鮮明に蘇ってしまった。
『王家への恨みも、あなたへの情も、憎しみも……もう、私の心は耐えられません。私の役目は、終わりました』
自分のことを愛しながら、同時に狂おしいほどに憎みながら、目の前で自らの胸元にナイフを深く突き立てた老侍女。ドサリ、と重苦しい音を立てて倒れた彼女の身体から、床一面へと急速に広がっていく、あの赤黒い血溜まり。
「あ、……あ、あ……」
ブランシュの瞳から、先ほどまで中庭で宿していた真珠のような輝きが、みるみるうちに失われていく。
光を失い、濁った鈍い色に変色したその瞳から、一筋の静かな涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。ブランシュは糸が切れた人形のように、虚ろな顔のまま、膝から床へと崩れ落ちる。
密偵はそれを見て、完全に自らの勝ちを確信した。この呪い子の心を折るなど、過去のトラウマを一つ突けば容易いことだった。
「立て。大人しく俺のところへ来い」
冷徹な命令。ブランシュはもはや抵抗する気力すら湧かないかのように、力のない、幽霊のような足取りでふらふらと立ち上がり、密偵の元へと歩み寄る。
密偵は、用済みとなったマルタの身体を乱暴に突き放し、今度はブランシュの細い首筋へと的確にナイフを当て直した。
「そのまま俺たちに背を向けて立て。余計な声を出すなよ」
密偵はブランシュの身体を盾にしながら、アルチュールの私室の奥にある、浴室へと向かった。
浴室の木扉を静かに開け、その暗がりのなかへと滑り込み、ドアを閉めようとした、まさにその刹那――。
ガチリ、と、鈍い肉の音が響いた。
「……っ!」
虚ろだったはずのブランシュが、突如として、自らの首元に添えられていた密偵の手首へと、文字通り死に物狂いで深く噛み付いたのだ。
彼女の歯が密偵の皮膚を裂き、肉を抉り、口内に生暖かい血の味が広がる。
だが、密偵の反応は、あまりにも恐ろしいものだった。
彼は痛みに声をあげることも、顔を顰めることすらしなかった。ただ、一瞬にしてゾッとするほど冷静な、どこまでも計算高くて冷徹な男の顔へと戻り、噛み付かれている腕とは逆の手で、新しいナイフを抜いた。
「――お前のせいだからな」
感情の一切排された、機械のような呟き。
次の瞬間、密偵の手から放たれたナイフは、音もなく、寸分の狂いもなく空間を吸い込まれていった。
ドッと、肉を深く穿つ嫌な音が響く。
それは、浴室の扉の向こうで立っていたマルタの背中の真ん中へと、真っ直ぐに突き刺さっていた。
「マ、……ッ!!」
ブランシュが叫ぼうとした口は、すぐさま密偵の血濡れた手によって強引に塞がれた。
マルタも糸の切れた人形のように力なく床に倒れ込んだ。
声にすらならない悲鳴。
バタン、と浴室の扉が完全に閉め切られ、鍵がかけられる。
静まり返った私室の床には、マルタの背中から流れ出た鮮血が静かに広がり、ただ、彼女の急速に弱まっていく微かな呼吸の音だけが、虚しく響き続けていた。
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