第30話 ノック
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陽光あふれる中庭から私室へと戻ると、アルトはブランシュの細い肩にそっと手を置いた。
「少し疲れただろう。冷たいものでも飲んで、大人しく休んでいろ」
どこまでも深い労わりの滲む言葉を残し、アルトは山積する公務を片付けるために後ろ髪を引かれる面持ちで私室を後にした。
パタン、と重厚な扉が閉まる。部屋に残されたのは、ブランシュと、そして壁際に控えていたロザリーと侍女数名だけだった。
ロザリーは、まだ中庭での余韻を引きずったまま、頬をリンゴのように赤く染めているブランシュをじっと見つめた。二人の間に流れる、明らかに今までとは違う特別な空気を聡く汲み取り、ロザリーはいたずらっぽく口元を緩ませる。
「殿下。今の殿下には、氷が沢山入った、それはそれは冷たいお飲み物が必要のようですわね?」
「……っ!」
図星を指されたブランシュはますます顔を真っ赤にし、はぐらかすように慌てて両手を振った。
「そ、そんなこと……!それよりも、あの……マルタさんに頼んで、本を数冊持ってきていただくことはできますか? じ、字がたくさん並んでいるような、難しい学問の本が読みたいのです!」
必死に胸の火照りを隠そうとするいじらしい姿に、ロザリーは声を立てて笑いそうになるのを堪え、傍に控えていた配下の侍女たちへテキパキと指示を出した。
「分かりましたわ。では、あなたたちは殿下のために冷たいお飲み物を。あなたは図書室へ向かい、マルタを呼んでおいでなさい。『字が沢山ならんである、難しい学問の本』ですよ」
「はい、ロザリー侍女長」
侍女たちが一礼して部屋を後にし、広い私室が二人きりになると、ブランシュは周囲をそっと見回してから、小さな、蚊の鳴くような声でロザリーに相談を始めた。
「……あの、ロザリーさん、実は、その……」
「はい、何でございましょう?」
「――陛下が、わたくしのことを、愛称で呼んでくださることになったのです……」
「おや、まぁまぁ! それはとてもようございましたね!」
ロザリーは嬉しそうに両手を合わせた。けれど、ブランシュの戸惑いはまだ消えない。
「なんだか、いつもと違って……いえ、いつもあの温かい眼差しを向けてくださるのですけれど、なんと言えば良いのか、胸の奥がそわそわしてしまって……」
「もちろん、殿下も陛下のことを愛称でお呼びになるのでしょう?」
「……実はそうなのです。このようなこと、陛下に対してご無礼にならないでしょうか……?」
不安げに潤んだ純白の瞳で見上げられ、ロザリーはふっと優しい笑みを深めた。
「ご無礼なものですか! お二人はこのヴァランシエンヌ帝国の皇帝陛下と、その唯一の皇后になられるお方なのです。これほど仲が良いのは大変喜ばしいことですわ」
「……なら、よいのですが……。それになんだか、陛下のお顔がいつもよりキラキラして見えてしまって……あの、だから、眩しくて真っ直ぐ見られなくて……」
「あらまぁ。そんなに可愛らしく照れていらっしゃる殿下を見て、陛下はたいそうお喜びになられたでしょうねぇ」
からかうような、けれど娘を見守るようなロザリーの温かい言葉に、ブランシュがさらに顔を伏せたその時、コンコン、と小気味よい音でドアがノックされた。
ロザリーが扉を開けると、そこにはそこそこの厚みのある学問書を数冊、大切そうに抱えたマルタが立っていた。
「殿下、本をお持ちいたしました。おや、そんなに真っ赤になってしまわれて……」
「マルタさん……っ」
「うふふ、殿下、やはりお飲み物が早く欲しいでしょう。下へ行かせた侍女が少し遅いようですから、私が様子を見て参りますね。少々お待ちくださいませ」
ロザリーはマルタと入れ替わるようにして、パタパタと私室を退出していった。
マルタが穏やかに笑いながら、ブランシュの元へ本を並べ始める。そのすぐ後、再び、コンコン、と扉が静かにノックされたのだった。
「お飲み物が届くのと、入れ違ってしまったかねぇ」
マルタはいそいそとドアへ近付いて行った
◇
厨房へと向かう長い回廊を歩きながら、ロザリーは先ほどまでのアルチュールとブランシュの様子を思い返し、心の底から満足感に浸っていた。
あの不器用で孤独だった陛下が、早々にブランシュ殿下に骨抜きにされているのは今更言うまでもないことだが、ブランシュのあの初々しい様子を見るに、二人が間違いなくお互いを想い合っているのだと確信できた。
(あんなに汗をかいて、お顔を真っ赤にされていては喉が渇くでしょう。早く冷たいハーブ水を持って行って差し上げなくては)
そう思いながら足を早めたロザリーだったが、ふと、ある妙な違和感に気がつき、その靴の音を止めた。
――静かすぎる。
確かに今は昼を回った時間帯であり、休憩に入っている使用人も多いため、屋敷内で動き回る者が少ない時間であることは事実だ。
だが、陛下の私室があるのは、本館の最高部に位置する3階だ。そこから1階の厨房へと続く中央階段を下りていく道すがら、誰一人として、すれ違う使用人も、巡回しているはずの警備兵の影すらも見当たらないなんて――そんなことは、この徹底された皇城においてあり得ないことだった。
ぞわり、と背筋に冷たい粟が立つ。
妙な胸騒ぎに突き動かされるようにして、ロザリーはエプロンのスカートを握り込み、厨房へと向かう足を一気に早めた。
重い木製の扉を押し開け、たどり着いた厨房。
そこでロザリーが目にしたのは、あまりにも凄惨な光景だった。
「っ……!? これは……!」
先ほど、冷たい飲み物を取りに行くように指示を出したばかりの配下の侍女が、床に崩れ落ちていた。
その細い首筋からは、ドクドクと赤黒い血が容赦なく流れ出し、白い床を汚している。それだけではない。彼女が身に纏っていたはずの、帝国本館の侍女の制服一式が、そこにはなかったのである。
静まり返った厨房に、ただロザリーの荒い息だけが不気味に響く。
ロザリーは息を呑み、即座に、自分が今しがた置いてきた「最悪の可能性」へと視線を巡らせた。
――剥ぎ取られた制服。
――誰とも会わなかった回廊。
「しまっ……! 殿下……っ!!」
ロザリーは血の海を蹴り、狂ったように元来た階段へと駆け上がり始めた。
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