第29話 優しき箱庭
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
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国境の向こう側で、母国ルベリオンの不穏な思惑が二人の平穏を乱そうと画策している――そんなこととは露知らず、帝国の皇城の最奥では、ブランシュの目覚ましい回復の兆しが日々を明るく彩っていた。
あの激しい高熱と全身を灼くような痛みは嘘のように引き、ブランシュはすっかり普段通りの健やかな生活が送れるようになっていた。しかし、それと同時に、彼女には新たな、そしてなんとも贅沢な悩みが生まれていた。
「陛下、私はもう本当に大丈夫です。医官の先生も、もう通常通りの生活に戻して良いと太鼓判を押してくださっていましたし……。こうしてお洋服もきちんと着られるようになりましたし、家庭教師の先生との授業も再開しておりますから…」
「いいやダメだ。まだ許可できない」
アルチュールは、手元の書類に視線を落としたまま、低い声でピシャリと言い放った。
ここ数日間、朝を迎えるたびに繰り返されている押し問答に、ブランシュは困ったように眉を下げて、アルチュールのそばに歩み寄る。
「でも、これ以上ここにいては、陛下がゆっくりと過ごせませんわ……。ただでさえ、わたくしの療養期間中、多大なご心配をおかけしてご公務にまで影響が出てしまっていましたのに……」
「気にするな。元々この私室は、夜か夜でないかの時間に入り、軽く身体を横たえて寝るだけに使っていた部屋だ。お前がここにいる今の方が、よっぽど人間らしく休めている」
「でしたらなおのことです……。それに、せっかくわたくしのために、新しいお部屋をご用意くださったのでしょう? わたくし、陛下が下さったあのお部屋も使ってみたいのです……」
ブランシュがそう言って自室への帰還を申し出ると、アルチュールは、ようやくその美しい漆黒の双眸をこちらへと向けた。
すたすたとブランシュの目の前まで歩み寄ると、その大きな手で、彼女のまばゆい純白の髪をひと房、そっと掬い上げる。そして、レンズにかざすようにして、その毛先をブランシュの目の前に突きつけた。
「……ブランシュ、この毛先を見ろ」
「はい……」
「まだ、俺の黒が微かに残っているだろう。これが完全に無くなるまでは、お前が自室へ戻ることは許可できない」
彼の指先に遊ぶ純白の髪の先端には、確かに、言われなければ気づかないほどの、淡く薄まった影のような黒が名残を留めていた。
だが、医官の先日の診断によれば、体内の魔力は「洗った食器が自然と乾くのを待つ程度」の、ごく僅かな残り香でしかない。通常通りの生活どころか、何一つ支障がない状態なのだ。
つまり、アルチュールはブランシュとのこの心地よい共同生活が終わるのを嫌がり、ただの「体の良い我が儘」を並べて彼女を引き留めているだけだった。
その過保護ぶりは凄まじく、医者の許可が降りてもなおブランシュは、読書や家庭教師の授業はおろか、湯浴みまでもがこのアルチュールの私室で行われていた。全ての食事を共に摂り、彼が満足して執務室へ向かった合間に、マルタが本を届け、家庭教師がこの部屋に呼び出されるという、半ば「お姫様幽閉状態」である。
そんな二人のやり取りを、壁際で直立不動のまま見つめているロザリーの目は、完全に据わっていた。
(……はぁ)
ロザリーは、呆れを通り越して冷めきった視線を、自身の主に容赦なく突き刺していた。
最初の頃こそ「あらあら、陛下もすっかり皇妃殿下に夢中で微笑ましいこと」などと思っていたが、ここまで来るとただの我が儘な大型犬のようである。何より、ここ数日間、毎朝毎朝まったく同じ押し問答を聞かされているロザリーの身にもなってほしい。
ロザリーはすっと音もなく進み出ると、アルチュールの背後から、凍りつくような笑顔で声をかけた。
「陛下。そこまで皇妃殿下の体調がご心配であり、かつ自室に戻したくないのであれば――手始めに、陛下がご一緒に中庭を散歩するなどして、このお部屋の外へ連れ出してみるのはいかがですか? 陛下が四六時中ご一緒であれば、何の問題もございませんでしょう?」
ロザリーの「逃げ道を塞ぐ」ような完璧な提案に、アルチュールはチッと小さく舌を鳴らしそうになった。
だが、その提案を聞いたブランシュの、純白の瞳がぱぁっと目に見えて輝く。
「中庭……! わたくし、行ってみたいです。お部屋の窓から、ずっと綺麗なお庭が見えていて、お散歩できたら素敵だなと思っていましたの。それに、王国では中庭というものを見たことすらなくて…」
嬉しそうに胸元で手を組み、期待に満ちた瞳で自分を見つめてくるブランシュ。そんな無垢な姿を見せられて、断れるはずがなかった。
「……。お前がそこまで言うなら、行ってやらないこともない」
陛下はいかにも「ロザリーに言われたから渋々だ」という風なポーカーフェイスを装いながら、ブランシュの前にすっと大きな手を差し出した。
「ただし、俺と一緒の時だけだ。それ以外の外出は一切認めん。分かったな」
「はい! ありがとうございます、アルチュール陛下!」
ブランシュは満面の笑みでその手をとり、アルチュールのエスコートによって、ようやく、実に約1ヶ月ぶりに私室の扉の外へと一歩を踏み出すのだった。後ろで見送るロザリーが「やれやれ」と深い溜息をついていることにも気づかずに。
◇
南向きに開かれた皇城の中庭は、うららかな陽光が降り注ぎ、色鮮やかな花々が咲き乱れる地上の楽園のようだった。
エスコートの手に導かれ、そこへ一歩足を踏み入れたブランシュは、まるで夢の世界に迷い込んだ子供のように、その純白の瞳をきらきらと輝かせた。
「まぁ……! 陛下、見てください。足元が、緑の絨毯のようですわ」
「それは芝生だ、ブランシュ。あちらの花壇に植わっている草とは、手入れの方法も種類も違う」
「あちらの、石の彫刻からお水が噴き出しているのは……?」
「噴水だ。城内の魔力循環を兼ねて、水を美しくろ過して循環させる役割を持っている。……歩道に敷き詰められたこのタイルは、雨の日でもお前が滑って転ばないように、凹凸のある特製の石を使わせた」
ブランシュの無垢な疑問のひとつひとつに、アルチュールは分かる範囲で、驚くほど辛抱強く、そして優しく回答していく。ルベリオンでは中庭というものを見たことすらなく、塔の窓から遠くの景色を眺めることしか許されなかった彼女にとって、足元の石畳一枚、風に揺れる葉の一枚さえもが、世界の美しさを証明する奇跡だった。
「陛下、あの青いお花……。お部屋の窓から、ずっと気になっていましたの」
「近くで見てみるといい」
アルチュールがそっと繋いだ手を緩めると、ブランシュは吸い寄せられるように彼の手を離し、青い花々の前で小さくしゃがみ込んだ。色や形の違う花々をじっくり興味深げに眺め、視線を外しまた違う花へと吸い寄せられていく。自由な彼女の好奇心にアルチュールは極めて穏やかな顔で黙って着いていくのだった。
またある花の前でしゃがみ込んだブランシュのまばゆい純白の髪が、陽光を浴びてきらきらと輝く。彼女は花壇の縁に細い指先をかけ、そっと花びらへと顔を近づけた。その姿はあまりにも無垢で、高潔で、まるで一枚の美しい絵画のようだった。
しばらく静かに花を眺めていたブランシュだったが、ふと、その白い首筋を僅かに傾げ、しゃがんだままアルチュールを見上げた。
「……アルチュール陛下。わたくし、ここに来られて、本当に幸せです」
「日常のほんの一部を歩いただけで、大袈裟な奴だな」
「大袈裟ではありませんわ。わたくしが感謝しているのは、こうして綺麗なお花が見られることや、美味しい食事が食べられること、豪華な生活が送れること、そのものではないのです」
ブランシュは、自らの胸元にそっと手を当てた。
「ルベリオンにいた頃のわたくしは、ただ息をしているだけの塊でした。けれど、こうして陛下が温かいスープを共にしてくださる。綺麗なお花を、共に見つめてくださる。誰かと何かを『共にする』ということが、これほどまでに美味しく、これほどまでに尊く、幸せなことなのだと……それを教えてくださったのは、アルチュール陛下、あなたなのです。生きている喜びをくださって、本当に、ありがとうございます」
ふわりと咲いた彼女の笑顔は、中庭のどんな名花よりも美しかった。
その言葉を真っ向から受け止めたアルチュールは、胸の奥を、言葉にならない激しい衝撃で貫かれていた。
(――ああ、俺は)
アルチュールは、立ち尽くしたまま彼女を見つめる。
自らの膨大な魔力暴走で両親を殺し、日々を灼く激痛にただ耐えるためだけに、血生臭い戦場を孤独に這いずり回ってきた半生。焦土を好む死神、殺戮を愛する狂王。世界からそう恐れられ、自らも誰かを愛すること、誰かに愛されることなど、生涯許されるはずがないと、疾の昔に諦めていた。
それなのに。この少女は、俺が与えたほんの些細な温もりを『生きている喜び』だと呼び、俺の存在そのものを全肯定してくれる。
彼女の清らかな器が、自らの命を灼く魔力を吸い取ってくれたその時から、いや、最初に泥にまみれた彼女をこの目で捉えたその瞬間から、自分の魂は、とっくにこの少女に囚われていたのだ。
胸の奥から溢れ出す、愛おしさと、狂おしいほどの独占欲。
これは憐れみでも、傷の舐め合いでもない。
――俺は、この少女を、ブランシュを、魂の底から愛している。
生まれて初めて自覚した『恋』という名の感情に、アルチュールの冷徹な仮面は完全に瓦解していた。誰かを愛することが、これほどまでに胸を熱くし、嬉しく、世界を鮮やかに変えてしまうなんて思いもしなかった。
アルチュールは無意識のうちに一歩踏み出し、しゃがみ込む彼女の前で片膝を突いた。そして、彼女のまばゆい純白の髪をひと房、そっと手にとって、自らの唇を捧げた。
「へ、陛下……っ?」
突然の口づけに、ブランシュは呆気にとられたように丸い瞳を向け、頬を赤く染めた。そんな彼女を、アルチュールはこれまでにないほど優しく、深い愛の籠もった視線で見つめ返す。
「ブランシュ。お前を、愛称で呼びたい。許可をくれるか」
耳元で甘く、けれど酷く真剣に囁かれた言葉に、ブランシュは完全に気圧されていた。
「わ、わたくしからの、許可など、不要ですわ……。陛下のお好きなようになさってください……」
恥ずかしさのあまり、きゅっと唇を結んで視線を逸らすブランシュ。だが、アルチュールはその白い顎にそっと指先を添え、無理やり自分へと視線を戻させた。
「いいや。俺はお前に許されたいんだ。命令ではなく、お前の意志で、俺に呼ばせてくれ」
拒絶など到底許さないほどの熱を孕んでいるのに、どこか切なく懇願するような甘い声。
まだ恋という名前を知らないブランシュだったが、その声に胸の奥が甘粥のようにドロドロに溶かされていくのを感じて、小さく、こっくりと頷いた。
「……はい。お許し、いたします……」
「くく、可愛い奴だ。……我が国に連れてきて一年後に婚姻を結ぶと、ルベリオンとの会談で形だけ決めた協定だったが。お前のせいで、日に日にその約束を早めたくなってしまうな」
アルチュールは愛おしさが堪えきれないというように低く笑うと、ブランシュの華奢な肩を抱き寄せ、そのこめかみにそっとキスを落とした。
あまりに甘々で、心臓が爆発しそうな雰囲気に耐えかねたブランシュは、熱い顔を彼の胸元に押し付けたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「わたくし、愛称なんて、今まで誰からも呼ばれたことがなくて……。陛下が、付けてくださいますか」
「俺がか? そうだな……」
アルチュールはブランシュを腕の中に抱いたまま、しばらく真剣に考え込んだ。
「ブラン……リリー……いや、普通すぎるな。お前に似合う、もっと特別な……」
ブツブツと大真面目に呟くアルチュールの様子に、ブランシュは少しだけ緊張が解け、クスリと笑う。
「明日には考えておく。……これでは今夜は眠れそうにないな。さぁ、そろそろ中に入るぞ。中庭の続きはお前の体が、完全に本調子に戻ってからだ」
アルチュールは名残惜しそうに身体を離すと、立ち上がるよう、彼女へ向けて大きな手を差し出した。ブランシュはその手をとり、しっかりと握り返す。
しかし、屋敷へと戻る道すがら、ブランシュが急にその足をピタリと止めた。
「ブランシュ?」
「あの……アルチュール陛下」
振り返った彼女の顔は、未だに夕焼けのように赤く染まっていた。けれど、その純白の瞳は、真っ直ぐにアルチュールを見つめている。
「陛下は昔、周りの方から何と呼ばれておりましたか? ……わたくしも、陛下のことを、愛称でお呼びしたく思います」
予想だにしなかったブランシュからの愛らしい逆襲に、アルチュールは僅かに目を見開いた。そして、自身の遠い過去の記憶を、ゆっくりと手繰り寄せる。
「……両親が生きていた頃は、アール、と呼ばれていたような気がする。だが」
アルチュールは歩み寄り、ブランシュの前に立つと、穏やかな、心からの笑みをその唇に浮かべた。
「お前からは、違う呼び方がいいな。……アルト、で。うん、アルトと呼んで欲しい」
「アルト……」
その響きを口の中で転がしたブランシュは、急に、不満そうに小さな眉をひそめてみせた。
「……なんだか、私ばかりが焦っている気がいたします。陛下はずるいですわ。わたくしよりも、ずっと大人ですもの」
「お前がそれを言うのか? 時折、俺はお前に転がされている気分になるがな」
アルチュール――アルトは、楽しげに肩を揺らした。
「だが、実際大人なんだ。お前とは十近く離れているのだからな。……あと、ブランシュ。早速間違っているぞ。ほら、呼んでみろ」
「……。……アル、ト、様」
「様は要らん。もう一度」
光あふれる中庭で、じれったくも微笑ましい、二人だけの愛おしい会話がいつまでも交わされる。
そんな、世界で最も美しく温かい箱庭の光景を――皇城の外郭、大樹の陰からどろりとした歪な瞳で見つめている『蟲』がいた。
(――なるほど、な……)
ルベリオンの密偵は、幾重にも張り巡らされた厳重な結界の隙間を透過し、遠見の魔導具のレンズ越しに、二人の一挙手一投足を満面の卑劣な笑みを浮かべながらじっと観察していた。
冷酷無比な帝国の皇帝が、自分たちが家畜以下として虐げていた小娘の前で、見たこともないような優しい笑みを浮かべ、あろうことかこめかみに口づけを落としている。その決定的な執着の証拠を、男の老獪な瞳は、一片の隙もなくその脳裏へと克明に刻み込んでいく。
それは、ルベリオンの王族たちにとっては、これ以上ない「極上の弱み」の発見だった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




