第25話 ただ、生きて隣にいること
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重い遮光カーテンの隙間から、薄い金色の朝光がそっと寝室に零れ落ちていた。窓の外からは、遠くかすかに鳥の囀が聞こえ、微風が柔らかなレースの裾を揺らしている。
ブランシュがゆっくりと微睡みから意識を浮上させた時、最初に感じたのは、頬を撫でる爽やかな朝の気配と、それから、驚くほど近くにある確かな温もりだった。
――あ。
目を開けたすぐ目の前に、アルチュールの寝顔があった。
いつも世界をその双肩に背負い、冷徹な仮面を崩さない皇帝が、今は無防備に、酷く穏やかな寝息を立てている。その顔にはかつて魔力過多の暴走に苦しんでいた頃の刺すような痛々しさが消え、随分と健やかな血色を取り戻していた。代わりに、ここ数日間の不眠不休の看病が嘘ではなかったことを示すように、深い疲れの色が静かに刻まれている。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪が、彼の端正な頬を優しく掠めていた。
ブランシュは誘われるように、そっと細い指先を伸ばした。彼を起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら、その髪をそっと掬い、耳の後ろへと流す。その髪は、かつて自分が頭皮を灼かれながら無理やり染め付けられていた偽物の黒とは違う、どこまでも高潔で、温かい本物の黒だった。
「……ん」
指先が微かに触れた刹那、彼の長い睫毛が震え、その深い、夜色の瞳がゆっくりと開かれた。
ブランシュは驚いて指を引っ込めようとしたが、それよりも早く、彼は眠気を含んだ双眸でブランシュをじっと見つめた。そこにはいつもの死神と言われる鋭さはなく、ただ凪いだ海のような優しさだけが満ちている。
「……アルチュール陛下。おはようございます」
「……ああ。おはよう、ブランシュ」
掠れた、低い声が鼓膜を揺らす。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなるのをブランシュは感じていた。
アルチュールは上体を少し起こすと、大きな掌をブランシュの額へとそっと乗せた。掌の冷たさが、まだ熱を持った体に心地よく染み渡る。そのまま手を滑らせ、今度は首筋の熱を測るように、そっと指先を添えた。
「まだ、熱が下がらないな」
「申し訳ありません……。なかなか思うようにはいかないですね……」
「莫迦を言うな。お前が謝ることではない」
アルチュールはそう言って微かに眉をひそめると、ベッド脇のサイドテーブルに視線を移した。そこには、ガラスの桶に張られた水と、その縁に綺麗に畳まれた木綿の布が用意されている。桶の中の氷は、朝を迎えてもさほど溶けていなかった。一晩中、主人のため、そしてブランシュのために完璧な温度を保ち続けたロザリーの、音のしない、けれど至高の献身がそこにはあった。
アルチュールはそれを察して、ふっと口元を微かに緩ませた。布を氷水に浸し、きゅっと力強く絞る。
「水を飲むか? それとも、少し食事にするか」
「……あの、もし許されるのでしたら」
ブランシュはシーツを胸元まで引き上げ、少しだけ遠慮がちに、けれど生まれて初めて抱いた我が儘を口にするように、彼を見上げた。
「もう少しだけ……このまま、眠ってもよいでしょうか」
「……ああ」
アルチュールは短い答えと共に、冷たい布を優しくブランシュの額へと乗せた。そして、大きな腕で彼女の細い体を、まるで壊れ物を扱うかのように静かに抱き寄せた。
ルベリオンの塔では、ただ痛みに耐えて朝を迎えるだけだった。けれど今、彼の腕の中にある世界は、これ以上ないほど優しく、そして静かだった。ブランシュは彼の胸の、規則正しい鼓動を子守唄代わりに聴きながら、再び穏やかな深い眠りへと落ちていった。
日が完全に昇り、朝と昼の境界が曖昧になる頃、二人は寝室の小さな丸テーブルで、朝昼食を共にしていた。
用意されたのは、ブランシュには高熱でも喉を通りやすいようにと、細かく刻まれた野菜と白身魚のパン粥、そして野菜の旨みを優しく煮出した温かいスープ。アルチュールには、ブランシュと同じスープ、程よく焼き目の着いた香草が香る肉、焼かれた丸いパンに、彩り豊かなサラダが配膳された。
「美味しい……ですね、陛下」
スプーンで一口、スープを口に含んだブランシュが、ふわりと微笑んだ。
その言葉は、ただの社交辞令ではなかった。ルベリオンの塔で与えられていたのは、家畜の餌と変わらない、冷め切った残飯だった。味を感じる余裕など、当時のブランシュには一欠片もなかったのだ。
「誰かと一緒に食べる食事が、これほど温かくて、美味しいものだとは……知りませんでした。生きていることが、これほど穏やかなものだということも」
「……ブランシュ」
「ここに連れてこられた時、私はただ、殺されるのを待つだけの生贄だと思っていました。けれど……今、こうして陛下とスープをいただいている時間が、何よりの奇跡のようです」
ポツポツと紡がれるブランシュの、飾らない、けれどあまりに重い過去の記憶。
アルチュールはスプーンを止め、彼女の純白の髪を見つめた。世界から疎まれ、無能と蔑まれてきた少女。彼女にとっての「生きていることへの感謝」は、この国がどれほど豊かかということではなく、ただ「痛みがなく、隣に誰かがいてくれる」という、それだけの日常だった。
「……俺も、同じだ」
静かに、けれど心の底から絞り出すような声だった。
「誰もいない部屋で、一人で魔力の痛みに耐え、ただ戦うためだけに生きてきた。お前がこの部屋にいるだけで、食事がこれほど喉を通る。生きていることが、ただの苦痛ではないと……お前に教えられている」
二人の間に、言葉にならない高潔な沈黙が流れる。
まだそれが『恋』であるとは、お互いに口にしない。けれど、彼らの魂は間違いなく、誰よりも深く結びつき、互いの傷口を静かに埋め合っていた。そのじれったくも美しい距離感に、壁際で控えるロザリーも、ただ温かい眼差しを向けて静かに佇んでいた。
◇
二人の奇妙で、けれどあまりに穏やかな共同生活が始まってから、瞬く間に数日が過ぎた。
ブランシュの体はまだ熱を帯びていたが、胃の奥をせり上がるような不快感は劇的に減り、激しい痛みが少しずつ引いていくのを自覚していた。それは、彼女の体がこの新しい生活に、そして体内の異変に慣れ始めてきた証拠でもあった。
定期診察のために医官が部屋へと訪れた。
丁寧な触診を終えた医官は、次にブランシュの髪へと手を伸ばし、じっと黒く染まった毛先を観察していた。次に医官はカルテに目を落とした。そこには、最初の診察治療からこれまでに至る、ブランシュの髪の色のトーンや長さが克明に記録されている。医官はその記録と現在の髪を何度も見比べ、ふと、驚きに目を見開いた。
「おや……? 陛下、これは……」
「どうした。何か異常か」
アルチュールの声が、一瞬で鋭い緊張を帯びる。その余裕のない焦燥ぶりに、ブランシュの胸が小さく跳ねた。
「いえ、逆でございます。色のトーンが薄まり、黒い箇所が……毛先に向かって明らかに減退しております」
「……? 俺には違いが分からんが」
不可解そうに眉をひそめるアルチュールを見て、医官は小さく微笑んだ。そして、アルチュールの長い真っ直ぐな漆黒の髪をひと房、指先でそっと手に取る。そのまま、ベッドに横たわるブランシュの髪の、黒く染まった毛先部分へと優しく押し当てて見せた。
「ご覧ください。以前は陛下と寸分違わぬ『漆黒』に染まっておりましたが、今は明らかに色が淡くなり、白の領域が押し戻しております。……念のために、簡易的な魔力鑑定を行いましょう」
医官が取り出した鑑定の魔石が、ブランシュの手のひらの上で淡く発光する。その輝きの度合いを見た医官は、確信を込めて深く頷いた。
「やはり、治療当初よりも体内の魔力量が大幅に減っております。皇妃殿下は魔力を持たず、魔法を使用することはできません。ですが……取り込んだ陛下の魔力は、時間経過と共に、まるで蒸発するかのように殿下の体から外へと少しずつ放出されていくのではないか。それが、私の見立てでございます」
「蒸発、だと……?」
「はい。殿下の熱がまだ引ききらないのは、その放出の過程にあるからでしょう。嘔吐の回数が劇的に減り、痛みが和らいでいることも、体内の過剰な魔力が外へと逃げているという可能性の、何よりの裏付けでございます。殿下の『器』は、ただ魔力を溜め込むだけの箱ではなかった。もう大丈夫でございます。これ以上の悪化はございません」
三ヶ月前のボロボロだった姿からブランシュの生命力を信じ、見守り続けてくれた優秀な医官の、確かな太鼓判。
それを聞いたアルチュールは、それまで強張らせていた肩の力を、嘘のようにふっと抜いた。
彼がこれほどまでに、誰かの無事を祈り、そして心から安堵した瞬間を、ロザリーでさえ見たことがなかった。冷徹な死神と恐れられた皇帝が、ただ一人の少女の回復に、子供のように胸を撫で下ろしている。
その様子をベッドの上から見つめていたブランシュは、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような愛おしさに満たされるのを感じていた。
――私の存在が、この方をこれほど安心させられるのだ。
かつてルベリオンで「醜聞」「呪い」と忌み嫌われた自分の白い体。それが、今、世界で最も強大で孤独な王の、唯一の救いになっている。その真実が、言葉にできないほど嬉しくて、ブランシュの目尻から、ぽろぽろと熱い涙が溢れ、枕を濡らした。
「ブランシュ……!? どこか痛むのか!?」
「いいえ……いいえ、アルチュール陛下。痛くありません。ただ、とても……嬉しいのです」
慌てて涙を拭おうとするアルチュールの手を、ブランシュは自らの小さな両手で包み込んだ。
ルベリオン王国の薄暗い塔で、黒い毒に染められながら、ただ死を待っていた真っ白な王女。
軍事大国の冷酷なる死神として、その身を灼く魔力の檻に、たった一人で閉じ込められていた若き皇帝。
呪われた白と、孤高の黒。
決して交わるはずのなかった二つの孤独は、焦土の果てで出会い、今、互いにとっての「たった一人の救い」となった。
まだ、お互いの胸にあるこの感情の名前を、二人は知らない。
言葉にするにはあまりにも純粋で、あまりにも高潔な、じれったいほどの心の距離。けれど、繋いだ手の温もりだけは、これから訪れるどんな嵐をも覆すほど、確かに熱く、二人の未来を照らし始めていた。
痛みを分け合い、生きている喜びを知った二人の。
長く、そして甘やかな、夜明けの物語が、ここから静かに動き出す。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




