第21話 誓いと夢
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「――医官。今夜ここで起きたことは、一切の他言を禁ずる。我が帝国の最重要機密だ」
長い時間をかけたブランシュの応急処置がすべて終わった直後、アルチュールは低い、有無を言わせぬ声で女性医官へと告げた。
魔力を持たないはずのルベリオンの王女が、皇帝の魔力を吸い取って中和したなど、もし外に漏れれば国内外の勢力が彼女を奪おうと狂奔するのは目に見えている。
「無論にございます、陛下。これより殿下の治療は私一人が担当し、カルテもすべて秘匿いたします」
医官が深く一礼して退室していくと、広い私室には再び重い静寂が流れた。
ベッドの脇に立ち尽くし、ただブランシュを見つめ続けるアルチュール。その肩を、後ろからロザリーが小さく、けれどしっかりと小突いた。
「アルチュール様。そこまでです。一度お部屋の外へ出てくださいませ」
「……ロザリー。俺はここで、この娘の看病を――」
「お断りいたします。これから殿下のお召し替えをいたしますのに、殿方がいつまでもしがみついているものではありませんわ。それに……」
ロザリーはすっと目を細め、主君の姿を頭から爪先まで冷ややかに、けれど深く案じる目で見つめた。
「そんなボロボロで重苦しいお顔で看病されたら、治るものも治りませんわ。ご覧なさい、ご自身のシャツは引きちぎられ、血と汗と、おまけに涙でドロドロのぐしゃぐしゃです。戦場の死神が聞いて呆れるほど、見るに堪えないお姿ですこと。今すぐご自身の部屋でお風呂に入り、お着替えをして、少しでもマシなお顔になって戻っていらっしゃいな……あらやだここは貴方様のお部屋でしたわ」
「……ロザリー」
「早く。とにかく大湯殿にでも行ってきてくださいな。陛下はお身体もいつも自分で洗いますし、お薬はご自身で塗れるでしょう。あまりにも往生際が悪いと私が近衛を呼んで陛下を力ずくで引きずり出しますわよ?」
相変わらず容赦のない侍女長の叱咤に、アルチュールはバツが悪そうに視線を逸らし、小さく息を吐いた。長年仕えてくれた彼女なりの、張り詰めた自分の心をほぐすための優しさなのだと、彼もよく理解していた。
アルチュールが部屋を出ようとした、その時。ロザリーがぽつりと、けれど確かな熱を込めて言葉を続けた。
「……こちらにいらして三ヶ月。家庭教師の先生から褒められるたびに、殿下は真っ先に『これで少しは、陛下のお役に立てるでしょうか』と、嬉しそうに仰っていました。お仕立師がドレスを褒めたときも、マルタから新たな知見を得たときも、殿下はいつだって、陛下への感謝ばかりを口にされていたのです」
ロザリーはベッドの上のブランシュへ愛おしげな視線を向ける。
「敗戦国の生贄として、あれほど酷い目に遭わされておきながら、自分に与えられた小さな温もりを、殿下はすべて『アルチュール様がくださったものだ』と宝物のように大切にされていました。……私はこの三ヶ月で、あの方の清らかな人となりをよく知りました。私は、ヴァランシエンヌ帝国の侍女長としてではなく、一人の人間として、真にあの方にお仕えしたいと願っております」
ロザリーの覚悟の言葉。彼女は、ブランシュをこの帝国の本物の「皇后」として迎えるべきだと、はっきりと主君へ伝えたのだ。
それを聞いたアルチュールは、足を止め、振り返ることはしなかった。
けれど、彼の掠れた声には、一滴の迷いも、揺らぎも存在しなかった。
「……同じ気持ちだ」
「え……?」
「十五年間、誰にも触れられず、触れたものをすべて灰にしてきた。そんな俺の『黒』を、ブランシュは受け止め、孤独だった俺の隣に、今、こうして生きていてくれる。……俺は、ブランシュに、ずっと隣にいてほしい」
ロザリーは驚愕のあまり、大きく目を見開いた。
あの、婚姻にも女性にも一切の興味を持たず、ただ戦場で命を灼き続けていた冷徹な主君が、初めて「誰かに隣にいてほしい」と、自らの明確な意志で口にしたのだ。
やがて、ロザリーの目元にじわりと大粒の涙が浮かんだ。彼女はそれを隠すようにふっと優しく、茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。
「……フフ、それは大変なことですわね。あのお優しくて気高い殿下に、我が主のような不器用な新兵以下のお方が、そう簡単に選んでいただけるかしら?」
「何だと?」
「殿下に振られてしまわないよう、私が裏から全力でお手伝いいたしますわ。……まずは殿下が目覚められたときのために、最高にロマンチックで、情熱的なプロポーズのお言葉をご用意なさいませ? さあ、本当に行ってくださいな、陛下」
涙を浮かべながらも嬉しそうに微笑むロザリーに促され、アルチュールは小さく咳払いをすると、今度こそ扉を開けて歩みを進めた。
ブランシュへの執着と、絶対に彼女を死なせないという強い誓いを、その胸に深く刻みつけながら。
◇
深い、深い闇の底へ沈んでいく中で、ブランシュは不思議な夢を見ていた。
気が付けば、彼女は見知らぬ景色の中に立っていた。
それは、どこか温かく、美しい光に満ちた帝国の庭園だった。ブランシュのすぐ目の前には、まだ幼い、夜の闇を溶かしたような真っ黒な髪をした小さな男の子が立っている。
――幼き日の、アルチュールだった。
ブランシュは、影のように彼のそばに寄り添い、その記憶をそっと辿り始めた。
男の子は、先代の皇帝夫妻から大層大切に、深く深く愛されて育っていた。いつも優しい両親に抱きしめられ、男の子は幸せそうに微笑んでいる。
けれど同時に、彼はその小さな体に見合わぬ強大な力をコントロールするため、血の滲むような勉強と鍛錬を、毎日必死に欠かさず続けていた。時に身を灼くような高熱にうなされながらも、愛する両親を困らせまいと、じっと痛みに耐えていた男の子の姿に、ブランシュの胸はぎゅっと締め付けられる。
しかし、記憶の時計は無情にも、あの運命の日へと進んでしまう。
景色は一瞬で、酷寒の氷山へと切り替わった。
十二歳のアルチュールが、あまりの寒さに「身体が温かくなる魔法が使えたらいいのに」と、ただ子供らしい些細な願いを抱いた、その瞬間。
「――っ、ああ、あああ……っ!!」
暴走する漆黒の魔力。
ブランシュは、彼がその瞬間に感じた、血管を引き裂くほどの肉体的な激痛と、内側から肉体を灼かれるような恐怖を、自分のことのように完璧に追体験していた。
五臓六腑が裏返るような苦痛の中で、彼を必死に抱きしめる両親の姿。そして、アルチュール自身の体から猛り狂った業火が、一瞬にしてその二人の肉体を、骨の一片すら残さず灰へと変え去っていく光景。
最悪の悲劇の直後、彼の肉体を満たした、圧倒的な清涼感と解放感。
最愛の人々を殺したその足元で、何よりも心地よい安らぎを感じてしまった自分自身の悍ましさに、幼いアルチュールが涙を流して激しく嘔吐するその叫びが、ブランシュの魂へ直接なだれ込んできた。
(ああ……なんて、なんて酷い……)
夢の中で、ブランシュの純白の瞳から、静かに、静かに涙が溢れ落ちる。
アルチュールは両親に正しく愛され、それなりに幸せな幼少期を過ごしてはいたけれど、その強すぎる力のせいで、本当の意味で誰かと対等に触れ合い、交流を深めることのできなかった、あまりにも孤独な人だったのだ。
あの朝食の、賑やかさはなくとも穏やかだった時間。
あれは、アルチュール陛下が「真に望んでいながらも、誰かを殺さぬために、十五年間ずっと手放し、諦め続けてきた平穏」そのものだったのだと、ブランシュは深く、深く理解した。
――その瞬間、世界から一切の色彩が消え去った。
気づけば、アルチュールの過去の記憶は霧のように霧散し、ブランシュは何もない、ただ境界線のない真っ白な空間に、ぽつんと一人で立っていた。
「……本当に殿下は、優しくて、無鉄砲な人ですね」
ふいに、背後から降ってきたその声に、ブランシュの全身が大きく跳ね上がった。
忘れもしない。ルベリオンのあの冷たくて暗い塔で、自分の名前すら告げぬまま命を懸けて自分を世話し、守り続けてくれた、あの老侍女の声だった。
「――っ、あなた、なのですか……!?」
ブランシュは歓喜に震え、その姿を一目見ようと、勢いよく後ろを振り返ろうとした。
しかし、すぐ耳元に響いた声が、それを鋭く、けれどどこまでも慈しむように制止した。
「いけません。こちらを振り向いては、絶対にいけませんよ、殿下」
「どうして……? 私、あなたに、ずっと会いたくて……話したいことが……っ」
「ここを振り向いてしまえば、あなた様はもう、戻れなくなってしまう。……まだ、こちらに来てはいけないのです。殿下には、あちらで果たすべき、新しい『愛』があるのでしょう?」
姿は見えない。けれど、すぐ背後に、あの皺くちゃの温かい手が、そっと寄り添っているような気配だけが確かに伝わってきた。
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