第19話 黒の檻、白の救済
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重厚な扉を開けた瞬間、そこは音を立てて猛り狂う、漆黒の地獄だった。
ブランシュが最初に目にしたのは、床に乱雑に転がった漆黒の甲冑だった。
先ほど広場で見下ろした時にはなかった無数のひび割れが走り、ある箇所はドロドロに溶けて歪み、ある箇所は己の拳で叩き割ったかのように無残に破壊されている。凄まじい熱量と圧力に耐えかねて、内側から崩壊したのだと一目で分かった。
遮光カーテンが固く閉ざされた暗い部屋の奥からは、押し殺した獣のような、苦しげにくぐもった悲鳴が聞こえてくる。時折、内臓をすべてぶちまけるかのような、激しい吐瀉の音が室内に生々しく響き渡った。
ブランシュは怯むことなく、音のする方へと目を凝らす。
そこには、床に膝をつき、天蓋付きのベッドの縁に突っ伏した状態で、激しくのたうち回るアルチュールの姿があった。
「が、はっ、う、あ、あああ……っ!!」
彼は狂ったように自分で自分の体に爪を立て、皮膚を掻きむしっていた。引き裂かれた白いシャツは、滝のような冷や汗と、自らの爪が呼び込んだ赤黒い血でドロドロに汚れ、無残に肌へと張り付いている。周囲に漂う漆黒の魔力は、触れるものをすべて腐食させるかのようにパチパチと不気味な火花を散らし、嵐となって部屋中を吹き荒れていた。
見ているだけで胸が引き裂かれそうな、圧倒的な孤独の苦痛。
ブランシュはゆっくりと、しかし確かな足取りで、狂気の嵐の真ん中へと歩みを進めた。魔力を持たない彼女の体には、その嵐すらも無害な風に過ぎない。迷うことなく彼へと近づき、その痛々しく震える背中へ、後ろから優しく寄り添うようにして両腕を回した。
「――っ!?」
背中に触れた予期せぬ温もりに、アルチュールは弾かれたようにブランシュの存在に気が付いた。
直後、彼は獣のような激しい動作で、ブランシュの細い体を力任せに撥ね飛ばした。
「――なぜ部屋に入ってきた……っ!!」
床に倒れ込んだブランシュの視界に、正面から彼の顔が鮮明に映り込む。
激痛に歪んだ容貌。口の端からは絶え間なく赤黒い血が溢れ、顎を伝って滴り落ちている。何よりも痛々しかったのは、その漆黒の瞳が、恐怖と絶望による大粒の涙で濡れていたことだった。
「ロザリーは何をしている……! 早く出ていけ! 今すぐここを離れて、別館の防空壕へ避難しろ……っ! 俺に、近づくな!!」
枯れた声で狂ったように怒鳴りつけるアルチュール。それは怒りではなく、ブランシュを巻き込むまいとする、悲痛な拒絶の叫びだった。
けれど、ブランシュはただ静かにアルチュールを見つめ返した。
彼から放たれる凄まじい威圧感に怯えることもなく、床に膝をついたまま、ずるりと、さらにもう一歩彼へと近づく。そして、今度は正面から、彼の傷だらけの胸元へ飛び込むようにして、その大きな体を強く抱きしめた。
「大丈夫です。私は、どこにも行きません」
言いながら、細い腕にぎゅっと力を込める。
これまでの三ヶ月、あの冷たい塔から自分を連れ出し、初めて人としての温もりを教えてくれた、大切な人の体。ブランシュは、かつてルベリオンの老侍女が自分にしてくれたように、彼の背中を優しく、ゆっくりと、大きな愛を込めて何度も何度も撫でた。
「やめろ……っ、離れろ、ブランシュ……!!」
胸の中に収まる純白の少女の温もり。その心地よさを感じた瞬間、アルチュールの脳裏に、かつて自分を優しく抱きしめながら焼き殺されていった、最愛の両親の最期が鮮烈にフラッシュバックした。
激しい動揺が彼を襲い、アルチュールは嗚咽を漏らしながら、再びブランシュの体を強引に引き剥がそうと、その肩を強く掴み、必死に訴えかける。
「あの時の、あの炎は……一秒だって、忘れられたことはないんだ……っ! 俺は……俺の力は、愛してくれるものをすべて灰にする……!! もう、誰も殺したくない……っ、頼むから、行ってくれ……!!」
親殺しの業火。人を殺し、大地を焼き尽くすことでしか生き延びられない死神の呪い。
涙を流して震える皇帝の姿に、ブランシュはただ、深い慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
再び苦しみに顔を歪め、その場に蹲ろうとするアルチュールを、彼女はなおも逃がさないように強く、強く抱きしめ直す。引き裂かれたシャツの合間から汗ばんだ彼の肌を感じた。頬をぴたりと付け、一部の隙間もないほどに強く強く、抱きしめる。
「でもわたくしは、今、あなたを一人にしたくないのです」
その瞬間だった。
部屋を埋め尽くしていた漆黒の霧が、ブランシュを中心に、目に見えるほどの大きな渦を巻き始めた。
またあの炎がすべてを焼き尽くすのかと、アルチュールの脳裏に絶望的なトラウマが蘇る。しかし、次の瞬間――猛り狂っていたはずの黒い嵐は、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。
「……え?」
二人の間に、張り詰めたような静寂が訪れる。
何が起こったのか、二人とも全く分からなかった。アルチュールは信じられないものを見る目でブランシュを見つめ、ブランシュもまた、呆然と口を開けて彼を見つめ返していた。
やがて、驚愕のあまり、ブランシュの肩を掴んでいたアルチュールの手から、完全に力が抜けた。
大きな、骨張った彼の両手が、ブランシュの膝の上へと、ぽとりと力なく落ちる。
その時、ブランシュの白い肌と、アルチュールの傷だらけの手が、直接触れ合った。
――ズ、ウ、ウ、ッ!!!
刹那、言葉を失うほどの衝撃が、二人の肉体を駆け抜けた。
アルチュールの体内で限界を迎え、肉体を内側から引き裂こうとしていた狂おしいほどの『漆黒の魔力』が、その接触面から、もの凄い勢いで津波のように吸い出され始めたのだ。
それは、ブランシュという『巨大な空っぽの器』へ向かって、すべての黒がなだれ込んでいくかのような、圧倒的な吸引だった。
「あ……、あ……」
アルチュールは息を呑んだ。
血管を灼いていた鉛のような激痛が、みるみるうちに引いていく。十五年前、両親を殺し尽くした後にしか感じられなかった、あの憎むべき、けれど何よりも恋焦がれた「圧倒的な清涼感」と「心身の解放感」が、今、目の前の少女に触れているだけで、濁流のように彼を満たしていく。
一人で背負い続けてきた死の苦痛が、一滴も残らず消え去っていく、奇跡のような安らぎ。
アルチュールの顔から苦悶の色が消え去ったのを見て、ブランシュは、本当に嬉しそうに、柔らかい微笑みを向けた。
「良かった……。わたしの祝福は、あなたにも、分け与えられるものだった……」
お互いに、祝福を受けたものは、持たざる者へ捧げ合う。
マルタの言葉通り、自分に宿っていた「空っぽ」という祝福を、この人に捧げることができた。その深い安堵と喜びが、彼女の脳裏を満たした、その直後。
「――ごふっ、つ……っ!?」
内臓を激しく突き上げられるような衝撃と共に、ブランシュの口から、赤黒い血が勢いよく飛び散った。
アルチュールの強大すぎる漆黒の魔力。内側から襲いかかる凄まじい負荷に、ブランシュの意識は一瞬で暗転した。
彼女の純白の身体が、そのまま力なく床へと倒れ込む。
「ブランシュ……!? ブランシュ、目を開けろ!! ブランシュッ!!!」
静まり返った部屋に、今度は必死に彼女の名前を叫ぶ、アルチュールの悲痛な声が響き渡る。
気を失ったブランシュが倒れた冷たい床には、彼女の美しい、絹糸のような髪が、扇状に淡く広がっていた。
そのまばゆい純白だったはずの髪の毛先は――あのおぞましいどろりとした真っ黒な色へと、深く、深く染まり変わっていた。
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