第17話 死神の帰還
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
図書室でマルタから帝国の高潔な思想を学び、この国がますます大好きになってから、さらに数週間が経った頃。
城内の空気が、にわかにピリピリと張り詰め始めたのを、ブランシュは敏感に感じ取っていた。
「殿下、本日は本館の図書館散策は控え、終日お部屋でお過ごしくださいませ」
朝食を運んできたロザリーの顔は、いつになく真剣で、どこか悲痛な色を帯びていた。理由を尋ねると、ロザリーは静かに、けれど重い口調で告げた。
「……皇帝陛下が、遠征から戻られるのです」
あの朝食の日以来、何ヶ月も姿を見ていなかった漆黒の皇帝。
彼は隣国との国境付近で起きた小規模な紛争を鎮圧するため、単身で最前線へと赴いていたのだという。
「お怪我をされたのですか……?」
「いいえ。あの方は戦傷など負いません。……ただ、いまのあの方の身からは、常人では近づくだけで息絶えるほどの、凄まじい魔力が漏れ出してしまうのです。近衛の騎士たちですら、帰還後数日はあの方の私室の階層へ近づくことは許されません。ですから殿下、決してあの方の領域へは近づかぬよう、お約束してください」
ロザリーのその言葉に、ブランシュは胸がざわついた。
家庭教師の先生から聞いた、帝国の歴史。そして、世間が彼を『親殺しの冷徹なる皇帝』『殺戮を愛する狂王』と恐れ、罵っているという事実。
だが、ブランシュの知るアルチュールは、不器用ながらも自分に柔らかな椅子を用意し、体に優しい食事を共に摂ってくれた、誰よりも温かい人だ。
(なぜ、あの方はそれほどまでに戦い続けなければならないの……?)
そんな疑問を抱えながら部屋で過ごしていると、昼下がりの頃、城の地響きのような大門が開く音が、遠くから響いてきた。
ブランシュは引き止められるのも聞かず、自室のバルコニーへと走り、遥か下方にある白亜の広場を見下ろした。
「……っ…!」
あまりの光景に、ブランシュは両手で口を覆い、息を呑んだ。
広場に滑り込んできた一騎の黒馬。
そこに乗っていたのは、漆黒の甲冑を身に纏ったアルチュールだった。
しかし、その姿はあまりにも異常だった。彼の全身から、どろりとした不吉な、文字通り世界を侵食するような『漆黒の魔力』が、肉眼で見えるほどの濃霧となって吹き荒れていたのだ。
漆黒の霧が触れた広場の美しい石床が、パチパチと不気味な音を立てて微かにひび割れていく。
周囲に整列していた屈強な帝国の騎士たちが、誰も彼もが青ざめた顔で冷や汗を流し、その圧倒的なプレッシャーに耐えかねて次々と地面に膝をついて平伏していく。
誰も、彼に近づけない。
誰も、彼に触れることすらできない。
馬から降りたアルチュールは、ふらつく足取りのまま、誰の力も借りずに一人で皇城の奥へと歩いていく。その背中は、見ているこちらが引き裂かれそうになるほど、孤独で、傷だらけで、そしてひどく苦しそうに歪んでいた。
(ああ……あの朝食の時の……)
ブランシュは思い出す。あの静かな朝、自分の正面で、ナイフを握る手に血が滲むほどの力を込め、奥歯を噛み締めて何かに必死に耐えていた彼の姿を。
あの時の何倍、何十倍もの苦痛が、今、彼の肉体を内側から破壊しようとしているのだと、言葉を交わさずとも直感で理解した。
神の祝福を受け、強い魔力で国と民を護るために戦っているはずの、偉大な皇帝。
それなのに、あの人は今、誰の力も借りられず、たった一人で暗闇の苦しみに沈んでいる。
(――持てる者は、持たざる者へ捧げ合う)
マルタから教わった、帝国の美しい思想が、ブランシュの頭の裏で激しく鳴り響いた。
私には、魔力がない。だから、自分にできることなど、この大きな帝国には何一つ無いのだと思っていた。
でも、きっと違う。マルタの言う通りなら、神様は私にだって、何かしらの祝福をくださったはずなのだ。
それが何であるかは、まだ私には分からないけれど。
けれど、あの孤独な背中に向けて、私にしか出来ないことが、どこかに必ずあるはずなのだ。
「……陛下」
バルコニーの柵をきゅっと握りしめ、ブランシュはアルチュールが消えていった城の奥深くを、真っ直ぐに見つめていた。
自分を救ってくれたあの温かい人を、今度は私が救いたい。
その強い決意が、純白の少女の胸の中に、消えない灯火となって宿った瞬間だった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




